柴田錬三郎著 忍者からす 目 次  忍者からす  一休禅師  山中鹿之介  塚原卜伝  丸目|蔵人《くろうど》  由比正雪  幡随院長兵衛《ばんずいいんちょうべえ》  蜀山人《しょくさんじん》  国定忠治  解説  忍者からす  一  私が、忍者「鴉《からす》」の存在を知ったのは、かなり以前、武田信玄の軍師|山本勘助《やまもとかんすけ》について調べた時であった。  天文十四年正月二十日——。  山本勘助は、その稀にみる醜い姿を、諏訪湖畔にそびえる高島城の大広間に、ぽつんと、正座させていた。  すでに、城の三方は、武田|晴信《はるのぶ》の軍勢六千余によって、包囲されていた。  諏訪勢は、前日の普文寺《ふもんじ》の激闘で、全滅し、城内には、一兵ものこってはいなかった。  山本勘助は、武田衆に、城内へ雪崩《なだ》れ入ることを許さず、おのれただ一人、跛《びっこ》で、眇眼《すがめ》の、醜怪な小駆を、一歩毎に大きく上半身を傾け乍《なが》ら、運び入れたのであった。  勘助は、もう四|半刻《はんとき》も待っていた。  ようやく、廊下を近づいて来る人の気配に、勘助は、両手を畳につかえた。  入って来たのは、目のさめるような美貌の、十七八歳の≪じょうろう≫であった。侍女三人をしたがえていた。  城内にのこっているのは、この四人の女性《にょしょう》だけであった。≪じょうろう≫は、諏訪|頼茂《よりしげ》の女雅姫《むすめのりひめ》であった。 「山本勘助にございまする」  勘助は、挨拶した。  雅姫は、上座から、凝《じっ》と、勘助を見据えていたが、 「父をころしたのは、その方であろう」  と、云った。  勘助は、こたえなかった。ただ、頭をさらにひくく、下げただけであった。  雅姫の云い当てた通りであった。  二年前の春、勘助は、主君晴信が、諏訪家政略の総進撃を起さんとした際、これをとどめて、単身、諏訪頼茂が拠《よ》る上原城に乗り込み、和議を申出て、巧みに頼茂を、古府中《こふちゅう》の陣営へおびき出し、これを、一刀のもとに斬ったのである。  いわば、最も卑劣なやりかたで、信州の名家諏訪氏を亡《ほろぼ》したのである。  それから、今日まで、勘助は、雅姫にむかって、五度び使者を遣《つかわ》して、衷心より歎願の手紙を渡していた。雅姫の返辞は、一度もなかった。  勘助は、いま、その返辞をききに来たのである。  沈黙があった。  勘助は、待った。  やがて、雅姫の口から、澄んだ声音《こわね》が流れ出た。 「熊野の誓紙《せいし》を貰いとう存じます」  勘助は、はっと、頭を擡《もた》げて、雅姫を視《み》た。その美しいろうたけた面差は、すずやかであった。父を殺した男に対する憎しみの色など、みじんもなかった。  勘助の醜い貌《かお》に、一瞬、苦渋の皺が深く刻まれた。しかし、すぐに、 「けなげなお覚悟でござる。承《うけたまわ》りましてござる」  と、平伏した。  戦国|秘史《ひし》の挿絵にでもなりそうな、静かな、美しい場面であった。  甲斐源氏《かいげんじ》武田家の命運を決定する重大な一瞬であった。  勘助が、五度び使者を遣して歎願したのは、主君晴信の側室になって欲しい、ということであった。  雅姫の美貌は、あまりに噂が高いものであった。英傑色を好む晴信が、すてておく筈がなかった。しかし、その目的は、さらに政略がからんでいた。  諏訪家は、信州随一の名門である。これが滅亡した悲惨は、地下人《じげにん》たちの心をいかに痛めているか、容易に想像がつくところである。当然、攻め撃った武田家が、憎悪されている。  さいわいに、諏訪家の女《むすめ》を、武田家に納《い》れて、その間に出来た男子に、家督を継がせれば、事実上、諏訪家の血が活きることになり、諏訪地方の人々の心をなだめることができるであろう。  信州経営のためには、まず諏訪地方を治めることが第一であった。これは、晴信の父信虎の時代からの懸案だったのである。  勘助は、是非とも、雅姫を承諾させたかった。  雅姫の返辞は、 「熊野の誓紙を、貰いとう存じます」  それだった。これは、勘助の乞いを承諾することを意味した。  二  雅姫の希望した熊野誓紙の文面は、ただの一箇条だけであった。  すなわち、 『武田晴信と雅姫との間に誕生した男子は、将来|屹度《きっと》武田家の世嗣とすること』  それであった。  これは、すでに、勘助の胸中にあったところである。  しかし、雅姫自身が、この一片の、いわば遠い将来の空約束によって、父を殺した男にむかって、その主君に身を任せようと承諾したのは、果して、苦しい時の神だのみ、単純な信仰にすがっただけであったろうか。  武田晴信は、後世に於て、元亀《げんき》・天正《てんしょう》の乱世にあってさえも悪人帳の筆頭にされた謀将であった。  父信虎を追放し、一子義信を殺した人物である。  謀略に次ぐ謀略を以てし、仏教に対して夙好《しゅくこう》があり、家法にも「参禅|嗜《たしな》む可きこと」「仏神信ず可きこと」の条項を持ち乍らも、ひとたびおのが都合によれば、神仏に誓った和議協定も、翌日には、平然と破棄して、奇襲を以て衂《ちぬ》る、といった武田晴信の冷酷無慚な実利主義を、いかに深窓に育ったとはいえ、雅姫が、知らなかった筈はあるまい。  げんに、父頼茂は、その非道な策略にひっかかって、討たれているのである。  雅姫は、将来の空約束をたよりに、人身御供《ひとみごくう》となることを、諾《うべな》ったわけではないのである。  それが証拠に、熊野誓紙ときいて、さすがの山本勘助が、一瞬、顔色の変る緊張ぶりを示している。  時代は、下克上の、人倫すたれた戦国である。無形の神仏が、重大な契約の保証たり得る道理《わけ》がない。そこには、必ず、慥《たし》かな現実的効果が裏打ちされていなければならぬ。  それでこそ、誓紙本来の神力を発揮するというものであった。  扨《さて》——。  雅姫が、古府中に移されて、武田家の館に入ったのは、それから一月後であった。  当夜、密室に於て、護摩は焚かれ、熊野権現の荘厳《しょうごん》を照し出した。その神秘な雰囲気の中で、熊野誓紙は、姫に手渡された。  姫は、しばらく、熊野誓紙を凝視していたが、何を思ったか、しずかにそれを、神火の中に投じた。  一枚の紙は、たちまち、めらめらと燃えあがって、灰と化してしまった。  奇怪なことであった。  大切な証拠の契約書を、火中に投じてしまうとは、何事であったろう。  晴信はじめ、武田家の老臣たちは、納得し難い面持で、見戍《みまも》らざるを得なかった。  ただ一人、山本勘助だけは、一面に疱瘡の痕をとどめた面貌に、名状し難い苦渋の色を刷《は》いていた。  翌年秋、雅姫は、男児を出産した。  その稚児《わこ》を初めて視たのは、山本勘助であった。  雅姫は、褥《しとね》に仰臥して、胸で両手を組み、目蓋を閉じていた。  勘助が正座しても、雅姫は、目蓋を開かなかった。その寝顔は、滑石《なめいし》でつくられたように冷たかった。 「和子様御誕生、お目度う存じまする」 「約束にしたがって、諏訪家の血を受けた稚児を、武田家の世嗣にしてもらいます」 「このお約束は、山本勘助の生きている限り、必ず果たしまする」 「たのみます」  二人の約束は、正史《せいし》が示す通り、正確に、実行された。諏訪家の血を継いだ勝頼は、武田家の相続者となったのである。  しかし、これは、山本勘助一人の働きによるものではなかった。  雅姫は、ただ一枚の誓紙に、たよったのではなかった。  その誓紙を裏打ちする実体が、蔭に存在していたのである。  すなわち。  熊野権現の幻の兵力——「鴉」と称《よ》ばれる忍者の一団が存在したのである。  武田晴信は、雅姫の希望によって、熊野へ、甲州金で大判五百枚を奉納した、と伝えられる。その莫大な金は、忍者「鴉」へ渡されたことになるのであった。  それ故に——。  誓紙が、姫の手で火中に投じられた時刻から、これを守護する「鴉」の群は、日本全土にある三万六千という熊野神社の末社を諜報網として、隠密の行動を開始したのであった。  比叡《ひえい》や奈良では、見た目にも威《おど》しのきく兵力を擁していたのに対して、熊野では、その地を利して、変幻自在の忍びの一団によって護られていたのである。  この物語では、まず、忍者「鴉」の誕生の因縁を、明らかにするものである。  これから述べる文中に、祈祷奉行なぞという名称が出て来るが、これは、時代が、室町時代——将軍は足利義満、南朝と北朝が合一する機運にあった頃であることを、示している。  三  秋もふかまった季節の某夜——そろそろ、二更もまわろうとする時刻であった。  熊野灘の波浪の音がきこえる太地《たいじ》の湊《みなと》の山寄りの館の奥間で、三人の年配の男たちが、一人のうら若い、美貌の女《むすめ》を、とりかこんで、固唾をのんでいた。  長い沈黙が、部屋を占めていた。  俯向いて、膝で両手を組んだ娘は、彫像にでも化したように、身じろぎもしないでいる。  眉目に一点の欠点も見当らぬ、芙蓉の花びらに似た白い、豊かな肌をもったこの娘は、百年前に太地の湊が開かれて以来はじめて生れた絶世の美女と、もてはやされていた。名は、於兎《おと》という。  とり巻く三人の男は、三座の長《おさ》たちであった。  領主|九鬼《くき》氏の治下にあるとはいえ、ほぼ完全な自治制を布《し》いているこの湊は、三人の支配者によって、なにごとも、協議され、実行されていた。すなわち、町政、軍事(水軍)、造船の首領たちであった。これを、三座の長と、称《よ》んでいたのである。  軍事のかしらは、木戸《きど》の弥郎次《やろうじ》。  町政のかしらは、辻の善左衛門《ぜんざえもん》。  造船のかしらは、九鬼《くき》の紋太郎《もんたろう》。  いま、三座の長は、美女於兎に対して、むごい要求をつきつけて、その諾否を迫っているのであった。  いや、於兎には、拒絶されてはならぬのであった。是が非でも、承知してもらわなければならなかった。  とはいえ、於兎の意志が、断乎として拒否すれば、三座の長と雖も、これを許さぬ権力があるわけではなかった。思いひるがえさせるために、さらに、幾日かの膝詰談判の忍耐を覚悟するばかりである。  ようやく——。  於兎は、頭を擡げた。  その朱唇《しゅしん》を割って出たのは、 「長《おさ》がた、熊野の誓紙を頂きとう存じます」  その言葉であった。  眸子《ひとみ》は、|※[#目へん+分]《はん》として、冷たく澄んでいた。 「おお、よう得心してくれた。われら、徒《いたずら》には、扱うまいぞ」  木戸の弥郎次が、なんども大きく頷《うなず》いた。 「誓紙のことは、宝念坊《ほうねんぼう》とも、よう談合しようほどに、安心したがよい」  分別顔で、そう云ったのは、辻の善左衛門であった。  九鬼の紋次郎は、二人の言葉を保証するように、願いをここに呑んだとばかり、分厚い胸を張ってみせた。  正直なところ、前例のない於兎の願い事は、三座の長たちを、いささか戸惑わせた。  ——どうして、熊野の誓紙が欲しいのか?  すぐには、合点のいかぬ女心ではあった。  しかし、さし当っての難題さえ解決すれば、あとは、神仏の加護に任せようというものであった。  三座の長たちは、於兎に対して、天竺《てんじく》から渡航して来た首比達《しゅびたつ》という巨漢に、花の莟《つぼみ》を摘まれることを、迫っていたのである。  一月前——。  天竺の船造師・首比達が、於兎を見染めたのは、南国の情緒豊かな仏僧華《ひびすかす》が、たった一日の生命の花びらを、燃えるようにひらいている生籬から、垣間見たため、と噂されていたが、実際は、明るい気性の於兎の方から、もの珍しさに、籬《まがき》のそとを通る異邦の男の様子を覗いて、赤銅色の逞しい風貌と体躯を飾る扮装に、思わず声を立て、振りかえった首比達は、そこに、花よりも豊麗な美女を、発見した、という次第であった。  倭人《わじん》の風習も言葉も知らぬ天竺の男にすれば、若い女から笑顔で声をかけられた、と思い違いしたのかも知れなかった。  首比達は、皮膚こそ漆のように黒光りしていたが、眉目は秀《すぐ》れて、春秋の史書に現れる武人の魁偉《かいい》にも通じるものがあったし、造船の新しい技術を身につけた知識人でもあった。  白絹のターバンと金の耳輪と、朱の服が、於兎を愕《おどろ》かせたとはいえ、それはよく似合っていたのである。  当時、日本三水軍の随一と称せられていた熊野灘の海賊は、ようやく画期的な遠洋航海へのり出そうとしていた。そのためには、なによりも、巨船を造らなければならなかった。  首比達は、そのために、はるばる天竺から招聘された設計技師であった。いわば、熊野海運の未来を賭けた大切な賓客なのだ。  そして、この熱帯生れの巨漢が、長期間の滞在をするとなれば、当然、本能の要求が起ることも、配慮しておくべきだったのだが……。  首比達の本能は、於兎を一瞥《いちべつ》したために、猛然と起った。 「私は、妻を持つ決意をした。我が出会うた女《むすめ》は、我を視て、笑うた。我が妻にする女は、≪ひびすかす≫よりも美しい彼の女を措いて外には居らぬ」  首比達は、三座の長たちにむかって、率直に、おのが意嚮《いこう》を伝えたのである。  要求されてうろたえても、もはやおそかった。  対手《あいて》が於兎と判《わか》った三座の長たちは、大きな溜息をついたことだった。  於兎は、酒楼の遊び女《め》ではない。一応の山分限者《やまぶげんしゃ》の愛娘であった。 「これは、どだい、成らぬ相談と申すものだて——」  町政を司る辻の善左衛門は、長い頤《あご》をしきりに振って、 「まずは、都々辺《ととべ》(青楼のならんだ街)の女子《おなご》の中から、於兎に似たのをえらんで、因果を含めて、身替りさせてはどうであろうぞい」  これは、世故にたけた常識人の意見であった。 「首比達の目をごまかせるなら、歎息などは、無用であろう」  造船の責任者の九鬼の紋次郎が、いまいましげに、吐き出した。天竺の言葉が、どうやら判るくらいに、毎日親しく接している紋次郎は、首比達の性格も、のみ込みかかっているのである。 「婆羅門《ばらもん》の信者は、妻を娶《めと》るとなれば、生娘でなくてはならぬ掟がある模様じゃ。遊び女を、生娘にしたてて、あてがったことが、あとで露見したならば、どのような事態が起るか、目に見えるわい。……首比達は、これまで、一度も、都々辺へ足をはこんで居らぬ。あれだけの逞しいからだを持った男が、女子をきらいな筈があるまい。したれば、じっと、おのが欲を禁じていたものであろう。こういう男が、一目惚れしたとなれば、女の姿かたちは、眼底に焼きついてしもうたに相違ない。どうにも処置ない仕儀と申すものよ」  そう云って、紋次郎は、腕を組んでしまった。 「さても、弱ったの」  水軍の指揮をとる木戸の弥郎次も、二人と同じ思案にあまった顔つきになった。 「思うに、これは、欲得ずくで親を承知させただけでは、埒《らち》があくまい。なにせ、当人が、一度かぶりを振ったら、もうテコでも動きはせぬ。むり強いすれば、岬から海へ身を投げてでも、男を振るのが、熊野の女じゃ。殊に、於兎は、器量も抜群じゃが、気性もはげしい。とても権柄《けんぺい》ずくで行くものではない」  この時、突然、辻の善左衛門が、丁《ちょう》と膝を搏《う》った。 「よい思案がある!」  善左衛門は、二人の顔を視くらべて、 「わしは、昨夜、睡られぬままに、梵鐘の音をきいていたのだが、その時は、なんの思案も泛《うか》ばなんだ。いま、思いついたぞ。これはひとつ、大社の宝念坊殿に、三世《さんぜ》の理《ことわり》を説いてもらってはどうであろうかの。あの御坊の弁舌は、感応あらたかでのう、愛染明王《あいぜんみょうおう》の化身じゃと、そこいらの女房どもは大層な信心ぶりゆえ、於兎も、承諾するのではあるまいか」 「成程、宝念坊とは、よいところに気がついた」  弥郎次も、大きく合点した。 「首比達は天竺の御仁——、つまりお釈迦様の末裔というわけじゃ。その御仁が、権現様の招きで渡来された、と宝念坊の才覚で、町中へふれてもらったら、かりに於兎が、首比達の嫁御《よめご》になっても、肩身のせまい思いをせずともすむ。かえって、親たちの名誉になるというわけではあるまいか」  早速に、鄭重《ていちょう》な奉納の目録が作製され、大社の奥の愛染明王堂へ、もたらされたのであった。  四  異常な天才児が誕生する時は、必ず奇蹟の予告がなされたものである。  忍者「鴉」の場合も、例外ではなかった。  那智の霊験記によれば、元中三年秋、南海の天に、巨大な流星が、赤い尾を引いて出現し、太地の湊の上空で、炸裂するや、無数の光の粉を降りそそいだ、という。  たしかに、大気が澄んで、星の煌《きらめ》く夜空に、花火のような流星群の乱舞は、壮観であったろう。  三座の長たちの依頼を受けていた宝念坊が、この天変を知るや、咄嗟に、これを利用する狡智を働かせたのは、当然であったろう。  翌朝、尤《もっと》もらしい宝念坊の姿が於兎の家に現れた。そして、庭さきから、霊気が発すると称して、土を掘りおこし、拳大《こぶしだい》の黒光りのする隕鉄を掴み出し、集って来た人々に示したのであった。  おそらく、天外から落下して来たその鉄塊は、前もって、宝念坊が、用意しておいたしろものであったろう。  太地の湊では、前夜の流星の感動がまださめやらぬ最中《さなか》であった。そこへ、天変につづいて、地異と来たのである。  あとは、格別の狡智を働かせずとも、宝念坊は、数珠をまさぐって、もったいぶった誦経ぶりを示していれば世間は、おのが思惑通りにはまり込んで来る、というものであった。  もとより、於兎とても、奇妙な隕鉄を、掌《て》の上へのせられ、まことしやかな口上をきかされると、自分に与えられた宿命の重さを、ひしとおぼえて、疑惑の翳《かげ》も、脳裡を掠《かす》めさせる余地はなかった模様である。  宝念坊の説法は、二刻《ふたとき》(四時間)以上もつづいたという。  要は、天竺の船造師・首比達に嫁ぐことが、三世の因縁である、ということであった。  於兎が、三座の長にとりかこまれて、 「熊野の誓紙を頂きとう存じます」  と、こたえたのは、その次の夜だったのである。  今日、那智の滝の近くにある愛染堂に、一幅の於兎像がのこっている。  それは、宝念坊に、三世の因縁を説かれた時の放心状態の貌を写したもののようである。重ねた両の掌の上には、金色《こんじき》の宝珠がのせられている。真黒な隕鉄が、美化されたものと解釈してよろしいようである。  於兎は、奇蹟を信じた。  それゆえ、天竺人に嫁ぐ心もきまったのである。於兎は、嫁入り道具のひとつの手鏡を、この隕鉄でつくった。そして、嫁ぐや、絶えず座右に置いて、その嬌面をわかったそうである。於兎が、宝念坊から吹き込まれた信仰は、終生かわらなかったのである。  さらに——。  後年、忍者「鴉」の護身の如意鉾《にょいぼこ》——「白光《びゃっこう》、空を奔《はし》って、人を刺す」と謂《い》われた神変不可思議の働きをした双刃《もろは》三寸の懐剣は、母於兎の形見の明鏡から、鍛え直されたものであった。  信仰は、母から子へ、そのままに、受け渡されたのである。  こうなれば、隕鉄掘り出しの手際も、ただ狡猾な詐術《トリック》であった、と非難するだけではすまないのである。悪智慧も働かせかたで、人間に不退転の信念を植えつける作用も可能である、という例証となる。  三座の長たちが、頭を竝べて、 「太地の興廃にかかわる儀なれば、人身御供のようではありますが、何卒《なにとぞ》御坊の仏力をもって、於兎の心を、傾けて下さいまするよう——」  と、拝跪された宝念坊が、たまたま、南の空から翔けて来た流星群を視て、あるいは、なにかしら、天意のようなものを感じとったのかも知れないのである。  嘘も方便、というが、もしかすれば宝念坊は、自身の着想に、嘘を意識していなかったのではあるまいか。  いずれにせよ——。  宝念坊は、放心した処女の美しさを眼前にした瞬間から、陰に陽に、於兎の最良の保護者になったのである。  後世、諏訪家の姫に対する山本勘助の立場が、やはり、宝念坊の轍《てつ》を踏んでいるのである。才気あふれる初老の独身男《やもめ》が、無垢な美貌の女性《にょしょう》に感動すると、いかにも邪念を放棄した、純粋な蔭の守護神たろうと心掛けるのである。  於兎は、首比達に嫁ぐのを承諾するにあたって、熊野誓紙を要求した。  しかし、この考えは、まだ十八歳の娘の脳裡から生れるのは、無理なようであった。おそらく、宝念坊が、裏から教えたに相違ない。それも、決して、奉納金目あての悪だくみではなかった。  於兎の申出た誓紙の文面は、 『天竺の人・首比達と、太地の女《むすめ》・於兎と婚姻するにあたり、熊野権現に誓って申す。両人の間に誕生した男子は、成人するに及んで、必ず三座ことごとくの長たるべきこと』  との一項目を入れていたのである。  辻の善左衛門、九鬼の紋太郎、木戸の弥郎次が、連署し血判した。  誓紙は、愛染明王の前で、宝念坊によって読み上げられた。  愛染明王は、その名こそ優しげであるが、憤怒の相は、不動明王よりもおそろしげで、金色《こんじき》の双眸は、焚かれる護摩の火焔を受けて、妖しく煌いた。  於兎は、まばたきもせずに、明王を瞶《みつ》めていた。憑かれたようなその姿は、人間ばなれのした異様な美しさであったと、三座の長たちは、後日語りあったことである。  読み上げられた誓紙は、つとさしのべた於兎の手に把られて、火中に投じられた。  白煙は、空に散じて、消えさった。  首比達は、於兎を手に入れ、太地の湊は、その祝宴で、三日三晩、酔い痴れたのであった。  それから百五十年の後——  諏訪家の雅姫は、この故事を、誰からともなくきいていて、人身御供のおのが宿運を、於兎に従わせようとしたものであったろう。  五  首比達と於兎の結婚生活は、十年つづいた。琴瑟相和《きんしつあいわ》したものであった。  熊野の地形は、日本の国内にむかっては、山嶽にへだてられて、他郷と交易する陸路を持たぬ、閉鎖された別天地をなしていたが、無限の海にむかってひらけていたため、その海の彼方に、さまざまの国が存在することを、知らされていた。したがって、異国というものを怖れない気宇に満ちていた。首比達が、太地の湊で、いつか、三座の長に次ぐ地位を与えられていたのは、そのおかげであった。二人の結婚を、妨害する者なぞ、一人としていなかった。  於兎自身、熊野誓紙を受ける時、愛染明王の形相に、一種異様な感動をおぼえ、興奮したせいか、明王に比べればむしろ柔和とさえいえる首比達の風貌に、すこしも戦慄せずに済んだ。  覚悟はすでにできていたので、初夜の牀に就いても、恥かしさはあっても、恐ろしさはなかった。その恥かしさにしても、同国人との間に起るようなものではなかった。  首比達は、性典《カーマ・スートラ》の国に育った男であった。女人の扱いにかけては、緩急自在の心得があった。  さらに、特記しておくべきは、はるばると日本へ渡って来る時、首比達の荷物の中には、天竺の珍貴な薬物が、充分に用意されていたのである。天竺は、女性を、恍惚たる陶酔境に誘い込む薬草が、無数に生い茂っている国であった。  印度|大麻草《たいまそう》をはじめとする薬物の知識は、於兎に伝授され、そして、それは、その子に受け継がれたに相違ない。  秘薬毒薬の効能は、今日想像する以上に、はるかにあらたかなものであったろう。殺人の自由な時代であった。敵に対して使用するのに、なんの遠慮容赦はなかったのである。いわば、生体実験を、充分に行うことができたのである。  いかなる女性にも、娼婦の素質はある。後年、於兎が、堺の湊で、遊女として艶名をはせたのは、並の日本の女としては到底味わえない、天竺の男の奉仕と秘薬によって、その肉体が訓練されていたからであったろう。  首比達は、於兎を娶ってから二年も経たぬうちに、その名を、京の都にまで、ひびかせた。戦闘のための鐔船《つばぶね》、槍船《やりぶね》をつくりあげて、兵庫湊あたりまで押しまわって、諸方の武将の目を見はらせたからであった。  当時、北朝方についていた瀬戸内の水軍が、南朝の背後を衝こうとして、兵船団を押し出して来るや、鐔船と槍船は、紀の川口に迎え撃って、悉《ことごと》く海底の藻屑と化さしめ、為《ため》に、南北合一の時期をはやめる功績があった。  三年めに、一人の男子が誕生した。  太地の湊の人々は、誰しも、父首比達によく似た黒い子が生れるだろう、と思っていたが、その期待にはずれぬ子であるばかりか、なんとも異形の嬰児であった。  月満ちて生れたが、未熟児のように、五百匁にも足らず、にぎりしめた小さなこぶしの中まで黒かったのも、然《さ》る事乍ら、口の上下の骨がひどく突出していて、厚い唇を火口のようにめくれあがらせていたのである。のみならず、産声もあげず、四肢も動かさなかった。  取上げた老婆は、あまりの異様さに、一瞬、悸《ぎょ》っとなり、どうやらこのまますてておけば、息が絶えるであろうと、吻《ほっ》としたくらいであった。  父首比達も、男児ときいて悦び乍ら、産室に入って来て、覗き込むや、思わず、眉字をひそめたものであった。老婆が、この嬰児《やや》はたすかるまい、と告げると、安堵したように頷いていた。  しかし、全身骨無しのように、ぐったりとした黒児は、母於兎の乳首をくわえさせられると、せっせと飲みはじめ、老婆や父親の期待をみごとに裏切った。  母於兎だけは、この醜怪な肉塊を、愛した。  晴れた日には、必ず、庭に坐って、乳を吸わせ乍ら、手足を撫でてやった。太陽の光で、骨を強くしてやろうとの、けんめいの配慮であったろう。  この児は、港の人々から、本名を呼ばれたことはなく、「鴉」というあだ名で、噂された。「鴉」は、三年間、泣かず、匐《は》わず、口をきかなかった。そして、母の乳房だけを、むさぼりつづけた。  父首比達が、はじめて、わが子が、ただの白痴児ではない、と認識したのは、満一歳になった某夜であった。  妻の熟した肉体の愛撫に、精魂を尽して、ようやく、その上から起き上ろうとしたとたんであった。  何気なく向けた視線のむこうに、「鴉」の小さな黒い貌《かお》があった。 「鴉」は、いつの間にか、目をさまして、その丸いつぶらな双眸《ひとみ》を、光らせて、じっと、父を瞶《みつ》めていた。  首比達は、薄気味わるいものをおぼえて、わが子のまなざしを受けとめた。「鴉」は、まばたきもせずに、父を瞶めつづけた。  ——こいつは、両親の睦み合いを、ずうっと、眺めていたに相違ない。  そう思った瞬間、首比達は、わが子が、実は、白痴どころか、予測もつかぬ異常な才智をもって生れて来たような気がした。 「鴉」が、最初の異変を示したのは、父首比達が、鐔《つば》、槍船の軍船団を率いて、紀の川口の海戦に臨むべく、湊の浜に勢揃いした時であった。  見送りに来た母の腕の中から、突如、「鴉」は、はねあがって、砂地へ落ちると、よちよちと歩いて、父の前へ行き、 「須須発発哺」  と、叫んだ。  歩いたのもはじめてであれば、人語を発したのも、はじめてであった。 「歩いたぞ!」 「何か云うたぞ!」  周囲の人々は、仰天して、黒児を見戌った。 「鴉」の叫んだことは、全く誰にも解《げ》せぬ言葉であった。人々に判ったのは、「鴉」が唖《おし》ではなかったことであり、その下肢がちゃんと歩く能力をそなえていることであった。  於兎は、あまりの感動で、その場へ、坐り込んでしまったくらいであった。首比達も、母国の言葉で、奇蹟があらわれた、と口走って、「鴉」を抱き上げ、頬ずりをした。  この有様を目撃して、咄嗟に、好機のがすべからず、と思ったのは、宝念坊であった。 「鴉様が、申されたぞ! 我軍は大捷《たいしょう》を博す、と。いまの言葉は、そういう意味の梵語じゃわい」  宝念坊は、聊《いささ》か周章《あわ》てていた模様である。本名を云わずに、湊の人々が蔭で云いならしているあだ名を口にしてしまったのであった。のみならず、それに「様」までくっつけた。  海戦が、予言通りに、大勝利を博すや、まっ黒な、口のとんがった異相の幼児は、公然と「鴉様」と呼ばれるようになった。 「鴉」は予言をきっかけにして、常人となった。いや、宝念坊の熱心な教育を受けて、五歳の時には、神童とまで称せられるようになっていた。五歳になるや、宝念坊は、両親にことわって、月のうち十日ばかり、「鴉」をともなって、山嶽奥深く、こもるようになった。武術を仕込みはじめたのだ、と想像されたが、どのような修業をさせているのか、見当もつかなかった。宝念坊が、いかなる武術を身につけているか、誰も知らなかったからである。  十一日めに、下山して来た「鴉」は、視るも無慚に痩せさらばえていた。ただ、その双眸だけが、はげしく光っていた。 「鴉」は、どんな刻苦を強いられているのか、一言も告げず、両親も訊かなかった。  おそろしく寡黙な少年であった。必要以外の言葉は、一切口にしなかった。  その代り、時折り、誰にも判らぬ、宝念坊さえも見当のつかない奇妙な言葉を、口走るくせがあった。これは、後年までつづいた。 「鴉」が八歳になった秋、父首比達は、おのれの設計した三千石の巨船に乗り、南方との交易に出発した。  そして、船は、再び、太地の湊へ、帰らなかった。  暴風雨に遭《お》うて、沈没したか、それとも、海賊団に襲われて、鏖殺《みなごろし》にされたか、あるいは、南方の国を切取って、一国を樹《た》てたか——一切不明であった。  それから、三年経って、於兎は、宝念坊を、愛染堂に訪ねると、あらたまった態度で、 「熊野の誓紙による約束は、守られましょうか?」  と、問うた。  宝念坊は、粛然とした態度で、 「誓うた神文が破られれば、冥罰《みょうばつ》は下って、太地の湊も海の底になるであろう」  と、こたえた。  於兎は、携えて来た多額の金子を、宝念坊の前に積み、 「これは、わたくしが、都々辺《ととべ》の青楼に、身を売って得たお金です。これを、添えて、和子を、御坊様に、お渡し申します程に、悉皆《しっかい》の養育をお願い申上げます」  と、願った。  首比達が、永久に還らぬ、と判断されてから、於兎母子に対する三座の長たちの扱いが、目に見えて変ったのである。  その冷酷を慍《いか》った於兎は、わが子が将来、三座の長を一人占めにする、という約束は破棄される懸念がある、と思い、この決意をしたのであった。  一説によれば、於兎は、首比達によって、あらゆる閨中の秘儀を仕込まれて、一人ですごすことが叶わず、すすんで、色里へ身を売ったのだ、とも伝えられている。のちの艶名をうたわれたように、生来好色の性《さが》を持っていたのである。  その夜、於兎は、愛染堂に泊り、宝念坊に、からだを与えた。  こうして、於兎は、青楼で綺羅を張る身になり、その子「鴉」は、稀代の忍者としての修業に専念させられることになったのである。  宝念坊は、愛染堂をすてて、「鴉」をともなって、山崖の奥へ消えて行き、消息を絶った。  そしてついに、自身は、太地の湊へ、再び、姿を現すことはなかった。 「鴉」が、逞《たくま》しい若者になって、飄然《ひょうぜん》と故郷へ帰って来たのは、七年の後であった。  変事は、その夜のうちに、起った。  三座の長——木戸の弥郎次、辻の善左衛門、九鬼の紋次郎が、一太刀のもとに斬られたのである。  さらに——。  艶名をほしいままにしていた於兎の姿が、その青楼から、忽然として消えたのであった。  夜明けに、漁師の一人が、華麗な衣裳をまとった女を、小舟へのせて、沖あいへ漕ぎ出して行く異形の男を、目撃した、と人に語ったが、真偽の程は、わからなかった。  蛇足  いつの時代でもそうであろうが、一地方の崇拝の的になるような教祖的人物に関する口碑伝説のたぐいは、あまりにも、荒唐無稽である。  殊に、それが宗教的な色彩を帯び、神秘のヴェールをかぶると、(信貴《しぎ》山縁起のごとく)神通自在ということになる。  熊野に伝えられる忍者「神鴉《みからす》」は、天空を自由に飛翔する術をもっていた、というがごときは、それであろう。  ところで——。  私の手許に送られて来た井筒仙三郎《いづつせんざぶろう》氏所蔵の画帖三冊は、「神鴉伝奇」の面目を、かなり面白く伝えるものである。  これを描いた鳥川宣好《とりかわのぶよし》は、画中の馬鹿殿様の衣服に、葵の紋を入れた咎で、遠島に処せられた反骨の絵師であった。その船が、途中難波して死亡したものとされている。実は、南紀に漂着して、旧家井筒家にひろわれ、かくまわれたのである。  その離れ家で、土地の人々から、忍者「鴉」の伝説をきいて、絵筆を把ったのである。  画帖は「於兎百戯図《おとひゃくぎず》」と称されている。公開をはばかる秘帖である。  百戯とされているが、もともと一帖に十二枚、全四帖の四十八図であったらしい。その一帖が失われて、現存するものは、三帖である。  第一図は、頭上にターバンを巻きつけ、金の耳輪を光らせた黒い逞しい天竺男と、童女とも云える可憐な娘との交合である。首比達と於兎にまぎれもない。  図の上部に、鴉天狗を配しているのが、異様な効果をあげている。鴉天狗は、どの図の中にも描かれ、それが、この画帖の特色となっている。  鳥川宣好としては、「神鴉」を想像するのに、鞍馬山の天狗の姿を、脳裏に思い泛べたものであろう。  鴉天狗は、下方へ、いきいきとした眼光を当てている。顔は、木彫の唐人形のように無表情である。  首比達が、閨房で、わが子の凝視に気がつき、薄気味わるさをおぼえた、ということをきいて、宣好は、鴉天狗をして、覗きの興味を盛り上げさせる役割をはたさせたものであろう。みごとな手腕であった。  第二図は、金襴の袈裟をまとった僧侶との交合で、これは宝念坊に相違なく、背景には、大社の御神体である那智の滝が描かれてある。  落下する瀑布の、ほぼ中心部に、鴉天狗が、幻のように、印形を結んで、結跏趺坐している。「鴉」が、宝念坊にあずけられて、修業をはじめてから一年目に、ある日、那智の滝壺で、水垢離《みずごり》をとった。宝念坊が、岩の上から眺めていると、「鴉」のからだは、ふいに、瀑布へ吸いあげられるように上昇して、中ほどで、ぴたっと停ると、濡れた総身から鋭い光芒を放った。  宝念坊は、思わず、唸って、拝跪してしまった、という。  性戯のざれ絵に、ご神体の滝を用いる宣好の無信仰ぶりも面白いが、これは、考えれば、「鴉」の秘術が、日本の忍びの術ではなく、天竺婆羅門の幻術あるいは妖術の流れをくむものと、看《み》ていい証拠かも知れない。  初代「鴉」の頃は、郷土的に、熊野一円に、信仰を植えつけるのに努力し、身心|秀《すぐ》れた子弟を集めて、強力な集団をつくりあげたものであろう。  そして、二代、三代と代を重ねるにつれて、初代「鴉」を次第に、変幻自在の神通力の所有者に、まつりあげ、人々に信じこませるようにしたのである。  画帖をめくっていけば、太く逞しい髯面の漁師が、豊満な於兎の裸身に、ひしととりすがっている図がある。  背景は、海上にのたうつ鯨取りの場面である。巨大な鯨に、無数の小舟がむらがっている。鯨の噴きあげた水の頂に、「鴉」は、悠然と立っている。  熊野灘には、次のような伝説がのこっている。  某日、七歳の「鴉様」は、例の意味をなさぬ叫び声をあげるや、浜へ奔り出て、小舟にとび乗って、沖あいめがけて、漕ぎだした。漁師たちが、これを追って、船を出すと、にわかに、船と湊の中間の海中から、巨鯨が浮上して来た。船は、このえものを、難なく、湊の中へ追い込むのに成功した、という。  ところで——。  秘戯図には、ふつうの浮世絵のような、いわゆるのっぺり型の美男子は、一人も登場していない。  これは、絵師の残虐好みにもよるものであろうが、ひとつには、於兎の気性をも、現しているようである。  数奇な運命は、艶麗の美女に、黒人の良人《おっと》を与え、「鴉」のごとき異形の児を産まさしめている。  しかもなお、於兎は、その不運をふみしいて、自ら女妖として、後世にまで、その名をのこした。  この伝説をきいては、絵師も、浮世絵が常識とする色男など、登場させる余地など、なかったであろう。  於兎の淫蕩をあらわす極端な図としては、七人がかりのものが描かれている。  頚根と双の胸の隆起と、臀部と、そして秘処へ、六人の男の首を吸いつけさせ乍ら、のこる一人の醜い老爺に、蹠《あしのうら》をねぶらせて、於兎は、勝ち誇ったような、妖しい微笑を、美しい貌に刷いている。  そのうしろの、白煙もうもうたる山中を、鴉天狗が、飛翔している。  醜い老爺は、町政のかしらの辻の善左衛門ででもあろうか。  於兎が、都々辺で、艶名をうたわれるようになった頃、三座の長たちは、いくつかの原因が重なって、仲が悪くなり、それぞれ、気ままな行動をとるようになっていた。太地の湊の自治制は、乱れたのである。  やがて、辻の善左衛門が、九鬼の紋次郎と木戸の弥郎次を、事実上、失脚させて、独裁者の権勢を誇りはじめた。  辻の善左衛門は、また、毎夜のごとく、その青楼にかよって、於兎を買ったのである。  そうした折柄、熊野一帯の山林が、大火におそわれたのである。厳冬の頃の山火事は、山林を生命とするこの地方にとって、最もおそろしいものであった。町政のかしらである善左衛門の、於兎におぼれて、山林支配をおこたったことは、たちまち、烈しい非難の的になった。  善左衛門は、紋太郎と弥郎次との三頭|鼎立《ていりつ》にもどらざるを得なかった。  けだし、山林の大火は、「鴉」の煙術であったろう。  それから、二年後に、「鴉」は飄然として、太地の湊へ帰って来るや、三座の長を、一夜にして、斬り殺してしまったのである。  扨《さて》——。  次の図を紹介しておいて、この蛇足をおわることにする。実は、この図があるために、明治維新以来、画帖は、井筒家の文庫蔵で一度も陽の目を見ることなく、ねむっていたのである。  図柄は衣冠束帯の堂上人《どうじょうびと》の背後から、於兎がとりすがって、その白い手で、男性の象徴をもてあそんでいる。  堂上人は、眇眼《すがめ》で、それにあてはまる御仁《おひと》は、名を挙げるのははばからねばならぬ。背景は、南北朝が合体し、南朝の天子の鳳輿《ほうよ》が、京師《けいし》へ向かわんとするところである。  その先達として、白馬に、鴉天狗がまたがっている。天狗の横に「五位鴉《ごいがらす》」という文字が入れてある。  五位鷺はいるが、五位鴉というのは、この世に存在せぬ。  わざとその名を創ったのは、単なる機智とは思われない。  忍者「鴉」の活躍範囲が、すでに、吉野及び南朝の禁中にまで及んだと解釈すれば、秘密の命令をうけたまわるためにも、昇殿の五位が、暗黙裡にみとめられていたということになろうか。  一休禅師  一  嘉吉《かきつ》元年晩秋——。  王城の南——男山《おとこやま》のふもとにつづく淀川堤を、いま、二つの影が、辿って行く。  一人は、くたびれた墨染めの衣をまとった五十年配の法師で、連れは、三十五、六の分別盛りの、その分別が満ちたような顔をした侍であった。この方は、衣服も立派だし、堂々たる体躯の所有者であった。  法師の方は、五尺足らずの小柄で、風貌も一向に見映えがしない。  ただ、常人の二倍はあろうかと思われる大きな眸子《ひとみ》が、少年のもののように澄んで、美しいのであった。  淡々《あわあわ》と明けはなたれて、朝霧もようやく薄れたこの時刻は、顔も手足もこわばる寒気が漲《みなぎ》っているのだが、法師のおもてには、なにが愉しいのか、いかにも明るい色が刷《は》かれていたし、連れの侍も、口辺に微笑を含んでいる。  法師は、後小松天皇の落胤と称せられる、禅林第一の智僧一休禅師であった。侍は、京都の治安をつかさどる奉行所の筆頭人、蜷川《にながわ》新左衛門であった。  いずれも、外出の折には、多くの伴衆《ばんしゅう》をひきつれる資格を持って居り乍ら、美々しい行装を好まず、たいがいの場合、こうして、こっそり二人連れで外出する。  今日は、男山|鳩峯《きゅうほう》の石清水《いわしみず》正八幡宮の秋祭に詣でるために、出て来た二人であった。京都にあって、北の祭といえば賀茂神社のそれ、南の祭といえば、この石清水正八幡宮のそれであり、殊に後者は、いやしくも弓矢の道に志す者は、必ず、祭礼を待ちかねて、足をはこんで来る。  げんに、もうこの夜明けに、二人の前後には、武家姿がいくつか、みとめられる。  石清水正八幡宮は、三座を祭る。すなわち、誉田《ほんだ》天皇、玉依《たまより》姫、神功《じんぐう》皇后である。  後宇多《ごうだ》帝の時、全土に災異しばしばあらわれて、多くの神社の神剣にまたふしぎな変があったので、人々はこれを奇怪とした。はたして、それは、不吉の前兆であり、蒙古の冦《こう》があった。後宇多帝は、弘安四年六月、この石清水正八幡宮に幸《みゆき》し、神楽《かぐら》を行わしめ、一夜祈祷の儀式があった。蒙古の大船は、ことごとく颱風《たいふう》に遭って漂没した。天下は、その神験を仰いだ。  爾来、貞観《じょうがん》以降の天皇は、即位にあたっては、必ず、幣を奉って、兵乱、旱災《かんさい》、夷荻侵冦《いてきしんこう》に対する祈祷をされた。  源頼義、義家は、殊にこの神を崇《とうと》み、頼朝が天下の権を握るに及んで、諸国に別宮を建立《こんりゅう》して、源氏一族の氏神と仰いだ。  八幡宮が、諸国のどんな果てにも存在するようになったのは、このためである。  祭礼は、春三月|午日《うまのひ》の大祭のほかに、秋に、武術奉納の日が定められていた。それが、今日であった。  一休は、昨日、蜷川新左衛門に使いをやって、 「面白い幻術試合を観たいと思われぬか」  と、さそったのである。  蜷川新左衛門が、もとより、拒む筈がなかった。  こっそり、出て来た二人は、肩をならべて、堤をひろって行く。  奇妙なことに、大兵の新左衛門が、大股で歩き乍ら、一休に、ついおくれがちになるのであった。  見たところ、一休は、きわめて、普通の歩幅《ほふく》と速度で進んでいるのであった。にも拘らず、新左衛門が、意識して、大股になり、踉《つ》いて行かねばならなかったのである。  それが、おどろくほどの迅《はや》さであったことは、京の町を出て、ここまで三里あまりのあいだに、それぞれ急ぎ足の参詣人を、苦もなく、片はしから抜いたので明らかであった。  しかも、一休は、つぎからつぎに、思いつくままな話題を、口にして、新左衛門をあきさせぬ。 「さよう……。あれは、ただの虻《あぶ》いっぴきの仕業であったな」  一休が、ふと、思い出したように、そう云った。  この高名な才僧は、独語するように語るくせがあった。  そして、その呟きは、常に、鋭利な直感力を働かせたものであり、驚嘆すべき人生観察をやってのけていたので、蜷川新左衛門にとっては、一言半句もききのがしにできないのであった。 「虻いっぴき——と申されたが、それが、どうかいたしましたか?」 「虻いっぴきでも、時と場合では、天下をくつがえす働きをやる、と申した」  一休は、こたえた。 「これは、どうも……」  新左衛門は、当惑ぎみに、かぶりを振った。  一休は、決して、空疎な禅問答はやらない人であった。  当時の禅僧たちが、ただ、美詞麗句だけをもてあそんで能事《のうじ》足れりとしている風潮を、一休は、極端に軽蔑していた。そういう禅僧たちを、一点の菩提心もなく、江湖飯袋《こうこはんたい》の徒、とあざけっていた。馬牛漢は人倫に非ず、と将軍義政の前で、云いはなって、はばからなかった禅師である。  いま口にした言葉も、決して、もってまわった譬喩《ひゆ》ではなかった筈である。  新左衛門は、大いそぎで、考えはじめた。数分すぎてから、 「あ!」  と、新左衛門は、合点した。 「判りました。六月二十四日の異変のことですな。……したが、あの異変を、虻いっぴきが起した、と申されますのは?」  新左衛門は、大股に跟《つ》いて歩き乍ら、一休へ、興味をこめた視線をあてた。  この年六月二十四日には、将軍足利|義教《よしのり》が、赤松|満祐《みつすけ》によって弑害《しがい》されていたのである。  二  その日、将軍義教は、関東|鎮撫《ちんぶ》を祝賀するという名目で、赤松満祐の邸に招待された。  義教は、おもむくにあたって、べつに、従者を多く連れなかった。満祐に、叛意があろうなどとは、夢にも思っていなかったからである。  義教は満祐に、親しい気持を抱いていたからである。  平常、満祐が矮小なことや、鼻の先が赤いことをからかったり、飼い猿をとびかからせたりするのも、親しい気持を抱いていたからこそである。  満祐が、義教に恨みを抱くとすれば、おのが所領のうち播磨国を召し上げられ、同族の赤松貞村に預けられようとしたことである。  この時、満祐は、大いに憤慨して、にわかに、京都の館に、諸士を集めて、 「わしは、明日帰国する。ついては、家財道具を、お前らの取るにまかせる。そのあとで、火を放てい」  と、命令した。  自分で自分の館を焼きはらったことは、京洛の人々を仰天せしめた。幕府にとっては、これはあきらかに、満祐が謀叛の決意をしたもの、と受けとれた。義教は、直ちに、山名|時熙《ときひろ》、一色義範《いっしきよしのり》に命じて、帰国する満祐を討たせようとした。山名、一色は、しかし、討つ代りに、満祐に、言葉をつくして、勧告した。満祐も、翻意して、自邸を焼いた罪をみとめ、告文を奉じて異心のない旨を、陳謝したので、義教も、諒してその罪を宥《ゆる》した。もともと、短気な性格であることは、皆がみとめていた。  そのことは、氷解して、六年の月日がすぎて居り、満祐は、将軍家に対しては、まことに忠実な家臣であった。  義教が、よもや、その日、満祐から襲われようなどと、一片の不安など起す筈もなかったのである。  饗応は華美を尽し、興を添えるために、猿楽《さるがく》が演じられた。  酉刻《とりのこく》(午後六時)になって、義教が、座を立とうとした時であった。  突如として、満祐は、家来に命じて、厩から悍馬《かんば》を放たせて、騒擾を起して、その馬を抑える、という名目で、すべての門を閉じさせて、まず、人の出入を禁じておいて、かねての伏兵三百騎を一斉に立たせるや、あっという間に、義教を弑《し》いたのであった。  将軍家としては、前例のない悲惨な死にざまであった。  赤松教康が、義教の左手を挫き、同じく満康がその右手を掴み、その家来の安積《あさか》行秀が、刀を大上段から、顔面をま二つに割ったのである。  席上の擾乱《じょうらん》はいうまでもなく、義教の従者たちは、半数が死闘し、半数が逃走した。山名|熙貴《ひろたか》、京極高数は、将軍家と死を共にしたが、三条|実雅《さねまさ》、斯波義廉《しばよしかど》、大内持世などは、垣を越えて、遁《のが》れ去った。  赤松満祐は、諸族の攻め寄せることを予想して、待ち構えていたが、あまりの珍事に、諸将は疑懼《ぎく》して自邸を護ることに一心になり、すすんで赤松邸へ挑戦する者はいなかった。  夜半にいたって、蔭凉軒李瓊《いんりょうけんりけい》が、赤松邸へおもむき、将軍家の遺骸をもらい受け、鹿苑《ろくおん》院に遷《うつ》した。  満祐は、寄せ来る者がないので、部下七百騎とともに、油小路を出て、まっすぐに東寺に進み、本国播磨へ帰ってしまった。 「大徳、お教え下さいましょう。赤松満祐が、なぜ将軍家を弑逆《しぎゃく》いたしましたか——?」  蜷川新左衛門は、訊ねた。 「殺すつもりは、さらに、なかったのじゃな満祐は——」  一休は、こたえた。 「はあ——?」  新左衛門は、また当惑の表情になった。 「さればさ、あの六月の異変については、世間では、ああだ、こうだ、とせっせと噂《うわさ》に尾鰭《おひれ》をつけている。噂の方が、勝手に、泳ぎまわっているという有様じゃな。  たとえば、将軍家が満祐に猿をけしかけたという理由をかぞえる人もいる。だが、日吉神社の神猿だと称するけものを、けしかけられたのは、なにも、赤松満祐一人にかぎっては居らぬ。将軍家としては、なにか、面白げなまねをして、笑いたかったのであろう。  関東の兵乱、諸国の飢饉、襲疫の流行、さらには、絶え間もない土一揆で、気持の鎮まる時もない、気の毒な御仁であった。時には、阿呆になって、大きな声で笑いたくもなったのであろうな。  猿をけしかけたのは、悪意から出たものではなかった。けしかけられた方は、神猿とあっては、手出しもならずに、閉口してひきさがってしまえばそれで、済んでしまうことであった。  ところが、満祐は、短気者じゃ。額をひっかかれて、かっとなり、短剣を抜いて、猿めを刺し殺してしまった。腹に据えかねたにしても、無謀というほかはなかった。しかし、猿を片づけてしまえば、むなくそのわるさも、けろりとなおった筈じゃ。この時は、むしろ、将軍家の方が、立腹すべきであった。満祐の方に、怨恨が生れる余地はなかった。  満祐が、将軍家を恨むとすれば、世間では知らぬことじゃが、万葉集の歌の一件があったな。  ある時、将軍家は、その歌を、床の間に掛けておいて、満祐に読ませようとした。しかし、漢字ばかりの万葉仮名では、五山の学僧たちでも、読めぬ者が多かろう。満祐ごとき武辺《ぶへん》に読める道理がない。将軍家は、そこではすぐに、解読してやらずに、家へ持たせてやった。  満祐が、万葉集に知識を持つ家来を呼んで、読ませてみると、むかつくようなざれ歌であった。 「仏作る≪まそお≫(赤い塗料のことじゃ)足らずは、水たまる、池田の朝臣《あそ》の鼻の上《え》を掘れ」  満祐の赤鼻は、お許《こと》も耳にして居ろう。誰知らぬ者もない。  おのが赤鼻は、天下周知とわかっていても、わざわざ、あざけられると、むかっとなるのは、人情と申すもの。まして、短気な満祐が、おのれ公方め、と血を逆流させたであろうことは、想像に難くない。  しかし、それとても、一時の憤怒であって、将軍家を弑害《しがい》してやろうず、と≪ほぞ≫をかためさせる原因にはなるまい。  将軍家には、石清水八幡がかかえている諜者の一団が、耳目となって働いて居る。満祐に、異心があれば、即座に、かぎつけたであろう。  諜者が、絶えず、満祐の身辺をさぐっていたが、謀叛の気配など、さらになかった。だから、将軍家も、安心して、ごく少数の従者をつれて、満祐の館へ、出かけて行ったのじゃ。……本当のところ、将軍家を弑《しい》したのは、虻いっぴき——」  一休は、そう断定して、にこりとした。  三  将軍義教を、赤松満祐が、弑逆《しいぎゃく》したのは、虻いっぴきの仕業であった、と一休が断定したのは、根拠があったのである。  将軍家が、赤松館を訪れる、という布告があったその前夜のことである。  書屋《しょおく》にあって、老子をひもといていた一休は、ふと、襖をへだてた次の間に、何者かが坐っているような予感をおぼえた。 「そこに、誰か、いるかな?」  問うと、襖が音もなく開かれて、一人の男が、入って来た。将軍館で、庭など掃いている葉侍《はざむらい》のような装《なり》をしていたが、無腰であった。特徴は、その貌《かお》のおそろしい黒さであった。  灯が机のまわりだけを照らしている暗さで、男の坐った場所は、薄闇といえたが、それにしても、眸をよく凝らして視なければ、眉目がその黒い皮膚に溶け込んでしまっているのであった。漆でも塗り込んだような黒さであった。  男は両手をつかえると、 「鴉でござる。はじめて、お目もじつかまつります」  と、挨拶した。  二十年前、一休は、熊野灘に面した太地《たいじ》の湊へおもむいて、七十の老翁《ろうおう》の臨終に会い、その遺骸に、回向している。  老翁は、一休の祖父にあたる人物であった。  老翁は、天竺の船造師・首比達《しゅびたつ》と太地の小町|於兎《おと》とのあいだに生れて、稀代の忍者となった「鴉」であった。  忍者「鴉」は、一休を、垂死《すいし》の枕辺へ呼んで、その出生の秘密を告げたのである。  五十年前のことである。  忍者「鴉」は、十八歳になった娘に、 「これより、禁廷へおもむき、天子の寵《ちょう》を蒙《こうむ》って、そのおん胤《たね》を腹に宿し奉れ」  と、命じたのであった。  忍者「鴉」には、男子が生れなかった。そこで、熊野誓紙によってこの世に現れた忍者は、不遜きわまることを思いついたのであった。  わが娘が生む男子は、この地上最高の地位にある貴人の種でなければならぬ。  さいわい、娘には、変幻自在の忍びの術を備えさせてあった。帝に近づき、寵を蒙るぐらいの手段《てだて》がとれぬ筈はない、と考えられた。もし、失敗して、一命を落せば、それも、運命である。  娘は、父の厳命を頷いて、京の都へ発った。そして、再び、太地の湊へは、帰らなかった。  娘は、一年の後、洛北のあばら家で、一人こっそりと、男の子を生んだが、そのことを、太地の父へは、報らせなかったのである。娘は後小松帝の落胤であるわが子を、忍者にしたてることに、苦悩し、ついに、父にそむいたのである。  菊麻呂《きくまろ》と名づけられた男の子は、三歳になると、安国寺の像外《ぞうがい》和尚にあずけられ、周建《しゅうけん》と改名した。  忍者「鴉」が、わが娘の生んだ帝の落胤が、安国寺にいることを知ったのは、周建が十歳の時であった。  都の公家館をあらす義賊孫六という者が、追われて、安国寺に逃げ込んだ時、周建は、食をめぐんでやった。孫六は、周建を一瞥して、驚愕した。  おのが頭領の忍者「鴉」とそっくりの貌《かお》だちであったからである。  忍者「鴉」は、孫六から、報告を受けるや、直ちに、熊野から一駆《ひとか》けに安国寺へ趨《はし》って来た。そして、疑いもなく、わが娘が生んだ帝の落胤であることを、確認した。  しかし、わが娘の真情を想うた「鴉」は、周建を、寺から拉致するに忍びなかった。また拉致しても、この少年は、忍者になどなることを、到底がえんじない、と看て取れた。 「鴉」は、あきらめて、周建には、何も告げずに、安国寺を去った。  丁度、その頃、将軍足利義満には、僭上の沙汰があった。  すなわち、後小松帝を廃して、わが子義嗣を帝位に即《つ》かせ、おのれは太上法皇たろうと欲し、その陰謀をめぐらしていたのである。  その準備を着々と進めて、いよいよ、義嗣が元服するのを機会に、後小松帝を廃す肚《はら》をきめていた。  ところが、応永十五年四月二十七日、義嗣が元服の儀式をおごそかに、とりおこなった当夜、義満は、忽如《こつじょ》として、この世を去ったのであった。  忍者「鴉」が弑《しい》したことを、世間の誰一人知る者はなかった。  足利将軍の身辺は、石清水八幡宮が擁している「男山党」という、一騎当千の忍びの強者《つわもの》どもによって護衛されていた。忍者「鴉」は、それらの護衛陣を突破して、義満を討ち果したのであった。  男山党だけが、その下手人の正体を知って、追ったが、ついに、「鴉」は、逃げのびたのである。 「鴉」にとって、その暗殺が、一寺の住職になろうとする孫に対する、せめてものはなむけであった。  周建は、十七歳で、将軍義持に謁《えっ》した。秀才の名と奇行を世にうたわれたのを、きかれたためであった。二十歳の時、堅田《かただ》の禅興寺に、華叟|禅師《ぜんじ》を訪ね、数日間、門前に居坐って、ついに入門した。  「闇の夜に鳴かぬ鴉の声きけば、    生れぬ先の父ぞ恋しき」  その公案によって、大悟した。  応永二十五年、わずか二十五歳の若年をもって、一休禅師の称号を授けられた。天性の頓智、頓才は、世にもてはやされて、現れるところ、必ず人が蝟集《いしゅう》して、好奇と敬愛の視線をそそいだ。  太地の湊から、一通の封書が、とどいたのは、それから五年後であった。差出人は、ただ、「からす」と記されていた。  出生の秘密をお教えつかまつる、と記されてあったので、おもむいてみると、垂死の老翁が、その枕辺へ、坐らせたのであった。  老翁のたのみは、太地の湊で、最も美しく優しい娘をえらんで、契って欲しい、ということであった。  次代を継がせるべき孫が、僧侶となった以上、そうするよりほかに、方法《すべ》はなかったのである。  禅僧として、女犯《にょぼん》の罪をおかすことは、堪え難い苦痛であったが、一休は、承諾せざるを得なかった。  一休は、えらんだ娘と、四十九日間すごして京都へ帰った。爾来、一度も、太地の港を訪れたこともなく、むこうからも、かりの妻は、たずねては来なかったのである。  二十年を経て、突然、「鴉」と名のる若い男が、出現したのである。  咄嗟に、一休は、これがわが子、とみとめる気持にはなれなかった。 「母者は、如何《いかが》したな?」 「みまかりました」 「京へは、何用で出て参ったな?」 「将軍家のおん生命《いのち》を申し受けるためであります」 「鴉」は、かわいた声音《こわね》で、云いはなった。 「将軍家の生命? 何人に、たのまれた?」 「それは、申上げられませぬ」  将軍義教が、諸方から怨みを買っていることは、事実であった。法制の改革においては、権門勢家の怨嗟を買い、南都北嶺の僧徒を厳罰にしたことも、不人望を招く原因となっていた。  公武の社会における不人望は、当然、刃を、その頭上に受けることになる。  忍者をやとって、将軍家を仆《たお》そうと企てる者は、いくらでもいる筈であった。 「どのようにして、将軍家を討つぞ?」  一休は、あろうことか、おのが落し子が暗殺者となって出現したのを、暗然たる思いで、見戍《みまも》りつつ、訊ねた。 「赤松満祐をして、謀叛を起さしめようかと存じます」 「そなたが、やると申すのか?」 「忍者と申す者は、おのれ自身、刃をふるって、殺すのを、下《げ》の手と申し、これは最後の手段《てだて》にいたします。討手をえらんで、討手自身も、策に乗ぜられたと知らずに、討たせるのを、上の手と申します。忍者は、常に、蔭にひそんで、おのが策の成るのを見とどけて、闇に去る者であります」 「そなたが、独力で、赤松満祐をして、将軍家の生命を奪わせる、と申すのか。途方もない話だの」  流石《さすが》の一休も、見当さえもつかなかった。 「やって、ごらんに入れます。……明日、将軍家が斃《たお》れるのを知るのは、御坊様お一人でありますれば、期待されませい」  昂然と頭を擡《もた》げて云いはなつ「鴉」を、一休は、なんともいまわしいものに眺めたことだった。  はたして——。  明くる六月二十四日、赤松邸へおもむいた将軍義教は、「鴉」の予言通りに、弑害された。  世人のすべては、満祐の計画的な謀叛と観た。  一人、一休のみは、名状し難い感激の中で、  ——そうか!  と、合点したのである。 「鴉」の策が、いかなるものか、さとったのである。 「鴉」は、たったいっぴきの虻を使っただけである。  いま、一休は、そのことを、蜷川新左衛門に、教えようとしていた。 「あの日、夕刻……、赤松邸の厩につながれていた悍馬のせなかへ、虻がいっぴき、たかったのじゃな。馬は、その尾で、虻を払った。とたんに、艾《もぐさ》の粒が、馬の尻の穴へ、飛んだと想像するといたそう。艾には、火がついて居った」 「何者かが、その艾を投げつけた、と申される?」 「厩番が、前夜、性悪女でも買って、睡らしてもらえなんだので、こった肩へ灸《きゅう》をしていたのかも知れぬ。それが、あやまって、風で飛んで、馬の尻の穴へもぐった」 「……?」 「何条もってたまろうや。悍馬は、狂い出す。一頭が狂い出せば、他の馬どもも、騒ぎ出す。悍馬は、厩を破って、庭へ躍り出た。これを出すまいと、番兵らが、あわてて、門を閉ざす。されば、門外に待っていた将軍家の兵らが、何事ぞと、血相変えて、どよめく。門内では、早く悍馬をとりおさえようと、無我夢中のていたらくじゃ。この騒擾をきいて、将軍家は、屹《きっ》となって、佩刀《はいとう》へ手をかけて、満祐を、睨《ね》めつけた。それまで、無心でいただけに、疑心暗鬼が起れば、激怒は、凄じかろう。それを、左右から、赤松教康と満康が、とどめようとしたのが、かえって、火へ油をそそぐ結果と相成った。行きがかりと申すものであった」 「では、満祐には、前々から計画していた謀叛ではなかった、と申されますか?」 「満祐は、戦さには、異数の手練者《てだれ》ときく。もし、前々から計画していたのであれば、三条実雅や斯波義廉や大内持世らを、むざと逃がしはせなんだであろうな。第一、将軍家を、下級の家来になど討たせず、おのれ自身が、太刀をかざして、猿をけしかけ、赤鼻をあざ嗤《わら》った主人へ、怨みの一撃を呉れたであろうよ。……気が顛倒したのじゃな、誰も彼も。虻いっぴきのために——」  こう筋を通されては、蜷川新左衛門も、意表を衝かれたまま、口を緘《つぐ》むよりほかはなかった。 「蜷川殿。奉行人としては、その虻を放った者が、気になろう。……しかし、その後の数日間の、都の天地には、天変地異がつづけて起って居りますぞ。夜空には、無数の火の玉が飛び交うたし、往来には、怪しげな化けものが、奇声をはりあげて、狂い奔った。公家館にも、大名屋敷にも、異変が起った。いつの間にか、座敷いちめんに、血のようなものがふりまかれていたり、女房が素裸にされて、庭で、気を失っていたり。おかげで、太刀を把《と》る者たちが、自邸を守るのに、せい一杯であった」 「つまり、それらの天変地異は、隠密の者どもが、故意にやった仕業と、申されますか?」 「将軍家は、政道に理を通すのに急ぐあまり、人心の機微を忘れて、つい、不人望を招いた。関東を亡ぼし、九州を平げたのはよいとして、諸将が勢力を増せば、一色も土岐も、驕横《きょうおう》制し難しと、片っぱしから誅滅《ちゅうめつ》しようとした。政事というものは、緩急自在の変化をもたせてこそ、うまくゆくものであろうが、さて、むつかしいものらしい。将軍家は、石清水八幡のみを重んじて、南都北嶺の僧徒を厳罰に処したが、これも大層なせっかちさであった」  一休は、そこまで語ったが、熊野、高野の名は敢えて口にしなかった。また、近ごろはやりの土一揆が、それら神仏の前衛隊であることも、指摘はしなかった。  ただ、新左衛門に、暗示を与えただけである。  虻いっぴきが、天下をくつがえすこともあり得る、ということをである。  新左衛門は、目を足もとに落して、しばらく、何かを考え込んでいたために、十歩ばかりおくれた。  われにかえって、あわてて、一休に追いつくと、 「それでは、もはや、当節の異変に対しては、われわれ役人が、手出し無用ということに相成ります。申さば、嘉吉の変は、人と人との争いではなく、将軍家を護ろうとした八幡側と、これを仆《たお》そうとした宗門側との争いであった、と申せますな……。借問す、神仏も、わかれて、闘争するや如何?」  そう云って、首を振った。  一休は、微笑して、新左衛門をかえりみた。 「お許は、かねがね参禅をおこたらぬ御仁じゃが、神や仏は、どこに在られるかな?」 「われらの心の中に鎮座まします。悲しいかな、まだ、わが心の所在が悟れませぬが……」 「人と人とが争う世じゃ。人の心の中にある神と仏が争わぬ筈があるまい。ははは……」  明るい笑い声をたててから、一休は、つづけた。 「蜷川殿。本日の八幡宮で催される試合は、石清水の巫女と、熊野の巫女とが、神がかりの死闘を演ずるそうな」 「ほう、それは……」 「もう、そろそろはじまる時刻であろう。ちと、急ごうかな」  二人は、高い長い石段の下に、到着していたのである。  四  ところで、一休と蜷川新左衛門が、京を出て来たのは、昨日の午後で、昨夜は、淀の傾城宿《けいせいやど》に泊っている。  そこは、足利幕府が、「傾城局」という官署を設置した際、第一番に官許の券面を下付したところで、京洛第一の格式を誇っていた。  禅師と奉行人が、祭礼に詣でる前夜を、遊女の宿ですごすなどとは、もってのほかの振舞いだが、この両名に限って、世間からすこしも指弾されぬのであった。  淀の廓《くるわ》では、浮舟《うきふね》大夫と並んで有名な地獄大夫が、一休を、時折り招待する。地獄大夫は、その唯一の女弟子で、その名も、一休からつけてもらっている。  迷信ぶかい色里では、一休禅師の小水が万病の薬と信じている者さえいる。  ある年の正月元日に、一人の風狂な浮かれ坊主が、肩にかついだ杖のさきに髑髏《どくろ》を突きさして、 「門松は冥土の旅の一里塚、   めでたくもあり、めでたくもなし」  と、唄いあるいて、布施にありついたことがある。  それさえも、一休の所業と、口から口へと伝えられている。禅師に限って、何をしようと許されるのだ。  一休は、地獄大夫にすすめられると、酒もくらったし、そのまま正体もなく睡って、夜を明かすこともあった。  上機嫌なところで、亭主が、紙と筆を持ち出せば、気がるに、引受けもした。  ある時、亭主が墨をすっているうち、大夫の愛猫が、硯《すずり》の中に足をふみ入れ、その汚れ足で、紙の上を走った。  せっかくの高価な唐渡りの画牋紙《がせんし》に、点々と、汚染《しみ》がついてしまった。  亭主が、あわてて、とりかえようとすると、一休は、笑い乍ら、 「大事ないぞ」  と、筆を把るや、それらの汚染の上へ、無造作に力強い点を捺《なつ》した。  すなわち、上に点が三つ、すこしあけて、下に点が二つ。 「どうじゃな。まことに、良い出来ばえであろう」 「これは、なんと読むのでございます?」  不審がる亭主へ、一休は、 「風月も衣を脱いで踊り出し」  と、詠んでみせた。  草体では、風の中は点が三つ、月の中は点が二つになる。その風と月が、外衣をはずせば、光風|霽月《せいげつ》の清夜という意味になる。  こういったあんばいの頓智が、人々を無性によろこばせたのである。  地獄大夫が、一休の草庵をおとずれたのは、一年ばかり前のことであった。 「傾城は、必ず、地獄へ落ちるものでございましょうか?」  大夫の質問は、それだった。  思いつめたその沈痛な表情を眺めた一休は、 「酒のあいてをしてくれたら、教えて進ぜよう」  と、こたえた。  大夫は、すぐに、供の者に、酒を買って来させた。  飲むほどに、一休のからだから、かげろうのように、七色の霧が、たちのぼった。  やがて、一休は、おもむろに、法衣の前をまくると、股間の逸物を出した。それは、ものの見事に、直立していた。  すると、大夫は、しずかに頷いて、おのが衣裳を脱ぎすてて、一糸まとわぬ素裸になると、両手をうしろに突き、立てた膝を大きく左右へ拡げたのであった。  双方は、口をひらかず、ついに何の問答もなかった。  六尺の距離を置いて、男性と女性は、何かを契った。心ではなく、もとよりからだでもなかった。漢諺《かんげん》に、男女の契りを、赤縄《せきじょう》を結ぶ、というが、禅師と遊女は、目に見えぬ赤い縁《えにし》の縄によって、結ばれた模様であった。  大夫のおもてには、法悦ともいえそうなよろこびの色があった。一休は、自若としていた。  ところで、一休が、からだを七色の光暈《こううん》で包んでみせたのは、どうやら、忍びの術の中の霧噴きの業であったようである。迷える者には、まず、奇蹟の幻惑を呉れることが、臨機応変の処置というものであったろう。 「雲に入って雲を見ず、雲より出でて雲を見る」とは、禅家の常套語であるが、けだし、一休は、これを逆用したのである。  大夫は、地獄に入れば地獄を見ずと教えられ、なにやら悟った気持になって、地獄大夫と名をあらためたのである。  爾来、大夫は、一休に対して、身も心も捧げつくしている。  一休が、祭礼の前夜を、その許ですごしたのは、いわば、これと同じ理窟で、修羅に入って修羅を見ず、という気持であったろうか。  男山の鳩峯で行われるであろう幻術試合には、おそらく、忍者「鴉」が、一役を買うに相違ない。わが子にまぎれもない「鴉」が展開するであろう修羅を見物するためには、その心がまえが必要であった。  誰人にも——連れの蜷川新左衛門にさえも打明けられぬ——秘密を胸中に抱いて、高い長い石段を上って行くのも、禅僧としての、正念《しょうねん》相続不断の修行であった。  五  賀茂の祭が、競馬《きそいうま》で有名であるように、男山の祭礼の観ものは、相撲と、放生会《ほうじょうえ》であった。  その場所は、一の鳥居の南、疫神堂《えきじんどう》のある八幡宮御旅所の前の広場であった。  方三十間に、紅白の幔幕《まんまく》が張りめぐらされてあった。  数千の見物人が、その幔幕ぎわに坐って、固唾《かたず》をのみ、しわぶきひとつたてなかった。  今期奉納される相撲の取り組みは、まことに奇怪であった。  東から現れたのは、娘かとも見まがう十四五歳の美童であった。赤松満祐邸において、将軍家と死を共にした京極高数の嗣子《しし》数正であった。  次いで、西から出て来たのは、これは七尺もあろう雲突く巨漢であった。赤松満祐の家臣で、将軍義教を一刀両断にした安積《あさか》行秀であった。  この夏、赤松一門が、播磨の居城で滅亡した際、武運つたなく生捕られて、洛北の牢舎につながれていたのである。  いわば、これは、仇討相撲であった。  それにしても、武家や僧の褥《しとね》にはべる色子《いろこ》にしか役立ちそうもない優しい白い細い躯《からだ》をもったわずか十四五の美童が、五十人力を誇った七尺の武辺と相撲《あいう》って、どうして勝てるものであろうか。  当然、安積行秀は、獄中にあって、食を与えられずに、骨と皮ばかりにさせられて、引き出されるもの、と人々は想像していたのだが、あにはからんや、土俵にのぼったのは、胸毛逞しく、巌《いわお》のような巨体であった。 「いかがなりましょうか?」  蜷川新左衛門は、一休に、小声で、訊ねた。  一休は、どうしたのか、自分のすぐ前に、うずくまって、立てた両膝をかかえている傀儡師《くぐつし》ていの若い男の肩を、ぽんと叩いた。 「これ——おぬしは、どっちが、勝つと思うかな?」  すると、傀儡師は、ふり向きもせずに、 「首尾よく仇討ということに相成りましょう」  と、こたえた。  なんのためらいもない明快な断定をする傀儡師のおそろしく黒い横顔を、新左衛門は、眉宇をひそめて、見戍《みまも》ったことである。  どういう根拠があって、美童が勝つ、というのか?  新左衛門は、問おうとして、突然、はっとなった。  あろうことか、傀儡師の横顔が、一休のそれと、そっくり瓜二つではないか。わが目を疑い、そして、それがまちがいないことをたしかめるために、新左衛門は、あわてて、一休へ視線を移した。  ——どういうのだ、これは?  しかし、一休の方は、新左衛門の驚愕などを、知らぬげに、 「大きいものが、小さいものに、必ずしも、勝たぬところが、浮世のおもしろさかな」  と、独語していた。  傀儡師の予言は的中した。  美童は、立ち上るや否や、巨漢の胸へ、頭突きをくれた。なんという不甲斐なさであったろう。五十人力の荒武者安積行秀が、よろよろと、よろめいたではないか。  復讐の一念に燃えた京極数正は、次に、対手《あいて》の股間を、思いきり蹴上げた。巨体は、地ひびきたてて、ひっくりかえった。  すかさず、数正は、腰に佩びていた短剣を抜きはなつや、行秀の上に馬乗りになって、その咽喉を、突き刺した。  場内は、しばらく、どよめきがやまなかった。  新左衛門が、ふと、われにかえってみると、一休の前の傀儡師の姿は、いつの間にか、消えうせていた。 「大徳——、あれは、安積行秀が、わざと、討たれたのでありましょうか?」 「さにあらず。大男めは、必死に、勝とうとしたあんばいであったな。したが、肥育《ひいく》の法を用いられては、いかな五十人力も、どうしようもなかった」 「肥育の法?」 「素裸にして、土中に埋め、首だけ地上へ出させておいて、せっせと、食物を呉れてやる。これを一月もつづけると、かえって身は肥るが、手足の神経はにぶってしまって、自由がきかなくなるのじゃな。いわば、独活《うど》の大木と化す。六十の老婆に突かれても、他愛なく、ひっくりかえってしまう。……安積行秀のあわれな最期であった」  奉納相撲が終ると、つづいて放生会が催される。  近年になってからは、白鳩百羽を放つことになっていた。  神仏対立が熾烈《しれつ》になってからは、何につけても、信徒の心を牽きつけておかねばならなかった。役にも立たぬ鳥類を放っても無駄であった。白鳩の足に、神符《しんぷ》を付けて放てば、いずれ、どこかの家に舞い降りるであろう。その家では、石清水八幡の御使いが来た、と狂喜するに相違ない。馴らしかたによっては、ここぞと思うところへ、何十里でも翔けさせることができるのである。  放たれた百羽の白鳩は、ひとたびは、風に散る花びらのように、八方へ舞ったが、宙の一箇処で、群になるや、大きく円弧を描き乍ら、はるかな上空へ、翔けのぼって行こうとした。  澄んだ晩秋の碧空《あおぞら》に、白い点線が、美しく流れるけしきは、仰ぐ人々を、無心にした。  と——不意に、一休が、云った。 「さて、どうなる? 黒か白かをきめねばなるまい」 「あっ!」  新左衛門は、目を瞠《みは》った。  南の空から、一群の黒い迅影が、急速に近づいて来たのである。  そして、それが、鴉の大群と判った頃には、もう白鳩たちは、円弧を描くのを止めて、八方に散ろうとしていた。  男山の高台に蝟集した数千の見物人は、どっ、とどよめいた。  八幡大菩薩の使いたちは、みるみるうちに、黒い鳥の奇襲をくらって、地上へ、落ちて来た。  闘いではなかった。  全く一方的に、白い鳥は、撃ち落されたのである。  本殿や疫神堂や本地《ほんじ》堂や愛染堂や阿弥陀堂の屋根に、そして、見物人の眼前の地べたに、あわれなむくろの数が増した。  と——。  堪え難くなったのであろう、白装の神官の一人が、狂気のように、広場の中央へ——土俵の上へ、駆け上って、 「熊野の鴉め! この恨みは、かならず、はらしてくれるぞっ!」  と、絶叫した。  一羽のこらず、白鳩を撃ち落した黒い鳥たちは、いまわしい啼声《なきごえ》をあげて、南の空へ、飛び去った。  それを見送ってから、一休が、平常の声音《こわね》で、 「さ——もどろうかな、蜷川殿」  と、促した。 「大徳!」  新左衛門は、怪訝の眼眸《まなざし》を向けて、 「これから、石清水の巫女と熊野の巫女との死闘が演じられるのではありませんか?」  と、問うた。 「試合は、もう終っている」  一休は、こたえた。 「終っている?」  新左衛門は、むっとした面持になった。 「それは、どういうことでござる?」 「蜷川殿。そこの疫神堂の中を、覗いてみるがよい」  一休は、すすめた。  新左衛門は、急いで、その堂に近づいて、菱格子の戸を、ひき開けた。  あっ、となったことである。  かなり広い、薄暗い板敷きに、およそ、十人もの巫女が、白衣白袴を、朱《あけ》に染めて、折り重なって仆れていたのである。  新左衛門は、しばし、茫然となって、そこを動けなかった。  どんな死闘が演じられたかは、知らぬ。  堂内から、物音ひとつ立たなかったのである。  化生《けしょう》が躍って、巫女たちを仆したとしか、考えられなかった。それにしても、巫女たちもまた、ただひとつの断末魔の悲鳴をも発せずに、斃れたとは——。  新左衛門は、白昼夢でもみているような心地であった。  その時、一休の方は、黒い貌の傀儡師が、遠くから、黙礼するのへ、じっと、眼眸を返し乍ら、  ——二度とふたたび、この一休の前に現れてくれまいぞ。  と、胸中で念じていた。  その夜、更けてから、おのが庵室に帰った一休は、囲炉裏に粗朶《そだ》を燃やしつけ、自在に、片口の土鍋をつるした。  やがて、土鍋が、ぐつぐつと、音をたてはじめると、一休の頬に、ふっと、微笑がうかんだ。  自然に、口を割って、出たのは、次の狂歌であった。  「土鍋どの、そなたは口が出すぎたぞ、     雑炊たくと、人に語るな」  山中鹿之介  一  天文《てんもん》十三年初春の一日。  ごうごうと、天地を、瀑布の轟音ひと色につつむ那智の滝のほとりに建つ草庵で、いま、一人の老いたる忍者が、静かに逝こうとしていた。  三代を継いだ「鴉」であった。  五十歳になって、食を断ったのである。壮者をしのぐ矍鑠《かくしゃく》たる身は、古希はおろか、悠々と喜寿をも祝うことが可能であろうが、「鴉」は、老醜を陽にさらすことをきらったのである。  というのも、その父・二代「鴉」が、五十歳を迎えて、食を断って逝ったのを、看とどけていたからである。  その時、三代が、「何故に、自らすすんで、生命を落されます?」と問うと、結跏趺坐《けっかふざ》の姿勢で、目蓋をふさいでいた二代は、「わしは、三十歳になった時、おのが手にかけた人をかぞえた。四十九人いた。宿業とはいえ、このつぐないをせずばなるまい、と考え、ひとまず、人生五十年の定めにしたがって、おのが寿命を、そこに区切った。その誓いを、果すまでじゃ」と、こたえたのであった。  三代「鴉」は、その父が自らに課した罰を、おのれにも加えることにしたのである。  父が逝った同じ場所に、三代もまた、同じく、結跏趺坐して、合掌していた。  食を断って、すでに、三十五日目を迎えていた。躰は、はじめて、其処に坐った時にくらべて、半分になっていた。  面前に——六尺をへだてて、控えているのは、今日、四代を継ぐことを許された二十歳の若者であった。  熊野山中で、五歳から、修業を積んだ若者は、曾祖父、祖父、父のいずれにも劣らぬ勇気と術を身につけていた。三代としては、この世に心をのこすことなく、逝けることであった。  若者は、いま、痩躯から魂を抜け出させようとしている父を、凝っと見戍っている。  自らに罰を加えようとしている父に対して、みじんも悲しみは、湧いていなかった。  若者は、松の皮のように黝《くろず》み、無数の皺を寄せた小さな貌が、微かに動くのを視て、急にわれにかえって、 「それがしに、遺言を——」  と、求めた。  ほんのしばし、間があってから、罅《ひび》割れた鉛色の唇が開いた。 「滅び行く者に、栄光を与えてつかわせ」  ききとれないくらいひくい声音で、そう遺言されて、若者は、一瞬、眉宇《びう》をひそめた。 「滅び行く者をえらぶには——?」 「鴉ならば、鷺をうらやむがよかろうぞ」  謎めいた一言をもらしておいて、垂死の忍者は、徐々に、首を垂れた。  ——鴉ならば、鷺をうらやむがよかろうぞ。  若者は、父の言葉を、胸のうちで、くりかえした。  その年の秋——八月三日。  出雲《いずも》国白鹿城に住し、武勇の誉れ高かった山中|鹿左衛門久幸《しかざえもんひさゆき》は、士卒五十人に、三駄の荷を護らせて、石見《いわみ》山中の険路を辿っているところを、突如として、百騎あまりの覆面武者に、襲撃された。  山中鹿左衛門久幸は、その父貞幸とともに、出雲の領主尼子氏の重臣であった。  尼子氏は、出雲・隠岐《おき》・伯耆《ほうき》三国を領し、当主晴久は、安芸《あき》・備後《びんご》・美作《みまさか》をも、その掌中に収めようと、勢威まさに旭日昇天であった。  尼子氏の宿敵は、大内氏であったが、毛利元就《もうりもとなり》が大内氏を圧して、中国に覇をとなえるようになって、いまや、三卍《みつどもえ》の勢力争いになっていた。  その衝突地が、出雲と安芸・備後のあいだに在る石見であった。  石見には銀山があり、中国の武将たちは、この銀山をめぐって、絶え間のない争奪戦をくりかえして来たのである。  毛利元就が、新興の勢いに乗じて、兵を防・長に出し、大内義長と激闘している隙に、尼子晴久は、石見を襲って、毛利の背後を突き、まさに、勝利を九分通り、わがものにしようとしていた。  山中久幸は、主君の命によって、銀山から掘り出した銀の延板を、運ぼうとしていたのである。  尼子氏が、石見を一時奪ったとはいえ、このあたりには、豪族十数氏の領土が入り組んで居り、また、領主を喪った武者が徒党を組んで盗賊と化していたので、金銀を運ぶのはよほど警戒しなければならなかった。  そこで、山中久幸は、わざと、士卒の数を最小限にとどめて、一行を、山窩《さんか》が移動するがごとくみせかけたのであったが、内通する者があったか、それとも、忍びの者にさぐられたか、偽装を看破されて、襲撃を受けてしまったのである。  対手《あいて》は豪族か、盗賊か——いずれにしても、闘い馴れた剽悍《ひょうかん》きわまる徒党であった。  まず、樹や岩の蔭から、一斉に射かけて来た矢で、久幸の手勢の半数を殪《たお》しておいて、鯨波凄じく槍と薙刀で、躍りかかって来た。みるみる、突き立てられて、さらに十人以上も殺された久幸は、やむなく、残った士卒に、荷を馬からはずさせて、谷底へ投げこませておいて、おのれは、重傷《ふかで》の身を、馬に縛りつけると、運を天にまかせた。  意識を甦らせた時、久幸は、仄暗い建物の中に寝かされていた。  視線をまわしてみて、これは、熊野神社の御堂と、判った。  かたわらに、走《はしり》衆の一人が、蹲《うずくま》っているのに気づいて、 「その方が、救ってくれたのか?」  と、訊ねた。  名もない走衆が、最後まで自分につき添っていてくれたことに、感動があった。まだ、二十歳ばかりの若者であった。 「殿、ここは、熊野神社でありますれば、おん亡き後の儀は、熊野誓紙になされては、いかがかと存じます」  走衆は、すでに、久幸の命数が尽きていることを看てとっていて、そうすすめた。  久幸は、ふと、若者の面貌が、ただの走衆のものにしては、あまりにも異様であるのを、みとめた。 「その方は、何者だ?」 「熊野三山に仕える忍びでござる。鴉と称ばれて居り申す。熊野三所権現のお告げにより、お手前様のご最期を、見とどけ申す」  久幸は、熊野誓紙のことも、鴉が熊野の神使となっていることも、きき知っていた。 「たのもうか」  久幸は、云った。  さいわいに、若者が、懐中からとり出した熊野|牛王《ごおう》宝印のある起請《きしょう》紙に、筆を把って、請願を記す力が、久幸には、のこっていた。  若者は、それから七日後、谷底からひろった銀の延板入りの荷駄を曳いて、熊野へ帰って来た。  当夜、熊野権現社の本堂で、願人死亡のまま、厳かに儀式が行われ、読みあげられた誓紙は、火中に投じられた。  その文面には、次のような意味の誓いが記されてあった。 「山中久幸、うやまって、銀三荷を奉納し、その子に三度びの加護をたまわるべきことを、願い上げ奉る」  二  山中久幸の一子鹿之介は、その時まだ九歳であった。  久幸が壮烈な討死をしてから、ほどなく、白鹿城から、神かくしに遭って、行方知れずになった。  七年の星霜が移った。  尼子晴久の嫡子義久は、勇猛無類の若武者で、屡々《しばしば》父に無断で、隣敵を襲って、武名を馳せていた。  伯耆に蟠居する山名氏の居城尾高城を攻めて、一挙に陥《おと》してくれよう、と戦略をめぐらしたのも、父には無断であった。  義久は、秋風の渡る一夜、三更を待って、突如、将士に出陣を布告した。  本丸広場に出て来た義久は、四方に篝火を焚かせて、捕えていた山名氏の間者を曳き出し、自ら陣太刀を抜きはなって、これを血祭にあげた。  この時、忽然として、義久の前に、蹲《うずくま》った者があった。どうやって、見張りの兵の目をかすめて、城内へ入って来たか、蓬髪敝衣《ほうはつへいい》の少年であった。  驚いた将士がつめ寄るにまかせて、少年は、昂然と頭を擡《もた》げると、 「山中鹿左衛門久幸が一子鹿之介幸盛、何卒《なにとぞ》、このたびの合戦にお加えたまわりますよう、願い上げ奉る」  と、云った。  篝火に照らされたその面貌は、まさしく、山中久幸に生写しであった。  義久は、頷いてやってから、 「今日まで、何処《いずこ》に匿《かく》れて居ったぞ?」  と訊ねた。 「熊野山中に於て、武技を学んで居りました」  鹿之介は、こたえた。 「その方を、白鹿城から拉致して、その修業をさせた者が居るのだな?」 「御意——」 「何者だ?」 「熊野誓紙によって、他言を禁じられ居りまする」 「よい。きくまい。見事、手柄せい!」  尼子の一万の軍勢は、怒涛のごとく、山名氏の居城尾高城へ殺到して行った。  しかし、尾高城は、名だたる難攻不落の城であった。また、守る武将に、戦場かけひきの名手がそろっていた。  攻めあぐむ寄せ手に、聊《いささ》かの隙が生じても、これを看遁さずに、意外の奇襲を放って来た。  義久は、苛立って、五日後に、遮二無二の総攻撃をやって、忽ち一千余の兵を喪って、退却を余儀なくさせられた。  その退路をさえぎって、忽然として出現したのは、甲冑から、槍、馬の鞍、鐙《あぶみ》まで、燃えるように真紅に塗った武者であった。  一瞥しただけで、これが、山名氏随一の荒武者|菊地音八《きくちおとはち》と判った。その膂力《りょりょく》は五十人力と称されていた。 「尼子義久殿に、物申す。菊地音八、一騎打ちを所望つかまつる」  大音上《だいおんじょう》に呼ばわって、高だかと、朱の長柄を、かざしてみせた。  義久が、それに応えるよりもはやく、疾風《はやて》のごとく、陣列から奔り出た一騎があった。  疾駆し乍ら、馬上に突っ立つや、冑を鎧を、篭手《こて》を、脇楯を、身から取って、空中へ抛《ほう》りすてた。奇怪にも、太刀から脇差まで、棄ててしまった。  人々は、ただ、唖然として、眺めるばかりであった。  半町を奔って、菊地音八の前に到着した時には、袴も、肌着もかなぐりすてて、褌ひとつの裸形になっていた。その肌は、若い女にもかなわぬほど、白瓷《はくじ》のように、白く美しかった。 「山中鹿之介幸盛、見参!」  若々しい声音で名のりざまに、馬の背を蹴って、菊地音八めがけ、二間の宙を翔けた。 「小癪っ!」  音八は、大薙刀をひと振りしたが、空を截《き》った虚しさに、狼狽するいとまも与えられずに、兜の真向を、ひと蹴りされて、馬上にのけぞった。  具足の音たてて、まっさかさまに地面に落ちた音八は、馬乗りにふみ跨《またが》って来た裸の敵が、まだ十五六歳の少年であることをみとめた。  強力無双をもって聞えた自分が、色子に等しい少年に、蹴落され、馬乗りに跨られた屈辱で、音八は、かあっと、逆上した。  少年が、素手で、向って来たことも、音八を、激怒させた。  音八は、少年を、六尺も高く、宙へ弾ねあげておいて、落ちて来たのを、むずと組み敷いた。  そして、喉元をひと掴みして、 「わっぱ! なんの虚仮《こけ》わざか!」  と、呶鳴りつけた。  瞬間——、少年の白い顔が、にこと微笑した。  音八は、もはや、容赦ならず、その頚《くび》をひと捻《ひね》りに、ねじ切ろうとした。  その刹那、臍下《せいか》から、腹中へ、刃物が刺しつらぬいて来て、音八は、うっ、と上半身をのけぞらした。  素手であることに、音八には、油断があった。  少年は、音八の脇差を抜きとる迅業《はやわざ》を身につけていたのである。  音八は、腹部へ白刃を突き刺され乍ら、よろめき立った。  とみた一瞬、少年は、はね起きざま、音八の左手を掴んだ。 「やっ!」  鋭い懸声《かけごえ》をきいた尼子勢は、五十人力の荒武者の巨体が、大きく、空中を、円弧を描いて、飛ぶのを、視た。  まことに、後世の語り草になるに足りる華やかな一騎討ちであった。  鉄砲の出現によって、中央地方の戦闘方法は、ようやく大きな変化を示しはじめた時代であったが、この山陰の地域では、まだ、源平時代を想わせる一騎討ちが、衆人環視の中で、行われていた。そして、一騎討ちの勝敗によって、一時、包囲陣は遠のき、城側はひと息つく黙契もできていたのである。  一人の雄々しい英傑を誕生させるには、この一騎討ちこそ、もってこいの場面であった。条件は、悉く揃っていたのである。  少年山中鹿之介は、どよめく味方の軍勢にむかって、刎ねた強敵の首級を、太刀先に刺して、高だかとかかげてみせた。  その時、真昼の空には、うっすらと三日月がかかっていた。  三  山中鹿之介幸盛の三日月に対する信仰は、その生涯をつらぬいて、心の支柱を為している。  後世の史伝は、いずれも、鹿之介が、三日月を仰いで、願わくば我をして七難八苦に会わしめたまえ、と祈り、折柄衰運に向いつつあった主家尼子家のために百折|不撓《ふとう》、万難を排して、その挽回に努めた、と記してある。  熊野記には、 『鹿之介、武芸を習うに当り、三日月の夜をえらびて、那智の滝を、飛び降りたり。ただの一度も、微傷だに負わず。神鴉《みからす》さまより授けられたる秘技のたまものなりと云爾《しかいう》』  とある。  鹿之介が、菊地音八を刺した左手の迅業《はやわざ》もまた、忍者「鴉」の伝授した秘技のひとつであったことはいうまでもない。  具足をかなぐりすて全裸となるばかりか、太刀も脇差も抛って、敵めがけて疾駆して行くのも、敵の虚を衝く忍びの術である。到底力で敵う対手《あいて》ではない以上、意外の術を用いざるを得ない。敵に組み敷かれた時、おのが右手で、おのれの脇差を抜くよりは、左手を使って対手の短剣を奪って刺す方が、やりやすいし、素早く果せられるのである。  いかにも、忍者好みの業といえた。 「滅び行く者に、栄光を与えよ」  と、三代の父「鴉」から遺言された忍者「鴉」は、栄光を与えるべき対手に、山中鹿之介をえらんだのであった。  山中久幸は、実は、唐土より出雲の浜辺へ流れついた青い眸《め》の女性を母に持つ人物であり、髪は褐色、面貌は彫りふかく、肌は白かった。したがって、その子鹿之介は、視る者をして、恍惚とさせるばかり美しかった。殊に、肌のなめらかな白さは、比類のないものだった。 「鴉」は、滅び行く者をさがしもとめて、日本全土を歩いた挙句、出雲へ至って、たまたま、侍臣につれられて出雲大社に詣でている幼い鹿之介を見かけて、 「この和子《わこ》こそ!」  と、胸をおどらせたのである。  目的を遂げる為には、忍者という者は、手段をえらばぬ。  山中久幸を、石見の山路に、襲撃したのは、何処の豪族でも盗賊でもなかった。「鴉」が指揮した熊野の神鴉《みからす》党だったのである。「鴉」は、自ら襲って、久幸に重傷を負わせ、熊野誓紙をすすめ、銀三荷を手に入れたのである。  滅び行く者は、その生い立ちに於て、すでに、悲運を背負うていなければならなかった。「鴉」は、鹿之介を、白鹿城から拉致して、熊野の那智の滝の近くにある草庵に戻るや、亡父久幸が捧げた熊野誓紙のことを、こんこんと説ききかせ、その生涯に三|度《た》びの加護がある旨を教えたのである。  加護を受けるためには、文字通り死にもの狂いの修業をやりとげる覚悟をせよ、と告げ、その日から、「鴉」は、鹿之介に対して、速疾鬼《らせつ》となったのである。  またたく間に、七年が過ぎ、鹿之介が十六歳になるや、「鴉」は、おのが知る限りの術をのこらず授けた、と云い、 「天下に、武名をとどろかすがよい」  と、帰国を許したのであった。 「鴉」は、しかし、その時を以て、鹿之介と別離したのではなかった。鹿之介という形に添う影となったのである。  例えば、尼子義久が、尾高城を攻めるや、初陣の功をあせる鹿之介に、「鴉」は、ひそかに会って、 「まだ、動いてはならぬ。陣列の中で、目立たぬように振舞え」  と命じたものであった。  五日目、義久が、いよいよ、総攻撃を開始しようとした矢先、ふたたび、鹿之介の前に出現した「鴉」は、 「尼子勢は退くであろう。その退路に、必ず、菊地音八が立ちふさがって、義久殿に一騎討ちをせまるに相違ない。その時こそ、そなたが、功名を一身にあつめる絶好の機会と心得てよいぞ」  と、その必勝の術を教えたのである。  そして、つけ加えて、 「敵の首級を挙げた時、空を仰げ。たとえ真昼であろうとも、三日月がかかっているに相違ない。良悪如何を問わず、そなたの宿運を決する時には、空に三日月が在る」  と、告げたのであった。 「鴉」の告げた通り、鹿之介は、音八の首級を高だかとさしかざした空に、三日月が、うっすらと、浮かんでいるのを、視た。  異常な神秘感が、十六歳の鹿之介の五体を走り、そして、この瞬間から、宇宙を司る五体のひとつが、自分を守護してくれているという自負が、渠《かれ》の心中に、死ぬまで満ちていることになった。  四  天文が終り、弘治《こうじ》が過ぎ、永禄《えいろく》に入るや、毛利元就と尼子義久の争覇戦は、ようやく、勝敗の色を明白にして来た。  弘治元年十月、大内義長を擁立した陶晴賢《すえはるかた》を、厳島《いつくしま》に粉砕して、芸・備両国を完全に征服した毛利元就は、矛を転じて、尼子義久に、全軍を以て当り、石見に割拠する大小十数の豪族を、次々と降伏させ、石見全土を攻略するに及んで、尼子義久の敗色が濃くなった。  毛利・尼子の攻防は、中国に割拠せる諸豪族の盛衰興亡を呼び、その余波は、四国・九州から遠く甲越地方にまで及んでいる。  毛利元就には、たのもしい子が揃っていた。まず、次男|吉川《きっかわ》元春である。世に毛利の両川《りょうせん》と称されるのは、この吉川元春の武勇と、三男の小早川家を嗣いだ隆景の智略である。  両川の武勇と智略が、石見全土を征服し、永禄六年には、ついに、銀山城の守将本城常光を降し、その一族を誅戮して、永く、銀山を毛利家の領有とすることに成功した。  将軍足利義輝は、毛利・尼子両氏を講和せしめ、元就の援助によって、幕府の権勢を恢復せんと計ったが、元就に軽く一蹴されてしまった。  元就は、尼子氏の本拠|富田《とだ》を去ることわずか数里の出雲|洗骸崎《あらはいざき》に城を築き、中海《なかのうみ》の大根島をも占領して、まさに富田|月山《がっさん》城を陥れようとした。  たまたま、長子隆元が逝ったので、毛利軍は、一時、攻勢の手をゆるめたが、やがて、以前にまさる勢いで、執拗に、戦いをしかけていった。  元就は、隆元の追善供養のために、白鹿城を攻略せよ、と全軍を励ましたのである。  毛利軍は、白鹿城を陥れるために、石見銀山から掘子数百人を呼んで、穴を掘らせて、攻めた。これに対して、城中にあってもまた、横穴を掘って、これを防ぎ、双方、暗黒の地下で衝突し、血みどろの闘いを交えた。  毛利軍は、兵船数百艘を以て、出雲三保ノ関から伯耆《ほうき》国弓ヶ浜の沿岸に至る海上を封じ、この方面からの武器糧食の輸送を阻止したので、白鹿城は遂に、敵せず、飢えて、降を請うた。  次いで、毛利軍は、富田月山城を総攻撃した。  しかし、月山城は、天嶮に拠り、堅く守って屈せず、寄せ手もまた、あまり攻防が長きにわたったので、長陣に倦《う》む気色がみえたので、元就は、一時は、一旦退陣して再挙を講じる気持になった。  そうした折、尼子|刑部少輔《ぎょうぶしょうゆう》・同式部少輔の守備する出丸に、深夜、一人の小男が、忍び入って来て、一通の封書をさし出しておいて消えた。  それは、意外にも、領主尼子義久から毛利元就に宛てた和睦状であった。  将軍足利義輝の周旋によって、媾和すること。勿論、尼子家に条件が不利でもやむを得ぬことであり、刑部少輔を吉川家へ、式部少輔を小早川家へ、人質として送り、当月山城を明け渡す。代りに、尼子領土の三分の二の安泰を約束してもらいたい。  そのような和睦条件が、五箇条にわけて、記されてあった。  料紙が、義久の常に使用しているものであったので、刑部少輔と式部少輔は、もしかすれば、これは義久のしたためたものかも知れぬ、と疑った。  同じ夜——。  本丸に在る義久の許へ、侍大将の一人が、刑部少輔の小指物衆の一人を、ひっくくって、曳いて来た。  その小指物衆が、城を脱出しようとしているのを発見して、捕えたところ、怪しい書状を所持しているので、つれて来た、という。  書状を披《ひら》いてみると、毛利元就に宛てた刑部少輔・式部少輔連署の降服状であった。義久は激怒した。  早朝、義久は、両名を呼びつけて、その降服状をつきつけて、 「おぼえがあろう!」  と、一刀両断にしかねまじい気色をみせた。  全く身におぼえのない両名は、昨夜の義久の和睦状のことを考えて、これはもしかすれば、自分たちを人質に送るための策略ではなかろうか、とあやしんだ。  いったん、双方がともに疑惑を抱いてしまうと、もはや、氷解することは不可能であった。  それまで、一致団結していた士気が、この事件によって、目に見えて、沮喪した。  贋手紙を作製して、義久を欺き、刑部・式部両少輔に疑惑を起させたのは、毛利軍の謀策ではなかった。熊野の一忍者の仕業であった。「鴉」は、尼子家を滅ぼさなければならなかったのである。  尼子家を滅ぼして、山中鹿之介に、あらたな悲運を与えなければならなかった。悲運に陥れることによってのみ、鹿之介に、後世にまで伝わるかがやかしい栄光を呉れることが可能であった。  ついに——。  刑部・式部両少輔が、毛利軍へ、趨《はし》り降った。義久は、両名を弁護しようとした忠良の老臣を、憤怒にまかせて、斬った。  そのために、月山城内の士らが、義久に愛想をつかして、多く、毛利方へ、降って行った。  糧食も全く欠乏した。海路から、それを求めようとしたが、毛利方の軍船が、弓ヶ浜を扼《やく》して居り、味方の兵粮船はすべて、奪取されていた。尼子義久は、毛利元就に使者を送って、 「我、衆命《しゅうめい》に代りて自刃し、城地を御渡し申すべし」  と申し入れた。  永禄九年十一月であった。  その日、山中鹿之介は、城の東南の千仞の断崖上に突出した白い巨巌の上へ、佇立して、光の薄い冬空にかかっている三日月を、仰いでいた。  ——願わくば、我をして七難八苦に遭わしめたまえ。  三日月に向って祈りをこめつづけて、十二年が経っていた。そして、いま、鹿之介は、いよいよ七難八苦の道へ向って進めと、指示された予感をおぼえた。  背後に人の気配がした。  鹿之介は、頭をまわして、十二年ぶりに、出現した忍者を視た。 「いよいよ、お許《こと》の面目を、発揮する秋《とき》が参ったな」  黒光りする皮膚を持った忍者は、無表情で、云った。 「わしは、明日から、どうすればよいか、教えてくれ、神鴉殿」 「豪傑になることじゃな」 「豪傑に——?」 「左様。当城を守って五年、毛利勢と闘って、常に寡兵を以て、敵軍を蹴散らしたのは、お許《こと》一人だけであった。お許がいたからこそ、当城は、今日まで、持ちこたえることが出来た、と申せる。昨年春、毛利元就自ら陣頭に立って総攻撃して参った際、元就をして、包囲の輪を解かせたのは、お許の働きに舌を巻いたからであった」  昨年春、毛利元就は、洗骸《あらはい》の本堂を一時星上山に移しておいて、城麓一円の麦を刈取り、軍を三派に分けて、三道から同時に、総攻撃を決行したのであった。  第一軍は、毛利輝元が先鋒となって、月山城の総帥尼子義久の守備せる尾小森口に向い、第二軍は吉川元春が先鋒となって、山中鹿之介の守備せる塩谷口に向い、第三軍は、小早川隆景が先鋒となって、尼子秀久の守備せる菅谷口に向い、猛烈な戦闘を展開したのであった。  半刻あまりの激突の挙句、まず、菅谷口の尼子秀久勢が崩れ、次いで、尾小森口の義久の率いる主力が、じりじりと圧倒されはじめた。  しかし、吉川元春の率いる芸・備・防・長・石五国の精鋭で組織した第二軍を迎えた塩谷口四千の尼子勢は、山中鹿之介の阿修羅の働きに士気を盛りあげて、逆に、元春自身の生命が危くなるところまで、突入して来た。  山上からこれを眺めた元就は、急遽、第一軍と第三軍を退却させて、第二軍の援助へまわす下知を発せざるを得なかった。  思えば、山中鹿之介一個の力が、毛利三万の大軍の総攻撃を、くいとめた、といえる。  元就が、籠城軍の闘志と、城塁の防備の厳重に納得し、強襲すればするだけ、将卒の犠牲を多くすることをさとって、城内外の連絡を遮断して、糧食補給の道をふさぐことに、力をつくすことにしたのは、その時からであった。 「お許《こと》の武名は、いまや、天下にかくれもない」  熊野の忍者は、云った。 「されば、その武名をになって、京へ上るがよい。天下の大名は、争って、お許を召しかかえようとするであろう」 「わしには、二君に仕える意志はない」 「もとよりのことだ。お許は、ただ、京に、堂々たる館を構えて、待てばよい。大名衆の使者が、日々相次いで訪れるであろう。牢人どもも、慕い寄って参るであろう。京わらべたちの噂の的になる豪勢なくらしぶりをするがよいわさ」 「そのように振舞いをする金など、わしは持たぬ」 「おっと、忘れまいぞ。お許の父上は、この鴉に、銀三荷を遣されたぞ。お許がどのような豪奢なくらしをやっても、さらに、心配無用だ。やるがよい。思いきって、派手にな——」 「そうしていて、一体、何を待てというのだ? 尼子家は滅びたのだ。わが君は、毛利に降られた。もはや、再起の機会もなく、その意志もあるまい。……しかし、わしは、尼子家を再興させたい。それが、わしの生涯をかけた誓いだ。どうすれば、尼子家を再興できるのか。ただ、待っていては、尼子家は再興できぬ。わしが待つのは、何か?」 「あせるまいぞ。尼子家は、たった今、滅びたばかりではないか。一陽来復《いちようらいふく》までには、多少の年月がかかると申すもの。待つのじゃな」  そう云いのこしておいて、「鴉」は、遠ざかった。  鹿之介の姿がそこから消えたのは、それから程なくであった。  巨巌には、血汐をもって、 「七度生れ変って、敵を滅ぼさん」  と、大書してあった。  五  流浪|半歳《はんさい》ののち、鹿之介は、京へ上った。  忍者「鴉」の予言は、正しかった。  鹿之介が、東山の麓に館を構えるや、たちまち、門前市をなすほどの訪客があった。 「山中幸盛を、わが麾下《きか》に!」  諸大名は、心から、それを欲した。  新興勢力たる毛利氏の武運が熾《さか》んになるにつれて、周辺の諸大名は、脅威を感じて来た。  京都を守り、近畿を領有する織田信長をはじめとして、九州北部にあって、毛利と直接に領域を争っている大友・大内氏のほか、瀬戸内海をへだてて、四国の諸将ら——伊予の湯月城主河野氏、松葉城主|西園寺《さいおんじ》氏、大洲《おおず》城主|宇都宮《うつのみや》氏ら、いずれも、毛利氏と興亡の決戦のほぞをかためなければならない形勢にあったのである。  これらの諸侯が、毛利両川の大軍を迎えて、ただの一度も敗北を喫しなかった山中鹿之介幸盛を、浪々のままに、見すてておくわけがなかった。  鹿之介が、何処から金力を仰いでいるのか、堂々たる生活ぶりを示すのも、諸侯の心を強く牽きつけた。  鹿之介を説くことに、最も熱心であったのは、織田信長麾下の羽柴《はしば》筑前守秀吉であった。  秀吉は、鹿之介を、その新居に、十余度も訪問して、説きつづけた。しかし、鹿之介は、織田の麾下となることは、固く拒んだ。ただ、やがて主家再興のあかつき、織田信長に、礼をつくすことだけは、約束した。  そのうちに、鹿之介の邸内には、尼子家の旧臣はじめ、諸国から上って来た武辺者が、あふれた。牢人者たちによって、鹿之介が偶像化されたのも、当然のなりゆきであったろう。また、京わらべたちから「鹿さま」の愛称で慕われたのは、豪傑の概念とは凡そちがった秀麗な風貌の持主であったおかげである。無限かと思われる金力をたくわえている不思議も、絶大な魅力であった。  自らが好むと好まざるとに拘らず、鹿之介のくらしぶりは、豪奢なものになった。  例えば、ある日、外出しようとすると、いつの間にか、尼子家の旧臣三十余騎が、一斉に、銀の三日月を模様にした装束をつけていたごとき——これは、羽柴秀吉の心づくしであった、という。  いうならば、主家が滅亡した不運も、天下の形勢が渠《かれ》を欲しているという好運も、いずれも、鹿之介に、天下の豪傑という名を与えるための好条件となったのである。  だが——。  鹿之介自身の胸中には、何事も愉しむことのできない虚しさが、澱んでいた。  永禄十一年八月三日宵。  鹿之介幸盛の英姿は、一条通堀川に架った戻橋《もどりばし》の上に、在った。  三善清行《みよしきよつら》が逝去して、葬輿《そうよ》がこの橋畔を過ぎようとした際、熊野に在ったその子浄蔵貴所が急ぎ入洛して、ここで逢い、只管《ひたすら》仏天に祈ったところ、清行を蘇生させることができたので、この戻橋の名が生れた、という。また、太平記の渡辺綱が、この橋上で、鬼女に遭う条は、あまりにも有名である。  鹿之介は、浄蔵貴所の幸運にあやかるべく、父久幸の祥月《しょうつき》命日たる今宵、この戻橋上で、三日月を仰ごうとしていた。  昏れがたは、厚い雲に掩われていた秋空も、堀川に、家々の灯かげが美しく映える頃あいになると、雲に裂け目をつけ、しだいに、散らしはじめた。  やがて、鹿之介は、 「お——顕れ給うた!」  と、叫んだ。  動くともなく流れる雲が切れたあわいに、細い鋭い三日月が、すっきりと夜空を彩った。  鹿之介は、合掌して、 「南無!」  と、となえた。  ——八幡! 我に、七難八苦を!  一心に念じつづけているうちに、鹿之介の耳に、声がとどいた。 「東福寺に、お許《こと》の求めている和子がいる」 「……」  鹿之介は、かっと、双眸を瞠《みひら》いて、流れる雲間に、現れたりかくれたりしている三日月を、凝視した。 「尼子家の血を継承する唯一の和子が、東福寺に在る。行って、おのが主とするがよい」  ——おお!  鹿之介は、心中で唸った。 「尼子|誠久《なりひさ》殿の季子《きし》孫四郎勝久殿だ。十五歳に相成る」  尼子国久は、尼子晴久(義久の父)の叔父に当り、文武の勇将で、その子孫は繁栄して、新宮党と称せられた。党をたのんで、やや驕傲《きょうごう》の行いがあったが、やがて、讒奸《ざんかん》が行われ、国久が毛利元就に通じている、と訴える者があったので、天文二十三年に、晴久によって殺され、その嫡男誠久もまた自刃して果てた。その時、誠久の季子勝久は生れてわずか二歳であったが、侍者に懐かれて、何処かへ遁れて、それきり消息がなかったのである。  その勝久が、生長して、東福寺に在る、という。鹿之介は、総身に、大いなる希望が油然《ゆうぜん》と涌き立つのをおぼえた。 「参るぞ、東福寺へ!」  鹿之介は、橋板を蹴って、奔り出した。  欄干に、双手が、かかり、ひょいと、黒い影が、姿を現して、遠ざかる鹿之介を見送った。 「これでよし! 熊野誓紙の、三度びの加護のうち、二度は成された。あと一度は、あの男が、滅び行く道にあって、絶体絶命に陥った時に、果される」  ひくく独語して、忍者は、鹿之介が奔ったのとは反対の方角へ、すたすたと歩き去って行った。  六  熊野記に拠れば、鹿之介は、東福寺に訪れて、その稚児に会うや、一瞬、心魂陶然となった、という。なんとも、目|晦《くら》むような美童だったのである。  美童が、華やかな稚児服をまとった姿は、けんらんと装った美女よりも、さらに妖しい美しさを発揮する。まして、鹿之介には、主筋の遺児という先入観念があったため、たちまち、足下に拝跪《はいき》せんばかりの心地になったであろう。  東福寺住職に乞うて、すげなく拒絶された鹿之介は、一夜、方丈に侵入して、住職を斬って、孫四郎勝久を奪い取った。  鹿之介が太刀を揮ったのは、住職が勝久と同衾していたためである。  稚児衆に、美貌を持った少年が、えらばれるのは、住職の伽《とぎ》を勤めるからであり、鹿之介も、やむなく、非常の手段をえらんだのである。  稀有の美童を擁して、尼子の旗印をひるがえした鹿之介の、百折不撓の悲壮な面目は、いよいよ、この時から開始された。  鹿之介にとって、勝久は、主君であるとともに、妻に代えた若衆だったのである。当時、武辺の若道は、なんの奇異でもない常識であった。鹿之介と勝久の間に生れた愛情が、ただの主従間のそれでなかったことは、それからの十年間の行動が、証明する。  鹿之介は、勝久をおのが館に迎えるや、尼子家再興を高言して、ひろく勇猛の武辺者を募った。その際、応募した一人の牢人者が、美童が、はたして、本当の尼子勝久かどうか、疑問があると、鹿之介に、云った。 「東福寺の稚児の美しさは、あまりにも、京洛に有名でござった。稚児は、宇治の遊女が生んだ父《てて》無し児で、四歳の時、東福寺住職に、銀一貫で売られた、ときき申した」  その言葉のおわらぬうちに、鹿之介は、太刀を鞘走らせていた。  刃向ういとまも与えられず、牢人者は、血煙をあげて、真二つになった、という。  鹿之介が、もし、若道という縁《えにし》で結ばれていなかったならば、牢人者を殺しはしなかったであろうし、美童の素姓をくわしく調べたに相違ない。  鹿之介は、美童が尼子勝久かどうか疑いを抱く者を、寸毫も容赦しなかった。  鹿之介は、天下に、尼子の遺児を擁した、と名のりをあげた以上、もはや、あとへは退けなかった。  孫四郎勝久が、若衆にも似ず、鹿之介の尽忠に応える勇武の若者であったことは、さいわいであった。  翌永禄十二年春、鹿之介は、勝久を擁して、蔭に織田信長の援助を受け、尼子家の旧臣ならびに、京洛の牢人者を糾合するや、但馬に入り、垣屋播磨守《かきやはりまのかみ》の助力によって、海賊船を組織して、隠岐に入った。  島主隠岐為清は、尼子氏の同族であったので、当然|悦服《えっぷく》した。  鹿之介の奮戦が、昼夜のわかちなく、開始された。  いくたびか勝ち、いくたびか敗れ、鹿之介も勝久も、総身に無数の刀痕槍傷を負うた。鹿之介は、おのれの五体が傷つくことよりも、勝久の白い肌が痛むのを、なげき悲しんだ、という。  出雲の布部山で、勝久の眉間を斬って、遁走した毛利の侍大将があった、とみた鹿之介は、ただ一騎で猛然と追跡し、毛利本陣近くまで突入して、その敵を仕止めたが、その時の姿は、まさに阿修羅そのもので、数千の敵兵は、その勢いの凄まじさに、ただ、茫然と居|竦《すく》んだそうである。  元亀二年、毛利元就が安芸吉田において病歿するや、毛利輝元・小早川隆景は、そこへ還って行ったが、一人吉川元春だけは、逆に、大軍を起して、尼子勝久が拠る伯耆|大山《だいせん》寺を、急襲した。  伯耆末石城に在って、山陰を扼していた鹿之介は、勝久の身を危懼《きく》して、兵の過半数をさいて、大山へ趨らせた。  元春は、この報をきくや、にやりとして、 「鹿之介ともあろう武辺が、こうもやすやすと、わが策に乗るとは!」  と、忽ち、軍を一転させて、末石城を包囲した。  末石城は、平城《ひらじろ》で、周囲に土塁を高く築造してあった。そこで、元春は、三日間を費して、三重の井楼《せいろう》を造って、この上から、矢・鉄砲を撃ちかけた。  いかに鹿之介に、超人的な武勇があっても、わずか五百の手勢をもって、一万八千の敵軍をひきつけて、ものの五日とささえられるものではなかった。  鹿之介は、勝久の身の安泰を条件にして、城門を開いた。  元春は、この好敵手を、尼子鎮圧の人質として、尾高城内に、拘禁した。実は、鹿之介自身、元春がとるであろうこの処置を、予め測っておいて、降服したのである。いわば、智能と智能のたたかいであった。降服して、むざと首を刎ねられることが判っていたならば、鹿之介たる者、壮烈な討死をえらんだに相違ない。  尾高城の質子《ちし》牢内の床柱に凭《よ》りかかって、黙念と目蓋を閉じていた鹿之介に、不意に、床柱が囁きかけて来た。  木材には、音波伝達力がある。どれほど長い木材でも、その一方に口をあてて喋ると、他の端に当てた耳に、明瞭にききとることができるのである。 「脱出の手段《てだて》は、ひとつしかない。与える薬を服すがよい」  一粒の丸薬が、床柱をつたって、鹿之介のそばへ、ころりと落ちた。  それを嚥《の》んだ鹿之介を、一刻経たぬうちに見舞ったのは、劇しい腹痛であった。呼ばれた番士は、鹿之介の顔面が、蒼白になっているのをみとめた。  番士は、鹿之介が、厠《かわや》へ行くのを禁じることはできなかった。行って戻れば、また、すぐに行かねばならぬ痢病の徴候に、番士も、つい、警戒を緩めて、鹿之介が厠に入ってかなり長い時間を費しても、べつに疑わなかった。  およそ八回ばかり往復した鹿之介は、みるみる憔悴して、ついに、自力の歩行もおぼつかなくなった。  やがて、また、鹿之介は、厠行きを願った。番士は、手を貸して、鹿之介を、つれて行ってやった。  こんどは、四半刻経っても、鹿之介は、出て来なかった。  番士は、鹿之介が、気を失っているのではないか、と心配して、覗いてみた。  鹿之介の姿は、厠の中から煙のように消え失《う》せていた。忍者「鴉」は、鹿之介を背負うて、大山へ趨り、勝久に会わせると、 「これで、それがしのつとめは、すべて、果し申した」  と、告げた。  熊野誓紙に請願された三度の加護は、のこらず遂行されたのである。  忍者「鴉」は、鹿之介の前から、永遠に消えるべき秋《とき》を迎えたのである。  天正五年正月——。  京の大路を、織田信長の号令を受けて、羽柴秀吉を総大将とする中国征伐の六万の軍勢が、隊伍堂々とくり出して行く。  その軍列の中に、ひときわ目立った一隊があった。二千余の将兵がのこらず、黒ずくめであり、立てた旗幟《きし》には、三日月が浮き出されていた。  先登《せんとう》に駒を進めるのは、黒革|威《おどし》の鎧に、白襟つけた黒羅紗の陣羽織、背には銀色の三日月紋をくっきりと描き、兜の前立に鹿の角をつけた山中鹿之介幸盛であった。  尼子家再興は、信長によって約束され、いまこそ、鹿之介は、毛利を討ち降す壮図に参加したのである。  往還の両側に蝟集した見物人の中から、その晴れ姿へ、食い入るような眼眸《まなざし》を注いでいる者があった。  痩せさらばえた老人であった。杖で身をささえているが、歩行もおぼつかないくらいの病人と見えた。  忍者「鴉」は、今年、六十歳を迎えていて、祖父・父にならって、自ら食を断って、この世を去ろうとしていた。  すでに食を断って、二十日が経過していたが、鹿之介の出陣をきいて、熊野から出て来たのである。 「天晴れの武者ぶりよ」  忍者「鴉」は、口のうちで、呟いた。 「……しかし、もはや、熊野誓紙の加護はない」  雄々しいその姿の肩のあたりに、不吉な死の影がさしているのを、忍者は、観てとっていたのである。  塚原卜伝  一  応仁《おうにん》大乱が起って、十五年ばかり経ったある早春の宵のことであった。  常陸国《ひたちのくに》・鹿島神宮の祗官|卜部覚賢《うらべかくけん》は、居室で、礼記《らいき》をひもといていたが、ふと、背後に、誰かが、いるような気がして、頭《こうべ》をまわしてみた。  壁にぴったり吸いつくようにして、黒装束の者が、坐っていた。膝に置いた両手の指さきまで包んで、わずかに、覆面の蔭から、切長な双眸を、冷たく光らせているばかりであった。  卜部覚賢は、この怪しい者が、ずっと先程から、そこに坐って、自分の背中へ、その冷たい視線をあてていた、と直感した。 「神妙剣」を奉ずる鹿島神宮の祗官としては、いかにも不覚のきわみであった。  覚賢は、静かな声音で、 「何者だ?」  と、問うた。 「名は与えられて居り申さぬ」  出現者は、こたえた。その声音《こわね》は、澄んで美しかった。  ——少年か?  覚賢は、眉宇をひそめた。 「名を与えられて居らぬとは?」 「熊野権現の使徒なれば、ただ、世人に、鴉とのみ称《よ》ばしめて居り申す」  出現者の双眸は、まばたきもせずに、視かえしている。 「鹿島の太刀を取りに参ったのか?」  覚賢は、訊ねた。  鹿島神宮は、古来、武神として、武人|防人《さきもり》の尊崇を聚めて来た。神功《じんぐう》皇后が、出陣にあたって、ここに祈って以来、征途に赴く者は、それにならったのである。「鹿島立ち」という言葉は、かかる事情に発する。  伝えるところによれば、鹿島の大行事|国摩真人《くになずのまひと》が、鹿島の神に祈って「神妙剣」という秘太刀を、会得して、それを、神官たちに授けた、という。「神妙剣」は、破邪降魔の一撃必殺太刀であった。したがって、武人たちは、出征壮途に上るにあたって、この技筋《わざすじ》を請うたものであろう。  鹿島神宮の神官たちは、代々刀法に秀れ、「神妙剣」の上古流は、「鹿島の太刀」と称ばれて、卜部基賢・卜部宗広・卜部繁雅・卜部宗景へと、その極意が、伝承され、さらに新工夫が加えられて、当代卜部覚賢に、承け継がれていた。  卜部家は、人皇四十六代、孝謙天皇の天平十八年三月紀に、「常陸国鹿島郡の卜部に、鹿島|連《むらじ》の姓《かばね》を賜う」と記されている名家である。上古以来、確実な歴史以前の大むかしから、鹿島の社に奉仕して、太占《ふとまに》のことにたずさわった氏《うじ》である。  卜兆《ぼくちょう》を職とした神祗官である。卜というのは、亀を灼《や》くことであり、兆というのは、灼いた亀の縦横の文《あや》のことを、指す。  こういう神秘をさぐる職に就いている家で、剣というものが発達したのである。 「鹿島の太刀」を欲して、諸方から訪れて来る兵法者は、夥《おびただ》しい数にのぼっているが、覚賢は、ことごとく、しりぞけていた。 「鴉」と称するこの熊野権現の使徒は、覚賢が、尋常の礼をつくしては、会わぬ、と知って、非常の手段をとったものに相違ない。  出現者は、「鹿島の太刀」を取りに来たか、と問われて、かぶりをふった。 「さあらず。別の願いがあって、参上いたした」 「別の願いとは?」 「鹿島の太刀の血を継ぐ者を卜部家に与えよ、との熊野権現のお告げによって、参上いたした」 「……?」  覚賢には、その意味が、咄嗟《とっさ》には、判らなかった。  覚賢は、五十歳を越えて、なお、嗣子《しし》にめぐまれていなかった。子は、欲している。しかし、正室のほかに、幾人からの側室をえらんでいたが、生れないのであった。  覚賢は、しばらく、出現者を、鋭く凝視していたが、一瞬、はっとなった。  ——これは、女人《にょにん》だ! しかも、若い。 「お許が、わしの子を生んでみしょうと、申すのか?」 「生み申す」  出現者は、きっぱりとこたえてみせた。  覚賢は、ふっと、微笑した。 「お許が、当方へ参ったのは、ただ、熊野権現のお告げがあったから、というのではあるまい。何人かが、熊野権現に訴願し、誓紙いたしたものであろう」 「いかにも——」  出現者は、頷いた。 「何人《なんぴと》だな、それは?」 「誓紙をされた御仁《おひと》の名を、明かすわけには参らぬ」  これは、当然のことであろう。  武人が、その家をのこすために、強く雄々しい養嗣子を得たい、とあさるのは、当時のならわしであった。たとえ実子があっても、凡庸であれば、これをしりぞけて、他家から、俊髦《しゅんぼう》をえらんだのである。  世は、戦乱であった。  昨日までの敵地は、今日は我が領土となり、明日はまた他人に奪われるかも知れなかった。依って、主たる者は、その家来を吟味したし、家来もまた主をえらぶのに慎重であった。そうでなくてさえ、世に大牢人、小牢人、大渡者《おおわたりもの》、小渡者があふれ、いわゆる|※[#にんべん+福のつくり]下者《ひょっかもの》・僭上者《せんじょうしゃ》として、野心を燃えたたせている。主従相互の吟味選択が、家柄より人柄となるのは、当然のなりゆきであった。  門地の有無を問わず、奇才異能が要請されることになる。  家を守るには、当主は、よほど秀れていなければならなかった。それでこそ、勇猛忠誠の士が麾下に集って来るというものであった。  卜部家の子孫などは、養嗣子にするのには、最ものぞましいのであった。  もとより、「鹿島の太刀」のみが、当時唯一の剣法ではなかった。大和には、三|兵《びょう》の達者、高田石成の剣、九州には、九州随一の物切りとして肥後の追手次郎大夫則高の創《はじ》めた剣があり、下って京八流の祖・鞍馬の重源、中条流の祖・鎌倉の中条出羽守頼平など、鉄中の錚々がいた。  しかし、日本剣法の祖は、天津児屋根命《あまつこやねのみこと》十代の孫、国摩大鹿島《くになずのおおかしま》の子孫である国摩真人《くになずのまひと》である、とされていたので、その正統を継ぐ鹿島神宮の神祗官は、巍然《ぎぜん》たる高峯と目されていたのである。  二 「相違なく、わしが子を生むか?」 「お手前の占卜《ぼくせん》にも、現れ申そう」  これは、自信に満ちた言葉というべきであった。 「よし、生んでみせい」  覚賢は、承知した。 「女鴉《めがらす》」は、神宮本殿を、その場所として、乞うた。  覚賢は、「女鴉」をともなって、本殿に入った。  祭壇にむかって、南側に、貴人の坐す帳土居《ちょうどい》が設けてあった。 「女鴉」は、そのままの姿で、繧繝端《うんげんべり》一帖の上へ、仰臥して、目蓋を閉ざした。 「脱がぬか?」  覚賢が、促すと、 「肌は見せ申さぬ」  という返辞をした。  覚賢は、やむなく、脇差を抜くと、「女鴉」のはいている四布袴のまん中を、截《き》った。  五指をさぐり入れると、ふっくらとあたたかな土壌に、嫩《やわら》かな春葱《しゅんそう》の芽が萌していた。  ——季女《おとめ》にまぎれもないようだ。  指頭につたわって来る微かな反応が、覚賢に、確信させた。  やがて、二指に掘り起こされて、土壌が柔らかくこなれ、盛りあがり、湿って、春葱の芽を濡らして来た。  覚賢は、やおら、その上に乗った。  ……一刻の間、「女鴉」は、死んだように微動だにしなかった。  覚賢が、はなれても、その仰臥の姿態は、ビクリともしなかった。  覚賢は、見下して、何か声をかけようかと思ったが、あまりに深い静止相を保っているのを、みだすのがはばかられて、そのまま、本殿を去った。  翌日の午《ひる》、覚賢が、本殿に入ってみると、「女鴉」はなお、そのままの寝姿を、動かしてはいなかった。 「女鴉」が、起き上って、覚賢の居室を、音もなくおとずれたのは、その夜も更けてからであった。  杉戸を開いて、廊下から入ってくると、 「来年の今月今夜、参上いたす」  と、告げた。 「嬰児《やや》を抱いて現れる、と申すか?」 「誓うて!」 「女鴉」は、立去った。  覚賢は、それからしばらくのあいだは、この不思議な訪問者のことを、時折思い泛べたが、いつとなく、忘れすてていた。  やはり——それは、居室で、書物を披《ひもと》いている春宵であった。  覚賢は、ふと、乳の匂いがしたので、頭をまわした。  まさしく、嬰児を抱いた「女鴉」が、壁ぎわに坐っていた。  女鴉は、坐ったままで、すす……と滑って、近寄ると、 「お手前様に、似て居り申すゆえ、お疑いはなきものと存ずる」  と、云って、嬰児をさし出した。  覚賢は、抱きとって、嬰児の寝顔を視た。おのれに似ているようでもあり、似ていないようでもあった。 「女鴉」は、覚賢を、凝《じっ》と瞶《なが》め乍ら、 「卜部家を継ぐ児のほかに、誓紙した御仁《おひと》が受け取りに参る児を、もう一人、生まねばなり申さぬ」  と、云った。  で——。  その夜再び、本殿内の帳土居で、同じ営みがなされ、「女鴉」は、一年後を約して、立去った。  こんどは、覚賢は、「女鴉」が現れる夜を、忘れなかった。  その宵が来ると、覚賢は、落着かなかった。  一年前と同じように、経几《きょうづくえ》にむかって書物をひらいたが、文字が目に入らなかった。  覚賢は、いつか、「女鴉」を愛している自分を発見していた。たった二度の契りであったが、正室にも側室にもおぼえない愛情が、おのが五体内に涌いているのを、はっきりと意識していた。  ——今宵、参ったら、三度び、あの帳土居で!  覚賢は、そう考えていたのである。  二更が過ぎ、やがて、三更が近づいた。  覚賢の背後に——壁ぎわに、出現する気配は、さらになかった。覚賢は、いくたびか、振りかえって、そこを視た。  覚賢は、次第に焦燥して来た。三更——子刻《ねのこく》がまわるや、その場に坐っていられなくなり、立ち上ると、庭へ出た。 「女鴉」が、庭から忍び入って来ることが、判っていたからである。  庭には、早春の冷たい十三夜の月かげが、ひっそりと、落ちているばかりであった。  覚賢は、居室に戻ると、 「子は、生れなんだ」  と、呟いてみた。  それとも、生れたのが女児なので、つれて来るのを、止めたのか。  いずれにしても、「女鴉」は、次子を生む義務がある。当然、今夜、訪れて来なければならないではないか。 「参らぬということはない!」  覚賢は、声を高くして、云った。  しかし、ついに、「女鴉」は、訪れなかった。  いつか、経几《きょうづくえ》に俯伏《ふふく》して、睡っていた覚賢が、家僕に、起されたのは、しらじらと夜明けてからであった。  「お客人《きゃくびと》にございまする」  告げられて、覚賢は、不機嫌な面持で、 「兵法ねだりの者なら、取次ぐに及ばぬぞ」  と、云った。 「いえ。初老の婦人にございまする。熊野から参った、と申されて、嬰児をお抱きでございます」 「なに!」  覚賢は、愕然となった。  書院に案内させておいて、覚賢が入ってみると、嬰児を抱いた女は、ひくく頭を下げて、 「わたくしは、熊野権現の巫女でありまする。神鴉《みからす》殿の依頼によって、嬰児をおつれ申しました。お受けとりのほどを——」  と、さし出した。  覚賢は、嬰児を双手に抱きとって、すやすやとねむる小さな貌を視おろした。  長子よりも、この子の方が、自分に似ているような気がした。 「母者《ははじゃ》が、なぜ自身で抱いて参らなんだのか?」  覚賢は、問うた。  巫女は、目を伏せて、 「この和子を生かすために、難産を堪えられて、逝《みまか》られました」  と、こたえた。  覚賢は、息をのんで、「女鴉」がおのが生命とひきかえにした新しい生命の重みを、量った。  三  十五年の歳月が流れた。  永正元年春、常陸国鹿島郡塚原の城主・塚原土佐守新左衛門安重が、鹿島神宮を訪れた。  卜部覚賢と対坐すると、きわめて何気ない面持で、 「御子息の一人を、塚原家に養嗣子として、頂けまいか」  と、申入れた。  一瞬、覚賢は、大きく双眼を瞠って、土佐守を、瞶《みつ》めた。  ——熊野誓紙をしたのは、この土佐守であったのか!  しかし、そのことを、口にすべきではなかった。 「女鴉」は、土佐守の誓紙に応えて、おのが生命をすてて、その後継者をつくったのである。覚賢は、黙って、二子のうちのいずれかを、渡してやらねばならなかった。  覚賢には、土佐守が、卜部家の血を享けた子を、おのが後継者にしたい気持が、よく判った。  塚原家もまた、桓武平氏の名家・烟田《かまた》家から分れた塚原|邑《むら》の豪族であった。  烟田家は、武家として、比肩する者がない程の家柄であった。平氏としては、宗家平清盛の家に次ぐ名門であった。桓武帝の血を享けた常陸大掾《ひたちだいじょう》国香の子に、貞盛・繁盛という兄弟があり、貞盛は平将門を征伐した後、京都へ移って、浄海入道平相国清盛の祖となり、弟の繁盛は、常陸の館に残った。この繁盛の子|維幹《これもと》が、烟田家の先祖である。  ただ当代塚原土佐守は、無念乍ら、常陸の守護職佐竹氏の随身になっている。  土佐守の肚裡《とり》には、名門塚原氏が、いつまでも、土豪上りの佐竹氏の下に就いていることをいさぎよしとせず、いずれは、佐竹氏を除いて、常陸国の支配者たらん、という野望があるに相違なかった。そのためには、抜群の俊髦を、後継者にえらんでおかなければならなかった。  実は、土佐守には、帯刀《たてわき》という一子があったが、身体がひ弱で、頭脳も凡庸だったのである。  土佐守もまた、一流兵法者であった。その「天真正伝《てんしんしょうでん》流」の極意をさずける者を必要としていた。 「子は、二人居り申す。いずれなりと」  覚賢は、こたえてから、 「但し、二子には、いまだ、鹿島の太刀は、さずけて居りませぬぞ」  と、ことわった。 「当方は、卜部家の御子を貰いたくて、参上いたした。塚原の子となれば、それがしが、飯篠長威斎先生より学んだ天真正伝神道流を教え申す」 「では、よしなに——」  覚賢は、二子のうちのいずれをも指名しようとせず、土佐守もまた、十六歳の一太郎|常賢《つねかた》と十五歳の小次郎|朝孝《ともたか》が、居竝んで、挨拶しても、即座には決めようとはしなかった。  ただ、二人の少年を視比べてから、頷くと、覚賢に、 「御子息たちに、それがしの見送りをさせて頂きたい」  と、たのんだ。  覚賢は、一瞬、土佐守の肚裡に、危険なものがひそむのを読みとった。  土佐守は、見送られる途中、不意に、刀を抜くかも知れぬ。兄弟が、その試しを、当然のこととして受けて、能く闘うだけの業前《わざまえ》を有《も》っていたならば、土佐守は、満足して、刀を鞘に納めるであろうが、もしそうでなければ、たちどころに、兄弟もろとも斬り伏せるに相違ないであろう。  覚賢としては、むざと斬られるような息子たちを持ったことを、恥として、一語の抗議も許されぬところである。  ——やむを得ぬ仕儀!  覚賢は、|ほぞ《ヽヽ》をきめると、常賢《つねかた》・朝孝《ともたか》兄弟に、 「土佐殿を、森のはずれまで、お見送りいたせ」  と、命じた。  土佐守が辞去した時には、もう陽が落ちて急速に闇がひろがっていた。  森に入ると、途は、あやめもわからぬ暗黒となった。  土佐守は、屋敷を立ち出た時から、二人の少年の挙動に対して、鋭く心を配っていた。土佐守は、刀を抜く一瞬を、うかがっていたのである。  しかし、森のはずれに出るまで、ついに、土佐守は、刀を抜く隙がなかった。それは、弟小次郎朝孝の方に、微塵も油断がなかったからである。  小次郎朝孝は、玄関を出る時、兄に提灯を持たせてまん中に、土佐守を右側に、そして、おのれは左側に——その位置を、逸早く、占めていたのである。  土佐守は、右側乍らも、一太郎常賢を斬る自信はあった。しかし、その時は、もう、左側から、小次郎朝孝の太刀を真向に受けるのを、覚悟しなければならなかった。土佐守は、とある刹那、こころみに、殺意を閃かしてみて、間髪を入れず、兄をへだてて、弟から、その殺意に応ずる剣気が、うちかえされるのを、直感したことである。  曲り角に来る毎に示す小次郎朝孝の所作も、土佐守を戦慄させるなみなみならぬ用意周到さであった。なんということもなげに、小次郎朝孝は、曲り角に来ると、半歩おそく踏み、角を避けていた。曲り角こそ、土佐守の位置を有利にするのだが、それを朝孝は、牽制したのである。  朝孝は、べつに、父から、警戒せよ、と耳うちされたわけではなかったろう。また、父のように、土佐守の肚裡を読みとっていた次第でもなかったろう。ただ、ふだんの心を、兵法としていたのである。  生れ乍らの兵法者といえた。  もし、土佐守を、賓客として遇し、その礼をはらっていたのであったならば、中央に据えた筈であり、弟たるおのれが、提灯を提げて、土佐守の右側に立ったに相違ない。朝孝は、敢えてそうせず、たとえ、兄が斬られても、おのれは、斬られぬ有利の立場をえらんでいたのである。  兵法者の非情というものであった。  森はずれで別れて、土佐守は、一人で歩き出した時、えらぶ者が、きまっていた。  ——あの少年は、必ず後世にまで名を残すであろう!  四  永正五年の晩秋の午後のことであった。  筑波山南面の裾輪《すそわ》にあたる、老杉《ろうさん》・喬松《きょうしょう》の欝欝《うつうつ》として繁茂した傾斜地の、とある地点で、一人の猟師が、異様に緊張して、いま、音を忍ばせて、弓に矢をつがえた。  筑波郡に、比肩する者のない名手と称される源八は、山津浪で崩れて、地肌をむき出した断崖の下の、いちめんに生い茂った篠の蔭に、巨きな熊を、発見したのである。  熊は、ゆったりと、篠に巨体をうずめて、午睡をむさぼっているようであった。  ——南無……八幡!  源八は、狙いつけるや、祈りをこめて、ひょうと射放った。  狙いあやまたず、矢は、巨熊の頚根《くびね》を襲った。  だが、その刹那、巨熊は、ぱっと、寝返り打った。  打ったが、そのまま、動かぬ。  もうその時は、源八は、第二矢をつがえていたが、当然、巨熊がはね起きて、遁走するものと思っていたにも拘らず、小莫迦にしたように、寝返っただけで、また睡ったふりをしたのに、なかばあきれ、なかば憤って、  ——こやつ!  と、かっと、双眼をひき剥《む》いた。  第二矢もまた、すんぶんの狂いもなく、唸りを発して、巨熊の頚根へ、飛んだ。  と——間髪を入れぬ迅さで、巨熊は、もとのかたちに、寝返った。矢は、篠の中へ吸い込まれただけであった。  源八は、第二矢を放つがはやいか、第三矢を、背中から抜きとって、弓へ当てていたが、こんどは、すぐに、放とうとしなかった。  二十余年間、関東の山嶽をわたり歩いて、かぞえきれぬ程、熊を仕止めている源八は、熊の習性を知悉していた。ところが、眼下の|それ《ヽヽ》は、こちらの必殺の矢を、二本もはずしたばかりか、悠々として、なお睡ったふりをしてみせている。  源八は、足もとの大きな石を、蹴落した。石は、断崖をころげ落ちて、巨熊の蹲《うずくま》る篠をざわめかした。  にも拘らず、巨熊は、動かぬ。  ——うぬ!  源八は、断崖の縁まで、踏み出した。  睡っている熊を射殺すのに、さほどの手練は必要とせぬ。ところが、名手源八が、二矢までも外されたのである。熊が、睡り乍ら、本能的に寝返った——そんな偶然が、二度も続いて起るものだろうか?  しかも尚、熊は、起《た》とうともせぬのだ。  筑波|颪《おろし》が、篠の葉末を波立てて流れて行く斜面で、熊は、断崖上の敵を全く無視して、静かに蹲っている。  源八は、それがただの熊ではなく、熊野権現の眷属かも知れぬ、と背筋に悪寒が匍《は》うのをおぼえた。  しかし、もはや、こうなったら、射止めるまでは、幾矢でも放つよりほかはなかった。筑波随一の名手としての意地だった。  源八は、常陸国領主佐竹氏より拝領した重藤《しげどう》の弓に対しても、慙《は》じなければならなかった。  ——こんどこそ、目に物見せてくれるぞ!  弦《つる》を、ぎりぎりとひきしぼった。  この時、巨熊が、のそりと、身を起した。  後足で立つや、さあ射てみろ、といわぬばかりに、その咽喉下《のどした》の月の輪を、しろじろと浮きあがらせてみせたのである。  源八は、矢を、弦から、切ってはなした。  矢は、一直線に、その月の輪めがけて、宙を截《き》った。 「あっ!」  源八は、思わず、悲鳴に似た叫びをほとばしらせた。  巨熊は、前足で、その矢を、苦もなく、叩き落してみせたのである。  次の瞬間——。  源八は、なんとも名状し難い恐怖の形相になって、拝領弓を投げすてると、旋風にはねとばされたように、逃げ出していた。  巨熊の方は、猟師の恐怖ぶりを見送ったのち、前足で、月の輪の白毛の中をさぐっていたが、そこを、ぱくりと開いた。  頭巾でも脱ぐように、熊の首が、うしろに外れて、現れたのは、凛々しい若者の顔であった。  塚原土佐守の養嗣子となった卜部小次郎朝孝が、この若者であった。  小次郎朝孝は、塚原家へ入ってから、三年間、土佐守から、天真正伝神道流を学んだ。土佐守をして、敵わじ、と思わせるには、三年あれば足りた。  土佐守は、ある日、小次郎を呼んで、 「もはや、わしが教えることは、何もない。……諸国修業に出るがよい」  と、すすめた。  小次郎は、その日のうちに、館を立出た。爾来二年余、小次郎の足跡は、遠く、九州の土にも、捺《なつ》された。  小次郎は、自ら進んで、兵乱の起っている国をえらんで行き、一介の牢人者として、合戦に加わって、修羅場裡に、剣をみがきつづけたのであった。  後年、「塚原卜伝」となって、記述したものによれば——。  真剣勝負十九|度《た》び、木太刀の仕合はかぞえきれず、戦場を踏むこと三十七度び、名ある敵の首級《しるし》を挙げること二百十二人、おのが躰に刀|疵《きず》は一箇処も負わず、但し、矢疵六箇処、という。  小次郎は、この二年間で、すでに、十七度も、合戦に加わっていた。六箇処の矢疵は、この十七度びの戦場で負うたものである。  小次郎にとって、敵の刃がわが身に当った例《ためし》がないことを誇るよりも、矢疵を六箇処も受けたことを、未熟として、慙じたのである。 「鹿島の太刀」の家筋に生れ、「天真正伝」の正統を継ぐ身としては、雑兵対手の太刀撃ちに気をとられているうちに、飛来した矢を避け得なかったことは、不覚であった。  常陸へ還って来た小次郎は、一日、思いついて、懇意の猟師にたのんで、巨熊の皮をゆずり受け、これを被って、筑波山中に入り、狩人たちから、矢を射かけさせたのである。  文字通り生命を賭けた修業であった。  五  筑波随一の名手源八の矢を、三本とも外した小次郎は、しかし、おのが迅業《はやわざ》が、剣の神妙を会得したものだ、とはすこしも思っていなかった。  いや、かえって、こういう試しをやるたびに、何か大きな絶壁が、おのれの眼前に、そそり立っているのを、おぼえるのであった。  小次郎は、熊の皮を脱ぎすてて、重い気持で、里へ降りて来た。  その時、聚落から、奇妙な行列が出て来るのに行き会うた。  数|旒《りゅう》の幟《のぼり》やら、梵天をかかげていたが、その幟には、稚拙な筆で、三宝荒神やら摩利支天やら庚申青面金剛やら鬼子母神やらを描いていた。  貧しい土民たちなので、身装《みなり》は平常のままであったが、まん中に、一人だけ、白装束の者が交っていた。これは、娘であった。まだ十六七の、色白な、可憐な面差をしていた。血の色を喪った暗い表情で、素跣《すあし》で歩いていた。  ——これは、人身御供らしい。  すれちがいがけに、小次郎は、感じた。  前後の男たちは、供物らしい品を、それぞれかかえていたのである。  小次郎は、行列を、泪《なみだ》の眼眸《まなこ》で見送っている一人の老婆の前に来て、 「おばば、あの娘は、どこへ、人身御供に上げるのだ?」  と、問うた。 「熊野様へのう——」  老婆は、こたえて、合掌した。どうやら、娘は、この老婆の孫であるらしい。 「熊野様?」 「あの西の山の上に、権現様がおまつりしてある。|ちか《ヽヽ》は、権現様へ、操《そそ》を捧げたてまつるのじゃ」 「それは、どういうのだ? 熊野権現社に、狒狒《ひひ》でも棲んでいるというのか?」 「もったいないことを云うでないぞ、牢人衆。……このたび、熊野様のご回国のおふれがあったのじゃ。三年に一度のご回国には、村を挙げて、貢《みつぎ》をせねばならぬてや」 「熊野から、どんな異形者が参るのだ?」 「|しか《ヽヽ》とはのう、拝んだ者は居らぬてや。権化なれば、さまざまのお姿におなりじゃろうわい」  小次郎とても、迷妄の思想のゆきわたった時代に生れた若者であった。  老婆の話をきいて、即座に、  ——純朴な土民を誑《だま》している奴がいる!  と、断定する知性には欠けていた。  熊野権現の化身の存在を、疑ってはいなかったのである。  神というものは、元来、人間の恐怖によって、誕生している。山上から火焔が噴いたり、虚空を稲妻が奔ったり、大風大雨が襲来したりするのも、悉く、魔神の仕業と考えられた。  人間が、自然の猛威に遭って、おのが微小さを思い知らされる場合、目に見えぬ恐ろしい支配者の存在を妄想するのは、人情というものであり、この怒りの神を鎮めるために、生贄を貢いで、拝跪《はいき》するのは、当然のなりゆきであった。  一方、神々の側からすれば、怒りを示す場合も、慈悲仁愛を垂れる時も、これは、奇蹟をもってしなければ、人間の信仰を得ることはできぬ、ということになる。  だいたい、熊野権現は、人間を恐怖させたり、歓喜させたりする神技を発揮するために出現した神である。  関八州に戦乱が相次ぐや、熊野権現は、この八幡大菩薩の地盤に、領域をひろめるべく、幻の兵力である「神鴉」を遣《つかわ》して来たのであった。  人心を収攬するのは、一にも二にも、奇蹟である。天文・暦数にくわしいのは、熊野権現の武器である。天変地異が起る毎に、熊野権現は、予言を行い、天竺渡来の薬草類を使って、仁術を施してみせた。  さらに、熊野の神かくしに会った者は、数年を経て、帰郷すると、必ず特技を習得していて、養蚕に、機織に、染色に、村人を驚かした。  こうして、武人たちが戦乱に明け暮れている間に、熊野権現に対する信仰は、庶民の間に、野火のようにひろがっていたのである。  熊野権現の祠《ほこら》は、恐怖の伝説を持った山には、必ず建立されていた。そして、三年に一度、眷属「神鴉」が、天翔《あまか》けるがごとく、遣されて来て、村人たちの貢物を受けていた。  眷属「神鴉」の来訪は、必ず、予告がなされた。猟師源八が、逃げ戻って、報告したことが、にわかに、村中をいろめきたたせたのである。  早速に、村から一里の山上に鎮座する熊野権現の社に、神饌《しんせん》を供えなければならなかった。飯をかしぎ、干魚を焼き、野鳥山菜をとりそろえ、村長《むらおさ》の倉から、かねて用意の織物を出し、そして、村一番の美しい娘をえらんだのである。  熊野権現の眷属神鴉は、好色であった。美しい娘を生贄に供されることを、すこしもこばまなかったのである。  村人にとって、これは、かえって、神鴉様を身近なものに感じさせた。土民たちは、新しい武将に、占領されるたびに、生贄を提供することに、馴らされていたからである。  もし、娘が孕むような結果になれば、さらに、おのが村に特別の幸運がもたらされることも、期待できる、というものであった。  ——ひとつ、熊野権現に、挑戦してみようか。  老婆の話をきいた塚原小次郎は、不意に、不遜な闘志を起したのであった。  六  山上の社殿は、貧しい人々の浄財によって建立されたものにしては、意外に立派な構えであった。  生贄の娘一人をのこして、村人たちが追われるように山を下ってから、一刻あまり過ぎた頃あい。  塚原小次郎朝孝は、祭壇へむかって正座している娘のそばへ立った。  小次郎は、怯《おび》えて、仰ぐ娘に、 「安堵せい。わしは、熊野の眷属ではない。そなたを、生贄にさせぬために、来た」  と、云った。  娘は、その言葉の不遜さに、別の恐怖を示したばかりであった。  おののき乍ら、片隅にしりぞいて、ちいさくなった。  小次郎は、神燈のまたたきへ、双眸を据え、正座をつづけていたが、  ——今夜中に、出現するとは、限るまい。  と思いなおして、愛刀を抱いて、横臥すると、目蓋を閉じた。  ……ふっと。  静寂を破る鴉の啼き声に、目ざめて、ぱっと起き上ってみると、夜は、淡々《あわあわ》と明けはなたれて、闇は、祭壇の奥や、柱の蔭に、わずかにのこっているばかりであった。  娘は、板壁に凭りかかって、首をふかぶかと垂れていた。  小次郎は、一瞬、立ちざまに、九尺を跳んで、娘の傍へ——板壁を、せおった。  反対側の板壁際に、黒い影が、ひっそりと坐っていたからである。  双眸のほかは、全身を指さきまで包んだ異形の者へ、じっと、鋭く視線を当て乍ら、小次郎は、おのれの不覚をみとめた。  対手は、暗夜の中を、ここへやって来て、ずうっと、自分の睡りこけた寝姿を見戍《みまも》っていたに相違ないのである。  ほんの微かな気配がしても、敏感なけもののように、神経を鋭く反応するように鍛えていた筈の小次郎にとって、これは、名状し難い無念であった。 「お主が、熊野の眷属神鴉か?」 「左様——」  対手《あいて》は、猶そこに坐ったまま、こたえた。 「回国に当って、神饌を受けるのは、ならわしであろうが、娘子を生贄にする残忍は許し難い。増上慢とそしられても、仕方があるまい。……一剣を持って、これをはばむ者がいたとしても、不思議とすな!」  小次郎は、昂然と、胸を張って、云いはなった。 「兵法の家筋に生れた仁《じん》か、其許《そこもと》は?」 「塚原小次郎朝孝」  この姓名をきいた瞬間、忍者「鴉」は、 「……む!」  と、微かだが、烈しい愕きの声を、もらした。  二十年前、塚原土佐守の熊野誓紙によって、卜部覚賢を訪れ、二度び契って、二人の男児を儲けた「女鴉」こそは、この忍者の実妹だったのである。  忍者「鴉」は、やおら立ち上ると、 「お対手《あいて》申そう」  と云って、ゆっくりと、祭壇前まで、進んで来た。  二基の燭台をへだてて、対峙することになった。  小次郎は、三尺二寸の大太刀を鞘走らせると、 「鹿島の太刀に、業念は微塵も含まず候」  と、独語するように云って、左肩に担うように構えた。これは電光の型であった。  対手の方は、右手に、わずか三寸の短剣を延ばし持ち、左手は、甲を腰にあてたままであった。所謂不動|七縛《しちばく》印の裡《うち》の、刀印をきった形であった。  小次郎朝孝が、後日、卜伝と号したのは、この日の立合によって、熊野「神鴉」の秘法を会得したためである。  忍者「鴉」の武技には、七伝があった。順に、イロハニホヘト、と称《つ》けられている。その第七伝——即ち、ト伝が、この日、小次郎に授けられたのである。  小次郎は、この秘法に、さらに工夫を加えて、「一の太刀」を創り、自ら卜伝と号することになった。  いわば、この立合は、日本に、一人の剣聖を生むための重大な試練であった。  まず、特記しておかなければならなかったのは、両者が、白刃を抜いて、対峙した時、外はしだいにあかるく明けはなたれていたにも拘らず、社殿内が、反対に、にわかに昏《くら》くなり、神前の燭台の灯火が、徐々に光を増したことであった。  忍者「鴉」の抜き持ったのは、その初代から受け継いだ護身の如意鉾《にょいぼこ》——「白光、空を奔って、人を刺す」と謂われた神変不可思議の働きをする双刃三寸の懐剣であった。  親指と薬指と小指の三本で、柄を握り、人差指と中指を伸ばして、刃に添えていた。これは、刀印の形であり、同時に、いつでも、手裏剣と化して、投擲《とうてき》できる構えであった。  双刃は、鏡のごとく磨かれていて、手くびのひねりかたひとつで、灯火を反射して、対手の目を射ることができるのであった。 「鴉」が、燭台を前にした地歩を占めたのは、このためであった。  変幻出没の術には、二つの方法がある。はじめ、姿を隠しておいて、不意に出現してみせる方法と、はじめは、灯火に姿をさらしておき乍ら、光の反射で、対手を目晦ませて、同時に姿を消す方法とである。  立合に於ては、後者の方が、おそろしい。  三尺二寸の長剣に対するに、わずか三寸の鉾で向うには、これだけの秘術が用意されていなければならぬ。  加之《しかのみならず》、これに手裏剣の術を加えれば、長剣であろうが、槍、薙刀であろうが、いささかも、武器に劣るところはない。  進退の軽捷に於ては、忍者とただの兵法者とでは、比べもならぬことは、申すまでもない。  これに対する小次郎朝孝は、忍法の修業こそしていないが、跳躍の業にかけては、戦場にあって、しばしば、敵味方をして、魔神の化身かと目を疑わしめたくらいであった。後年に編んだ、天狗跳び切りの術は、いかなる兵法者と雖も、必死になって、ついに修得できなかったところである。  その自信が、あればこそ、小次郎は、長剣を、左肩に担ぐ構えをとってみせたのである。  この構えは、五体の動きと太刀の働きを、一刹那に一如のものとすることが、できるのであった。  大上段、青眼、地摺り——これらは、いずれも、まず、双手をもって、太刀搏ちをすることになる。体躯の方は、それに従って動くことになるのである。  小次郎は、戦場の経験によって、太刀と五体を全く一如にして、同時に働かせる業をおぼえ、いつか、この構えを生んでいたのである。  自ら電光と称《つ》けたくらい、左肩から、五体の旋回とともに斬り込む白刃の一閃は、目にもとまらぬ迅さであった。  熊に化けて、わざと、狩人から、矢を射かけさせて、これを、外す工夫をこらして来た小次郎である。いかに忍者「鴉」が、岩燕《いわつばめ》を狙って、百発百中せしむる手練の投擲者であろうとも、小次郎が、むざと、胸をつらぬかれる筈があるまい。  このように、闘いに備えるおのおのの条件に利を有している対峙であってみれば、一進一退に、はてしがないかのようにみえた。  小次郎が、つと、間合を詰めようとすると、如意鉾が、煌《きらっ》と光って、まなこを刺した。  小次郎にとって、さらに、当惑を感じたのは、対手の呼吸が、全く測れなかったことであった。息をしている生きものとは、感じられなかったのである。  これは、剣法と忍法の相違であった。  剣を学ぶ者は、鼻先に羽毛を置いても、動かないほど、静かな息づかいを、工夫する。しかし、忍法に於ては——殊に、「神鴉」の会得している呼吸術は、非常に細かな息を、おそるべき迅速さで、くりかえしているのであった。いわば、波長の長短が、対蹠的だったのである。  これは、平常の修業が、両極に立っていたことを意味する。  闘いは、果しがないか、とみえて、やはり、双者が、機を発するまでの時間には限りがあった。 「鴉」の如意鉾が、小刻みに、震えをおびて来たのは、その刹那が、切迫して来たのを示した。  小次郎のふみ開いた両足の親指に、力が加わった。  瞬間——。 「鴉」の如意鉾が、さっと、小次郎の顔面めがけて、空を截った。  小次郎は、応っ、と心得て、首を斜めにして、これを外しざま、当然、跳び退るであろう敵へ、猛然と、必殺の一撃をくれるべく、滑走しようとした。  すると——。  奇怪にも、小次郎の面前一尺の空間に、如意鉾は、煌《こう》と光を放ち乍ら、静止していたのである。  愕然——小次郎は、度を失った。  その時、後頭部に、手刀を受けた。  小次郎は、もろくも崩れて、失神した。  七  前章の、塚原小次郎と「鴉」の決闘の状況を、ここで、もう一度、くりかえして、述べる。  熊野権現の社殿内で、小次郎と「鴉」は、約九尺をへだてて、対峙した。「鴉」の前には、燭台が在った。  小次郎が、三尺二寸の長剣を、左肩に担うように、切っ尖をうしろに流した電光の構えをとって、間合を詰めようとするや、「鴉」は、双刃三寸の如意鉾を、煌と燭台の炎に反射させて、それをさせなかった。  ついに——。  汐合極まって、小次郎が、猛然と撃たんとした刹那、間一髪の迅さで、「鴉」が、その短刀を右手から、投げた。  小次郎は、心得た、とばかり、これを外して、猛然と反撃に移ろうとした。  すると、奇怪にも、短刀は、小次郎の面前一尺の空中に、ぴたっと停止してしまったのである。  愕然と小次郎が、度を失ったときには、「鴉」は、すでに、小次郎の背後にまわっていて、その後頭を、手刀で搏った。小次郎は、失神した。 「鴉」の忍法七伝のうちの、この止剣の法というのは、想うに、光線を巧みに応用した変化《へんげ》術であったろう。  もとより、いかなる手練でも、光の速度にまさることは、不可能である。  幾度びか、「鴉」は、小次郎に、如意鉾の刃面に灯火を反射させて、目眩まし、惑乱させておいて、汐合極まった機に於て、あたかも、その如意鉾を投じたごとき、錯覚を起させた。  小次郎が、飛来した短刀を外した、と思ったのは、全くの錯覚であった。  小次郎が錯覚したと看た一瞬、「鴉」は、右手にした如意鉾を、さっと、その顔前に突き出し、あたかも、飛んだそれが、突如、空中に停止したように、見せかけたのである。  いわば、小次郎に、錯覚を二度、起させたわけであった。  この結果、停止した短刀に牽《ひ》かれて、小次郎自身が、一瞬、虚脱の状態となった。  迅業同士の立合に、一瞬の虚脱は、致命的隙となる。「神鴉」の秘技が、幻術である、と伝えられるのも、こうした心理的効果をねらった手法が、多く用いられていたからに相違ない。  いずれにしても、塚原小次郎の完敗であった。  八  小次郎が、再び意識をとりもどした時、渠《かれ》は、老松の根かたに、くくりつけられていた。すでに、その時は、宵闇が降りていた。  甦って、まず、小次郎の意識に入って来たのは、狼の遠吠えであった。  筑波山中に、幾年間をくらした小次郎は、それが、|えじき《ヽヽヽ》を発見して、仲間を呼び寄せる吠え声であることを、即座に、さとった。  |えじき《ヽヽヽ》は、この塚原小次郎である。  ——おれは、ここで、果てるのか。  自身に呟いた小次郎は、しかし、不思議なことに、すこしも狼狽をおぼえなかった。  このおちつきは、どこから来るのか?  自身を訝《いぶか》った——瞬間、はっとなった。  郡狼を招く遠吠えは、本物ではなかった。それを、小次郎は、さとった。  小次郎の視線は、十間あまり離れた松へ投じられた。  頂き近くの枝に、一個の黒影が、鳥のごとくとまっているのを、小次郎は、視分けた。 「鴉」にまぎれもなかった。  ——おれを、悪《にく》むにしても、これは、度を越している!  小次郎は、はじめて、勃然《ぼつぜん》と憤りをおぼえた。  生贄の村娘を渡すまい、としたことが、生き乍らに、群狼のえじきにするほどの憎しみを湧かせるものなのか。すでに、こちらは、勝負に敗れているのである。 「うぬ!」  小次郎は、やがて、闇の中に、二つ、三つ、四つと、不気味に光るまなこの数が増すのをみとめて、歯がみした。  すると、彼方の樹上から、声が、かかった。 「鹿島の太刀の家に生れ、塚原家の天真正伝の正統を継がんとする男《お》の子よ、汝は、真言の九字を知って居るか! 知って居るならば、その験《しるし》を証してみよ。万物の霊長が、餓狼の餌になるものに非ず、と」  小次郎は、そう云われてみて、おのが両手が、九字を切るだけの余裕を与えられているのを、知った。  ——おれを、試すのか!  小次郎は、口惜しさが、のどもとまでこみあげて来た。  すでに、渠《かれ》の前面には、獣のまなこが、大きく半円を描いて竝び、飢えた光を放っている。  その首領が、跳びかかるのを合図に、一斉に襲って来るに相違ない。  小次郎は、これまで、山中放浪の間、幾度びか、狼に会っている。ある時は、数十匹を対手にして、飛びちがい、飛びちがいして悉くを斬ってすてたし、また、ある時は、抜刀の刹那の凄じい気合をもって、尾を巻き込ませたこともある。  だが、いまは、松の幹にくくりつけられ、剣の業のすべてを封じられている。  のこされているのは、鴉が所望するごとく、唯ひとつ——心眼をひらいて、五体から、清々たる気魄を発して、獣を一歩も近づけぬことのみである。 「孟子」に曰《い》う、「操《と》れば即ち存し、舎《す》つれば即ち亡《な》し、出入時なく、その郷を知る莫《な》し」の精神力こそ、人間が獣の上に立つ鮮烈の証である。  真言九字の護身法は、即ち、この精神力を、発揮するためのものである。真言宗にあっては、身・口・意の三密を具足し、この三者を一致させて、即身成仏する、という。忍法では、その身を印《いん》、その口を呪文、その意を諦観にむすびつけて、至妙の境地に立とうとする。いわば、忍道の奥諦《おうてい》である。  剣の道を歩む者もまた、この九字護身法を重視せねばならぬのである。  餓狼のらんらんたるまなこは、もはや、襲撃までに、十とかぞえる間のないことを、示していた。  小次郎は、やおら、双手を組んで、順を追うて、九字を切りはじめた。  臨——独鈷《とっこ》の印《いん》。  兵《びょう》——大金剛輪《だいこんごうりん》の印。  闘——外獅子《げじし》の印。  者《しゃ》——内獅子《ないじし》の印。  皆《かい》——外縛《げばく》の印。  陣——内縛《ないばく》の印。  列——智拳《ちけん》の印。  在——日輪《にちりん》の印。  前——隠形《おんぎょう》の印。  そして、小次郎は、刀印を結ぶや、 「喝っ!」  と、満身からの気合を噴かせた。  一瞬——。  闇中に、数十の光るまなこが、飛び躍った。  小次郎は、はじめて、闇を截ってしなやかにはね跳ぶ獣の黒い影を、眸子《ひとみ》に映した。  それらが、またたくうちに、遁走するのを見送ってから、小次郎は、全身の疲労がどっと発して、失神した。  三度目に、小次郎が、目覚めた時、渠は、社殿内の板敷きに仰臥させられていた。 「鴉」は、その若い肢体を、しずかに、黙々と、揉みほぐしていた。  されるがままに、じっとしていた小次郎は、対手の肩のあたりへ目を当てているうちに、はっとなった。  その肩の線が、優しかったのである。  ——もしや?  疑惑が、小次郎の心にひろがった。  それが、全身に微妙な作用をおよぼすや、「鴉」の揉む手に反応した。 「左様——いかにも、それがしは、女人」  ひくい声音が、打明けた。  ……暗闇の中で、「鴉」は、わが実妹が生んだ子と、ひそやかに、契って、影のごとくに、立去ったのである。  この一夜が、塚原小次郎の人格を変えた。  九  小次郎|朝孝《ともたか》が、剣の極意について、悟るところがあったのは、それより以前——塚原家に養嗣子として入って、三年の修業を積んでいるあいだであった。  某年春、塚原家の、館の一角に、新しい堡塁《ほうるい》を築くために、夥しい石と石工が集められていた。  小次郎は、養父土佐守に工事の監督を命ぜられていた。見まわるうちに、小次郎は、石工が石を割る動作を見て、はっとなった。  石工は、手にあまる巨石、または積み重なるに不都合な凹凸面を、手にした鎚で、きわめて簡単に、割り揃えたり、切り崩したり、形を整えていた。のみならず、かれらは、決して、懸命に、渾身の力をふるっているのではなかった。隣の石工と雑談したり、陽気に流行《はやり》歌を口ずさんだりし乍ら、ひょいと、石に鎚を当てて、難なく割ったり、切ったりしているのであった。  小次郎は、石工の一人に、 「この石をま二つに割ってみせぬか」  と、かたわらのかなりの大きな石を指さしてみた。 「かしこまりました」  石工は、示された石の各面の肌を、撫で調べていたが、やがて、ここぞと狙いをつけた個処へ、鎚を打ち下した。巨石は、見事に、二つになって、左右へ倒れた。 「どうして、このように苦もなく割れるのか?」 「お試しなされますか?」  石工に鎚を渡された小次郎は、手頃な石を見つけて、気合もろとも、叩いてみた。しかし、ぱっと火花と石粉が散ったばかりで、石は、ビクともしなかった。 「よし!」  小次郎は、もう一度と、鎚を振りかざした。  すると、石工があわてて、 「若殿様、やたらに叩いても、無理でございます。……ちょっと、石面《いしづら》をしらべますでございます」  と、肌を撫でていたが、 「ここじゃ、ここをお叩きなされませ」  と、一個処を、示した。  小次郎は、そこを叩いてみて、驚いた。  手がしびれるほどの固さで反撥した石が、こんどは他愛なく、ぽかりと割れたのである。 「どうしたわけだ、これは?」 「どんな石にも、目というものがございます。そこに鎚を当てれば割れ、割れた石にも目があり、目、目、と割って、形をととのえるのでございます」 「石の目など、わしには、全く判らぬ」 「すこしお馴れになれば、すぐ判るものでございます」  小次郎は、石に目があると教えられ、また実際に、石の目を実証されて、しばらく、考え込んだ。やがて、 「目が!」  と、呟いた。  心中に翻然と悟るところがあった。  一心万法の原則は、「目」にある。敵の「目」を看抜いて、一刀で、一閃して、倒す——これが「一の太刀」の極意である。  養父土佐守をして、敵わじ、と思わせるようになったのは、この悟りを得たからこそであった。  ほどなく、諸国修業に出、十七度びも合戦に加わった小次郎が、無敵の強みを発揮したのも、敵の「目」を看抜いたからであった。  ところが——。 「鴉」に出会うて、小次郎は、逆に、おのれの「目」を看抜かれて、いとも造作なく、昏倒させられたのであった。  おかげで、小次郎は、敵の「目」を看抜く前に、おのれの「目」を看抜かれない心の修業こそ肝要である、と知ったのである。  翌年——永正六年、小次郎は、浅間《せんげん》神社奉納試合に於て、当時一流の武芸者十人を、次々と、土に横たえて、一躍剣名を高めた。その際、羽黒山の覚仙坊《かくせんぼう》という巨漢に対して、小次郎は、止剣の術を用いた。  覚仙坊が、ふりかざす六尺の宝杖に向って、小次郎は、殊更に、一尺に足らぬ短剣を持って進んだ。 「これを投ずるに、不思議や、卜伝が小太刀は宝杖にからみて離れず、覚仙坊思わずたじろぐ隙に、手元につけ入り、利腕を掴んで、投ぐ。七尺の巨体、山を鳴らして、ついに起たず」と、記録に残されている。  小次郎は、その試合の後、名を「卜伝」とあらためて、塚原館へ、還った。  常陸の豪族であり、天真正伝の兵法者である塚原土佐守の館には、絶えず、天下の大牢人、大渡り者が、訪れていた。  孰《いず》れも、腕の立つ者で、あわよくば、土佐守に認められて、剣名を高め、それを売りものにして、大名に随身することを、目論んでいた。  それらの牢人、渡り者は、大なり小なり、戦場に於て、生死の経験を重ねていた。尤も、それは、 「戦場の武士は武芸知らずとも事済むべし。戦場へ出る時は、始めより切覚えに覚ゆれば、自然の修練となる」のであり、「戦場にて名を得たる物師、覚えの者と雖も、一人も槍太刀の芸の上手もなく、槍も太刀も、ただ棒の如くに覚えて、敵を叩倒すことなり」とおぼえている腕前であった。  こうした連中が、還って来た小次郎卜伝と立合って、一合と撃ちあうことも叶わなかったのは、当然である。のこらず、片輪になるか、生命を落し、塚原家菩提寺の墓地で、無縁仏となった。  幾十人かの犠牲者が出たのち、小次郎卜伝の一撃をあびて、完全な聾唖になった者がある。もと北畠の家臣で、杉辺刑部《すぎのべぎょうぶ》といった。  小次郎卜伝に撃ち倒されて、昏倒し、息をふきかえした時、刑部は、完全に聴覚を失っていた。と同時に、失語症にも陥っていた。  試合を了えて、居間にひきとった小次郎卜伝は、家来からこのことを告げられて、 「痴呆になり果てたか?」  と、訊ねた。 「それが……、頭脳の働きは、元通り明白でございました。筆談いたしましたるところ、再度若殿に試合を乞う心算である、と記して立去りました」  杉辺刑部が、再び、常陸に現れたのは、それから四年後であった。愛洲陰流《あいすかげのりゅう》の兵法を会得した、といい、試合をもとめた。  小次郎卜伝は、対峙してみて、生れてはじめて、おそるべき剣を、視た。  刑部の剣には、かげろうに似た妖しい誘いが、燃えたっていた。同時に、刑部の双眸からは、聾唖にさせられた者の凄まじい復讐の一念が発していた。  刑部の構えには、小次郎卜伝が撃ち込むべき「目」がなかった。  小次郎は、ずるずると、魔の深淵にひきずり込まれるような心身の崩れを感じて、 「お見事!」  と、叫んで、六尺を跳び退った。  流石に、刑部は、そのまま、小次郎卜伝を撃ち込むことは、出来なかった。しかし、いま一度の試合を、とその身振りに示した。  小次郎卜伝は、頷き、何気ないふりで、木太刀を取り換えに、縁側へ歩み寄ろうとした。刑部の方は、木太刀を、だらりと下げて、待っていた。  と——その刹那。  小次郎卜伝の五体が、羚羊《かもしか》のように奔って、刑部を襲っていた。 「うあああっ!」  聾唖者の口から、名状しがたい異様な声が迸《ほとばし》った。その木太刀は、虚しく、宙を閃廻した。  兵法者は、試合の前であろうと、後であろうと、一瞬の油断があってはならなかった。  まして、杉辺刑部は、復讐の執念をもって、試合にのぞんだのである。たとえ、小次郎卜伝が、剣を引いても、容赦すべきではなかった。小次郎卜伝が、背を向けて縁側へ寄ろうとした態度を、許すべきではなかった。それを、わざと見のがした刑部の方が、不覚というべきであった。  刑部は、愛洲陰流の奥義をきわめ乍らも、復讐に失敗した。  奇怪であったのは、こんどまた息をふきかえした時、刑部は、再び耳がきこえ、口がきけるようになっていたことである。のみならず、皮肉にも、沈黙と寂寞の世界から解放されるや、刑部のせっかく四年間鍛えぬいた兵法は、鈍化してしまっていた。けだし、刑部は、不言不聴の中で、兵法の極意に必要な、心気の統一をなし得ていたのである。  その心気の統一を喪っては、愛洲陰流の剣法も、単なる棒踊りにすぎなかった。  小次郎卜伝は、この試合に於て、さらにまた、あらたな悟りを得た。人間の生命の神秘についてであった。  十  塚原卜伝は、三十歳になって、再び、飄然として、旅に出た。  おどろくべきは、その旅が、それから三十年間、つづいたことである。  その三十年間に、卜伝は、真剣勝負十二度び、戦場には二十度び出ている。兵法者としては、決して、多いとは云えぬ。  卜伝は、つとめて、合戦、試合を避けて、漂泊したのである。 「勝ちを制するを欲せず、敗れを取らざるを期す」  この心掛けを持って、歩いた卜伝は、自ら進んで大敵と会おうとはしなかった。おのれの身を大切にした。いや、小敵と雖もあなどらず、無益の殺生を敢えてせぬように心掛けた。  江州《ごうしゅう》で乗合せた船に於ける逸話などは、あまりに知れすぎている。兵法自慢の壮漢の、あまりの傍若無人さを、見兼ねて、たしなめた卜伝は、真剣勝負を挑まれ、無手勝流《むてかつりゅう》と名のって、それを見せることにした。  卜伝は、とある島へ、船を着けさせ、壮漢が大業物を抜いて、岸へとびあがるや、すばやく、船頭の棹をうばって、船を岸からはなれさせ、 「これが無手勝流——」  と、笑ってみせた。  虚構談《つくりばなし》に相違ないが、卜伝の処世ぶりを、巧みに現している。晩年には、馬のうしろを通る時、わざわざ遠廻りした卜伝であった。  卜伝は、自ら望んでは、孰れの流派との真剣勝負もやろうとしなかった。  常陸国には、鹿島の太刀筋だけではなく、小田讃岐守孝朝が創めた小田流があり、鎌倉には、中条出羽守頼平を家祖とする中条流、奥州相馬の達人で俗名|相馬四郎義元《そうましろうよしもと》、即ち念阿弥慈恩《ねんあみじおん》を流祖とする念流の二派があり、さらに、下野《しもつけ》には、念阿弥慈恩の高弟堤山城守宝山がひらいた宝山流があった。  卜伝が観ようとすれば、近郷だけでも、これだけの流派が存在していた。しかし、卜伝は、どの他流の門もくぐらなかった。試合を避け、観るのを止めた卜伝の旅は、兵法者として、無駄であったか。そうではなかった。旅路の風や雨や、天然の風趣や変化は、卜伝にとって、多大の収穫となった。  卜伝の旅路は、しかし、無目的ではなかった。卜伝には、ただ一人だけ、めぐり会いたい人間があった。「鴉」であった。卜伝は、「鴉」をさがしもとめて、日本全土を歩いた、といえる。  そして、ついに、卜伝は、「鴉」にめぐり会うことが、叶わなかったのである。  伯母とは知らずに契った「女鴉」が、卜伝の生涯に於ける唯一の女性《にょしょう》であった。(卜伝には、三子があった、と伝えられているが、悉く養子であった)  三十五歳。  卜伝は、京師《けいし》に上り、その帰途、乞われて蒲生右兵衛大輔《がもううひょうえのだゆう》の近江日野城に、立寄った。  右兵衛大輔《うひょうえのだゆう》は、大層剣法を好み、兵法指南を一年毎にとり換えて、なお満足していなかった。  この年の兵法指南は、上泉伊勢守信綱《かみいずみいせのかみのぶつな》の高弟、新陰流・落合虎右衛門《おちあいとらえもん》であった。  当時、兵法者は、名も知れぬ家の出身者が全部であったが、卜伝と上州|大胡《おおご》の城主・上泉伊勢守信綱の二人だけは、名門であった。  しぜんに、天下の兵法者たちは、二人の優劣を論じて、尽きるところがなかった。  上泉信綱は、「兵法新陰流・軍法軍配天下第一」の高札を諸国に納め、禁裏に参内して、従四位下に叙せられていたし、将軍家からは、軍監に任ぜられていた。  卜伝の方は、左様なはれがましい地位身分をきらって、将軍家の教授を承諾し乍らも、一切の重役を辞し、また、参内も避けた。  この対蹠的な両剣聖を、世間は、闘わせたいと望み、将軍家はじめ諸侯が、計ったが、ついに、太刀を交えることがなかった。卜伝が、これを避けたからである。  上泉信綱の高弟である落合虎右衛門が、卜伝来る、ときいて、武者ぶるいしたのは、師に代って、おのれが討ってやろう、と総身の血をたぎらせたからであった。  落合虎右衛門は、京の三条大橋上に於て、夜盗から前後三名ずつ、襲われ乍ら、殆ど一瞬裡に、一人のこらず斬りすてた名手であった。 「卜伝が、明日、当城へ参るが、試すか?」  と、蒲生右兵衛大輔に訊かれて、即座に、 「試したく存じます」  と、こたえたことである。  右兵衛大輔は、ちょっと考えていてから、 「尋常の試合は、おもしろくない。卜伝には、挑むと知らせず、不意を衝け」  と、命じた。  卜伝が到着したのは、次の日、昏《く》れてからであった。  卜伝は、一月前、上洛した頃から、背中にできた癰《よう》になやんでいた。その旨を、侍臣に告げて、城主への挨拶を、翌朝まで、猶予を乞うた。しかし、蒲生右兵衛大輔は、 「即刻会いたい、と申せ」  と、命じた。  卜伝は、やむなく、疲れた身を運んで、右兵衛大輔に会い、半刻ばかり、酒膳を中にして、四方山《よもやま》の話を交した。  辞して、次の間へ下り、卜伝は、入側《いりがわ》の屏風のわきを過ぎようとした。  その瞬間——、  無声の気合もろとも、白刃が、電光のごとく、閃き出た。  と同時に、卜伝は、風に似た迅さで、奔った。  そのあとに——。  屏風が、ゆらりとゆれて、傾き、倒れた。  襲撃者は、そこに、太刀を杖にして、棒立っていた。虚空へ向けて放たれた双眸は、徐々に光を喪いつつあった。  廊下へとび出して、この光景を眺めた蒲生右兵衛大輔は、思わず、複雑な呻きを発した。落合虎右衛門が、音たてて仆れた地点から、二間のむこうに、卜伝は、佇立《ちょりつ》していたが、なぜか、その右手に持たれていたのは、太刀ではなく、脇差であった。  右兵衛大輔は、足早やに近づくと、これは意趣ではなく、試しであった、と弁明した。  卜伝は、微笑したまま、べつになんとも云わずに、脇差を鞘に納めた。兵法者ならば、時と場所をえらばずに、試されるのは、覚悟していなければならなかった。  右兵衛大輔は、問うた。 「お許、太刀を抜かずに、脇差を揮《ふる》われた理由は?」 「その御仁の剣が、あまりに迅業であり申したゆえでござる」 「と申すと?」 「せなかのできものの痛みを忘れるため、殿が下された盃を、兵法者の分を越えて、たくさん頂戴いたし、いささか酩酊いたして居りました。兵法者としては、まことに不覚の状態にあり申した。病んで衰え、酔って乱れて居ったそれがしが、その御仁の迅業に、尋常の働きをもって、到底敵う道理がござらぬ。されば、やむなく、脇差の鞘を払い申した次第——」 「わからぬ」  右兵衛大輔は、正直に、かぶりを振らざるを得なかった。 「三尺の太刀を抜くより、一尺四寸の脇差の鞘を払う方が、その長さのちがいだけ、はやいが道理でござる」 「成程、もし、酒気がなくば、太刀を抜くいとまがおありであったか?」 「多分、躱《かわ》し得て、無益の殺生をせずとも、すんだかも知れ申さぬ」  病んで、酔った身としては、敵が、頭上から斬り下して来る前に、脇差をもって、胴を薙《な》ぐよりほかは、業はなかったのである。  十一  敵が長い得物を持てば、わざとのごとく、短い剣を把るのが、卜伝の闘いぶりであった。「鴉」から教えられた秘法を、卜伝は、会得していた、といえる。  信州黒姫の怪行者を討ちとった時も、卜伝は、その秘法を用いている。  その行者は、呪術に長《た》けていて、信州一円の眉目《みめ》うるわしい女子——武家町人、人妻処女を問わず——を、好むがままに拉致して、犯し、その犠牲者は百数十人にのぼっていた。  幾人かの腕に覚えのある兵法者が、渠《かれ》のひそむ洞窟に迫ったが、逆に、呪文にかけられ、不動の金縛りに遭い、脳天を如意棒で石榴《ざくろ》のように割られていた。  その退治を乞われた卜伝は、わざと太刀を腰からはずして、小刀一本だけ佩《お》びて行った。  卜伝は、洞窟の入口で、しばらく、佇立していた。洞窟内の闇中には、不気味な静寂があった。行者は、気配すらも、起さなかった。  これまでに、迫った兵法者たちは、等しく、その暗黒を睨んで、大声をかけている。  卜伝は、目を伏せて、沈黙を守ったふりで、佇立していた。  やがて、卜伝は、目を伏せたままで、洞窟内に、一歩ふみ入った。  卜伝は、小太刀の鯉口を切った瞬間、闇の中から、一条の光芒と無声の気合をあびて、金縛りになった。  卜伝は、さらに深く、頭を垂れてしまった。  行者は、目に見える綱を手繰《たぐ》るがごとく、卜伝を引き寄せた。  卜伝は、引かれるがままに、木偶《でく》のように、進んで行った。行者は、その脳天を砕くべく、如意棒をふりかざした。  一瞬——卜伝は、俯向《うつむ》いたままで、小太刀をはねあげ、行者の顔面を、頤から額へ、ま二つに斬った。けだし、卜伝は、小太刀の鯉口を切り、わずかにのぞかせた刀身へ、敵が放ってくる光芒を反射させ、敵の姿を写し乍ら、近づいて行ったのである。  刃面を鏡に用いたのは、敵の「目」を看破するための咄嗟の思いつきであったろう。頭を垂れて、木偶になったとみせたのは、おのが「目」を、敵にさとらせないための巧妙な手段であった。  五十五歳。  その年の正月、卜伝にとって、最後の真剣勝負が、行われた。  対手《あいて》は、武州川越の、薙刀の達人としてきこえた梶原|長門《ながと》であった。  川越には、太田道灌《おおたどうかん》の築いた立派な城があった。本丸、二の丸、三の丸、外|曲輪《くるわ》、内曲輪、新曲輪をそなえ、文正元年の起工、文明元年六月の完成である。勿論、最初は、道灌の居城であったが、その後、大永四年に、上杉|朝興《ともおき》が、この城に拠った。  関東管領上杉家と、常陸の守護佐竹氏とは、盟友の間柄であり、したがって、塚原卜伝も、一応上杉管領の麾下である。  だから、卜伝は、川越の町を、そ知らぬ顔で通過するわけには、いかなかった。また、次第に衰退の兆を示しはじめている上杉家としては、麾下の豪族の後継者を、おろそかにする筈はなかった。  卜伝は、登城して、朝興に謁見した。  この席で、朝興は、梶原長門との試合を、所望したのである。  朝興は、麾下の大将随一の長野信濃守|業成《なりまさ》に仕える上泉伊勢守信綱や、安中《あんなか》城の勇士安中左近の剣は、観ていたが、いまだ、卜伝の剣だけを、観る機会がなかったのである。  朝興は、卜伝が、川越へやって来るのを、待ちのぞんでいた。いわば、卜伝と試合させるために、薙刀の達人梶原長門をやとっていたともいえる。  梶原長門は、刃渡り一尺五寸の薙刀で、飛ぶ燕を、狙うがままに、斬り落した。  また、敵と対峙するや、 「右手!」  と宣言しておいて、確実に、その右手を両断した。左手を斬る、と明言すれば、必ず、その通りにした。 その手練の迅業は、目撃者の背筋を寒くするくらいであった。まだ、三十歳になったばかりで、心身ともに、兵法者として、絶頂にあった。卜伝は、 「それがし、もはや、定齢を越えました故、真剣の勝負など、思いも及ばぬこと、何卒御容赦下されたく——」  と辞退したが、朝興は、肯《き》き入れなかった。  やむなく、卜伝は、承知したが、試合場を城内ではなく、城南方の川堤上に指定した。  寒風が、川面を波だて、葦をわけて吹きつけて来て、堤上の狭霧を追い散らした時刻、土手や磚《かわら》には、夥しい見物人が群集していた。  梶原長門もまた、定刻すこし前には、到着して、堤上に立った。  直立させた刃渡り一尺五寸、柄九尺の長薙刀は、十数人の一流兵法者の腰や脚を刎《は》ねた業物であった。  定刻を、すこしおくれて、卜伝の姿が、はるか彼方に、ぽつりと出現した。  視線を地面に落し乍ら、ゆっくりと歩む卜伝の痩姿は、いかにも、飄々たるものであった。左手には、二尺に足らぬ短い剣を携げていた。  一切の想念を払った無表情を、寒風に搏《う》たれるにまかせて、歩いていた卜伝は、ふと、とある地点で、足を停めると、田野側の斜面へ、視線を送った。  斜面の中ほどに、一人の老婆が、ちょこんと坐っているのを、みとめたのである。  うす穢《ぎたな》い身なりの、一瞥した限りでは、七十《こき》を疾《と》くに越えている老婆であった。ひと握りほどの小躯、といっても誇張にはならぬくらい、老《ふ》け縮まった、みすぼらしい姿であった。  しかし、皺目蓋の蔭から放たれる眸子《ひとみ》の光の鋭さが、卜伝の無念無想を擾《みだ》したのである。  卜伝は、視線を合わせて、そのまま、しばし動かなかった。  不意に、老婆が、問うた。 「勝てるかの?」  唇を、全く動かさぬ声音であった。 「その問いの理由《わけ》は?」 「お許のすがたに、老いの衰えが、兆して居る」  老婆は、云った。 「人生五十年を、余分に五年、生きのびているゆえ、老いの衰えが来たのも、やむを得まい」  卜伝は穏やかな声音で、こたえた。  すると、老婆は、 「おろか者よ——」  と、独語するように、云った。  それから、 「後刻——」  と云って、俯向いた。  卜伝は、歩き出した。  梶原長門との距離は、次第に、せばまって行った。  真剣の勝負に於ては、間合がきまると、そこで、不動の対峙の時間が置かれるものであった。殊に、双方が一流の手練者であれば、長いのは、二刻も、睨み合うのを、珍しいとせぬ。  間合とは——。 「一刀一足の間合」といい、双方青眼に構えた場合、切先が一二寸交叉する位置の関係を、即ち一刀一足の間合といい、これが基本となる。これは、あくまで、対手の体が観測の中心であり、一歩ふみ込めば、対手と激突することが出来、一歩退けば対手の刀が、自分にとどかない位置をとり得る。そして、終始この間合を保つことが出来れば、幾時間闘っても、敗れる筈はない。勿論、一刀一足の間合に於ける両者間の距離は、身丈や太刀の長短によって、一定せぬ。  いわんや、卜伝と長門の試合では、大薙刀と短い刀であり、間合のとりかたは、きわめて複雑である。  すべての人々は、歩み寄る卜伝が、どのような間合をとるか、そのことに、興味を持って、固唾をのんだ。  間合は、とられなかった。  卜伝は、歩みを停めなかったのである。  そのまま、卜伝は、静かに、前進しつづけて、長門が中段に構えた大薙刀の、反り刃の下へ入ったのである。  そこまでは、誰の目にも、みとめられた。  双方が躍るや——その躍った姿は、誰一人の目にも、とまらなかった。  はっ、となった刹那には、冷たく澄んだ冬陽の中に、血飛沫が、ほとばしっていた。  次いで——。  薙刀が、柄なかばから、両断されて、空中高く、はねあがっているのが、見えた。  そのまばゆいばかりの刃の煌きの下で、長門は、咽喉《のど》に小太刀を刺し立てられて、噴水のように、血汐を噴かせて、のけぞっていたのである。  卜伝は、振り下って来た薙刀の、柄を両断した一閃の小太刀を、そのまま、長門の咽喉へ、投じたのである。  卜伝は、仆れた長門へむかって、合掌して、咽喉から小太刀を抜きとり、鞘におさめると、遠くに在る上杉朝興に、鄭重な一礼を送っておいて、踵をまわしていた。  堤を降りて、野道をしばらく辿ると、森に行き着く。森に入ろうとした卜伝は、くさむらの中に、ちょこんと坐っている件《くだん》の老婆を、見出した。  卜伝が、立ち停まると、老婆は、云った。 「お許は、やはり、老いの衰えを、立合いにも、示したの」 「太刀を投げなければ、敵を、仆せなかった、ということか?」 「左様——。お許も、五年前であれば、太刀の柄をはなさずに、対手を斬れたであろうものをの——」 「おばば……。おばばは、いかにも、わしの老いの衰えをさげすんでいるようだが、おばば自身は、女子《おなご》として、斯様《かよう》な醜いすがたとなったのを、なげいては居らぬのか?」  卜伝が、微笑し乍ら、訊ねると、老婆は、かぶりを振って、 「この身には、老いの衰えなど、兆しては居らぬ」  と、こたえた。  卜伝は、それをきいて、眉宇をひそめた。  無数のちりめん皺を寄せ、老けに縮んだ面貌を、陽にさらし乍ら、これは、あまりにも、図図しいうそぶきではないか。 「ふふふ……、信じられぬか?」 「わからぬ」 「わからねばよい、行きゃれ」  卜伝は、歩き出そうとした。  とたんに、老婆が、すらりと立った。  その動きの、あまりに軽やかで、しなやかであったことが、突如、卜伝に、次の振舞いをえらばせた。  抜く手もみせずに、小太刀を老婆に送ったのである。その凄まじい一閃の攻撃を受けて、老婆の小躯が、はねとんだ。  しかし、散ったのは、血飛沫のかわりに、胴を締めていた細帯であった。  卜伝は、さらに、第二撃をあびせた。  とたんに、老婆のからだから、着物が生きもののように、とびはなれ、宙をひと舞いするや、卜伝の撃った小太刀に、ふわりとかかった。  卜伝は、茫然と、双眸を瞠《みひら》いた。  面前に立つ一糸まとわぬ裸身が、なんと、かがやくばかりに、白く、艶やかな豊満さを湛えていたのである。  爛熟した三十女の肢体に、ほかならぬ。  卜伝は、この老婆が、さがしもとめていた「女鴉」であることを、すでに、さとっていた。  あれから、三十五年の歳月が流れている。あの時、「女鴉」が、かりに四十歳であったとすれば、すでに七十五歳である。まさしく、その面貌は、その老齢にふさわしい醜さを示している。  だが、このかがやくばかりの豊肌《ほうき》秀骨は、いかなる仙薬大丹を服して保っている奇蹟であろうか? 「卜伝、いかに!」  老婆は、たからかに、叫んだ。  卜伝は、白刃を腰に納めると、 「人は、その齢《よわい》にしたがって、衰えるのが、自然の理《ことわり》かと存ずる」  と、こたえておいて、一揖《いっしゅう》すると、歩き出した。  粗衣をつけた老婆は、森の中へ消える卜伝を見送り乍ら、 「みごとな剣聖に成り終《おお》せたことよ」  と、呟いていた。  丸目|蔵人《くろうど》  一  剣聖・上泉伊勢守信綱《かみいずみいせのかみのぶつな》が、織田信長の招聘《しょうへい》に応じて、新築成った京都二条城に入ったのは、元亀《げんき》元年正月であった。  足利義昭《あしかがよしあき》を奉じて、疾風のごとく京都に入り、義昭を征夷大将軍の職に就《つ》け、五畿《ごき》を平定し、意気すでに日本を呑んでいた信長は、床の間に腰かけ、オランダ人に献じられた鯨肉の塩焼きを、頬張り乍ら、信綱を引見した。  信綱は、その背後に、奇妙な供を二人連れていた。  一人は、五尺足らずの、目を瞠らせるばかり美しい膚《はだ》をもった、眉目優しい若者であった。若い女人《にょにん》のような肌理《きめ》こまかな、ま白い雪肌は、美の最上のものだが、この若者は、男子のくせに、それを持っていたのである。  ただ、気の毒に、一歩毎に、上半身が六十度も傾く酷《ひど》い跛《びっこ》であった。  もう一人の供は、若者と対蹠《たいしょ》的な、六尺ゆたかな巨躯を持った、醜怪正視に堪えぬ女であった。年齢さえも観さだめがたいどす黒い皮膚と化物にちかい造作の面貌であったが、額や、口脇《くちわき》の深皺から、もう四十を越えているように思われた。  信長は、信綱に随いているのは、疋田文五郎《ひったぶんごろう》とか神後伊豆《じんごいず》とか、門下の俊材とばかり思っていたが、意外な供連れに、眉宇をひそめた。 「伊勢守、その美童は、お主の色子か?」  無遠慮に、問うた。 「いえ、門下の一人にすぎ申さぬ。丸目蔵人と申す者でござる」 「女は?」 「召使でござる」 「ふん——」  納得し難い表情の信長は、それから、しばらく、鯨肉をむしゃむしゃ、くらいつづけていたが、すっと、立って、なげしから、長槍を掴みとるや、 「伊勢守、腕の程、見せい」  と、大声を発した。  すると、信綱は、 「身共は、すでに、老いの坂に息を切らして居り申さば、失礼乍ら、この若輩を起たせようと存じます」  と、云った。 「突き負かせば、呉れるか?」  信長は、にやりとした。  信長も、戦国武将として、衆道《しゅどう》趣味を持っていた。 「この者、色子には非ず、兵法者にござる」 「だから、突き負かして、奪《と》るぞ」 「なかなか——」  信綱は、微笑した。 「この者、斯様《かよう》に女子めいた眉目かたちをいたして居りますが、本来の性《さが》は残忍狂暴にて、身共がかたえに従えて、常時|矯《た》めて居ればこそ、尋常の振舞いを示して居ります。そのお覚悟の程を願いたく存じます」 「天才を具備していると申すのか?」 「御意。この者が、野性に還って揮う剣には、身共と雖も、これをふせぐすべがござらぬ。……およそ、剣の強さと申すものは、天賦の才にめぐまれた者が、天上天下わが太刀の前に立つ敵なしと、思い上った時ほど、おそろしいものはござらぬ。驕慢も、その極に達するならば、無念無想の神気の冴《さ》えに等しく、敗れること知らぬ太刀筋を生み、これが劇《はげ》しさは、まことに、面《おもて》をそむけしむる力がござる」  これは、信長の驀進している行動に対する皮肉であった。  信長は、刺すような眼光で、 「面白い! その天賦の才が揮う剣を、試すぞ。そやつを、起たせい」  と、云った。 「お試しの儀は、明朝になされては、如何《いかが》かと存じます。明朝ならば、あるいは、殿と互角の弱さに相成るかと存じます」 「いまは、わしに勝味はないと申すのか?」 「確言つかまつる」 「面妖|哉《かな》! それは、どういう意味合か? きかせい」 「はばかりある儀なれば、おこたえいたし兼ねますれば、ご容赦の程を——」  おちつきはらった信綱の拒否に会って、信長は、むかむかした。 「伊勢守! この信長もまた、天放のままに、育ち、闘って来た者だぞ。そやつが、刀俎《とうそ》か、わしが魚肉か——立合わずして、判るか!」 「撓《たわ》める一夜が与えられぬとなれば、やむを得ぬことにござる。蔵人、お試しを受けい」  信綱は、命じた。 「真剣だぞ! 真剣を持って、むかって参れ!」  呶鳴《どな》る信長に、丸目蔵人は、キラリと光る眸子をむくいた。一瞬、その白い美貌に、刃物のような鋭いものが掠めた。  二  先に、庭へ降り、素跣《すあし》で白砂を踏んだ信長は、長槍を、りゅうりゅうと、しごいた。   死のうは一定《いちじょう》、しのび草には何をしょうぞ、    一定かたりをのこすよの……  と、唄いつつ、桶狭間《おけはざま》めがけて、驀進《まっしぐら》に駿足をとばした時、小脇にかい込んでいたこの長槍は、爾来十年、穂先を、数知れず、衂《ちぬ》らせて来た。  衆道|面《づら》の兵法者ごときを、芋《いも》刺しにするなど、なんの造作もない自信がある。葉《は》武者と一騎討ちするよりも、もっとばかげている気持さえしていた。  信長は、青眼に構えた小兵の若者を、睨んで、  ——なんだ!  と、軽蔑した。  もともと、剣の術などというものを信用していない信長であった。合戦の修羅場で、そんなものが役立つとは、毛頭考えていなかった。闘いの力は、死地に臨み、これをくぐり抜けるたびに、五体に増して来るものであり、その豊富な経験の前に、習い技など、なんの身上か、という蔑視をくれていたのである。  だから、なんの鋭気も発せずに、青眼に構えた丸目蔵人の姿が、案山子《かかし》同然に、目に映ったのも、やむを得ぬ。 「参るぞっ!」  信長は、呶号しざま、白砂を蹴って、胸いためがけて、びゅーっ、と突きくれた。  瞬間——白い閃光を眼裏にのこして、信長は、のけぞった。  じーんと両手がしびれ、しびれた両手からはなれて、槍が空中へ飛ぶのに、信長は、あっとなった。  次の刹那には、対手の白刃の切っ尖《さき》が、咽喉もと一寸に、ぴたっと擬《ぎ》せられているのを知って、信長は、上半身を弓なりに反らしたまま、かっと目を剥《む》いた。 「それまで——」  信綱が、広縁から、声をかけた。  丸目蔵人は、剣を引き、一礼して、もとの下座へ戻った。  信長は、しかし、惨めな敗北に、逆上するような小心者ではなかった。 「負けたぞ! 負けた——うむ! まさしく、天賦の才を持って居るぞ、そやつ!」  大声で、云って、上って来た。  信綱は、しずかな口調で、 「明朝、いま一度のお試しの程を——」  と、申出た。 「一夜のうちに、その天賦の才を、撓《たわ》めてみせると申すのか?」 「お約束つかまつる」 「わざと負けるように、云い附けるのではあるまいな?」 「そのような非礼はつかまつらぬ。お試しなされば、おわかりになると存じます」 「よし——では、明朝」  信長は、奥の居室に入ると、木下藤吉郎を呼んだ。 「伊勢守と、供二人を、遠くはなして、泊まらせい。ついでに、其方の使っている忍びに、あの跛《びっこ》を、一夜中、監視させい」  そう命じた。  秀吉は、直ちに、侍臣に下知して、信綱を貴賓館にみちびき、丸目蔵人と、佐和という巨女を、遠侍根小屋《とおざむらいねごや》へ入れた。  信綱は、べつに、それについて、一言も云わなかった。  秀吉は、そうしておいて、根来《ねごろ》忍士鶴屋|転《うたた》をひそかに呼ぶと、丸目蔵人から目をはなすな、と云いふくめた。  鶴屋転は、奇蹟の煙師《けむりし》と異名をとる稀代の忍び者であった。  ある時、信長から、 「そこに坐ったままで、わしの佩刀《はいとう》を盗ってみせい」  と難題をもちかけられると、こともなげに、 「わけなきことにございます」  と、こたえた。  数百の家臣が、居竝んでいる評定間における座興であった。  鶴屋転は、はるかに下座に坐っていた。信長のいる上座までは、五間の距離があった。  信長は、家臣らに、 「転めが、立とうとしたら、即座に討ちすてい」  と命じた。  転は、微笑した。  次の瞬間、転の片手が、前の横敷きの畳を、軽く搏《う》った。  すると、その畳は、まるで吸いあげられるように、立って、居竝ぶ家臣たちへ、倒れかかった。  転の坐っている畳が、うごいて、するすると前へ進んだ。  転は、こんどは、縦敷きの二帖の畳を、それぞれ、双の掌で、ポンと叩いた。  二枚の畳は、ぱっと、左右にわかれ立って、転の前を空けた。  転の坐った畳は、まるで舟が流れを行くごとく、ツツ……と一間をすべり出た。  と——みるや。  転の前をさえぎる畳が、おそろしい迅さで、ぱっぱとはねあがって、左右の家臣の列へ跳びはじめた。  転を乗せた畳は、非常なすばやさで、床をすべって上座へ迫った。  流石に、信長は、顔色を変えた。  しかし、上座は三尺ばかり一段高くなって居り、たとえ転がその下まで、畳を押し進めて来ても、なお距離が、九尺あまりあった。  信長は、転が、どうするか、と固唾をのんで、待った。  転は、上座下で、ぴたっと畳を止めると、 「殿! この鶴屋転を、今川義元の遺臣と知ってのおたわむれか?」  と、あびせた。 「なにっ!」 「それがしは、亡者の無念をはらさんと、名をいつわって、お仕えいたした者、もはや、お生命《いのち》は、頂戴いたしたも同然——」 「うぬっ!」  短気な信長は、これをきくや、小姓が捧げている佩刀を掴みとって、突っ立つや、 「見ン事、仇を討ってみよ!」  と、抜きはなって、身構えた。  瞬間、転の右手から、一本の細い鎖が、放たれた。  先に分銅がつけられていて、鍔《つば》にからんで、ぴーんと、ひきしぼられた。 「うむっ!」  信長は、満面を朱にして、ふんばったが、おそろしい力でひっぱられて、ふみこたえられずに、ついに、柄《つか》をはなしてしまった。  転は、白刃をするすると引き寄せて、 「ご佩刀はたしかに、頂戴つかまつりました」  と、平伏した。  今川義元の遺臣というのは、勿論、嘘であった。 「その兵法者が、何を為すか、それだけ見とどければよろしいのでござるか?」  転は、ちょっと不服げに、訊ねた。 「伊勢守が、忍んで参るようなことがあれば、妨げるがよい」 「かしこまった」  転は、気配もなく、その根小屋の天井裏へ忍んだ。  襖《ふすま》ひとつへだてて、丸目蔵人と巨女佐和は、しずかに、就寝していた。  およそ一刻が、何事もなく過ぎた。  転は、身じろぎもせずに待っていた。  短檠《たんけい》の灯が、虫の音のように微《かすか》に鳴り乍ら、隙間風に、時おり大きくゆれるばかりで、このまま、何事もなく、一夜が明けるか、と思われた。  と——。  蔵人が、ゆっくりと身を起した。  かんまんなしぐさで、与えられた寝衣を脱ぎすてるのを、転は、天井裏から、じっと見戍《みまも》っていたが、やがて、蔵人が、褌すらもすてて素裸になった時、思わず、  ——おお!  と、闇の中で、声なく愕きの叫びをあげた。  その白瓷《はくじ》にも似た肌の、まるやかな姿容もさること乍ら、転は、視たのである。  その胸に、決して豊かではないが、ふっくらとした隆起があり、そして股間に、男子の一物が無いのを、転は、みとめたのである。  ——女人か?  と、一瞬疑って、眸子をこらした転は、その股間に、羅切《らせつ》し去った痕を、看てとった。  襖が開かれた。  入って来たのは、同じく、寝衣を脱ぎすてて一糸まとわぬ裸身になった佐和であった。  女にあるまじき漆を塗ったように、つやつやとくろく光る逞しい巨体は、仁王のように見事であった。  蔵人と佐和は、視線を合わせたが、何故か、どちらも、能面のように動かぬ、こわばった表情を対《あ》わせただけであった。  佐和は、ゆったりと、巨体を、牀《とこ》の上へ仰臥させた。  蔵人は、山姥にすがる嬰児のように、盛りあがった乳房へ吸いついた。  乳首をむさぼり乍ら、双手で一方の隆起を揉む行為が、交互に、およそ四半刻もつづけられたろうか。  それは、決して、みだらな光景ではなかった。必死な、切羽詰った烈しい気魄が、どちらの裸身にも、みなぎっていたからである。  突然、蔵人は、顔を擡《もた》げた。  と同時に、その乳首から、白い液体が、二尺も高く噴きあがった。つづいて、もうひとつの乳首からも、噴いて出た。  蔵人は、その二本の白い噴水へ、裸身をのしかけ、したたか濡らし乍ら、双の掌で、せわしくおのが肌へ塗りはじめた。  乳は、蔵人の全身をくまなく塗るだけ、豊かな量を噴きつづけた。  その営みを了えると、蔵人は、巨体の腹の上へ匍いあがって、その首を、股間の茂みの蔭で埋めた。  佐和は、いったん拡げてやった下肢を、菱形につぼめて、やんわりと、蔵人の首を包むと、なお、じくじくと洩れ出る乳をすくって口にふくみ、無慚な羅切の痕へ、丹念に注ぎかけてやるのであった。  その蠢《うごめ》きすらも、奇怪な眺めでこそあれ、決して淫靡《いんび》なものではなかった。  渇えた犬が、水にありついて、飲みつづけるのに似ていたし、親獣が子獣の傷を癒やしてやろうと優しく嘗めてやるのに似ていたのである。  それは、およそ一刻近い長い時間の営みであった。  やがて、蔵人は、巨体から離れた。  佐和は、ゆっくりと起き上るや、子を寝かしつける母そのままの仕種で、蔵人を横たえてやり、掛具を乗せると、跫音をしのばせて、次の間へ去った。  三  次の朝、信長と丸目蔵人は、陽のさしそめた庭で、対峙した。  信長は、長槍を狙いつけた一瞬、青眼に構えた蔵人の瀟洒なる姿に、匂うような嫋《たお》やかな力のなさを、視た。  いわば、春風李花を払うようなスンナリとした姿容からは、なんとも云われぬ媚《こび》が、露香のように、したたっていたのである。  信長は、突くに堪えぬ春情を、遽《つい》に、おぼえた。  突けば、忽ち、花のように散るかと思われた。信長は、すっと、槍を引くと、 「試しにならぬ」  と、わざと、不満げな一言を吐きすてた。  信綱は、座敷から、微笑して、見戍っていた。  信長は、信綱の前にもどって来ると、 「伊勢守、|あやつ《ヽヽヽ》の昨夜の閨《ねや》の振舞いを、忍びに、つぶさに目撃させて、わしは、知って居るぞ!」  と、云った。 「はばかりある儀なれば、それがしの口から申上げるよりは、ひそかに、おたしかめ下さるべし、と願って居りました」  信綱は、はじめから、そのつもりであったようである。 「昨日、申上げたごとく、丸目蔵人、本日は、殿の敵ではござらぬ」 「わしが、槍を引いたまでだ」 「槍を引かせ申したのは、蔵人でござる。……強いばかりが、兵法者ではござらぬ。対手をして、太刀または槍を引かせるが、まことの兵法者か、と存じます。それがしは、ただ強いばかりの剣を、夜叉の剣と名づけて居ります。ただ強いばかりの剣は、いつの日か必ず、一歩踏みはずして、地獄へ転落いたす。それがしが、弟子に教えているのは、剣の弱さを知れ、ということでござる。……それがしが、先年、将軍家に拝謁いたした際のことでござる。三光の利剣——すなわち、新陰流紅葉の型を示せ、とのお言葉にしたがい、上覧に入れましたところ、世にも美しいものよ、とのおほめを頂いたことでござる。しかし乍ら、美しいと申すことは、とりもなおさず、優しさ、柔らかさ、弱さを意味いたすのではありますまいか。それがしが生んだこの美を現す型は、いずこの流派にもないものでござる。……曾て、それがしは、剣の工夫をこらして居る夜、突如、心気茫洋といたし、わが身が形を喪うのを、おぼえたものでござる。おのれを、影の影なるものと感じた時、忽然として、これある哉《かな》、と真の理を悟ったような気がしたのでござる。筆辞では現し得ないもの乍ら、新陰流の型の中に、いささか、顕《あらわ》し得るか、と心得て、人に伝授もいたして居る次第でござる。さり乍ら、天賦の才、剣の強さが五体に充ちて居らぬ兵法者には、この型は、かえって無益なものとして、教えては居り申さぬ。強ければこそ、これを撓《たわ》めて、弱くさせる。そこに美しさが生れる道理にて、丸目蔵人こそは、その天賦の才は、日本広しと雖も、無双と申せる兵法者なれば、それがしは、敢えて、これを弱くして、そこに、美を作らせて居るのでござる」  そして——。  信綱は、丸目蔵人を発見した時の仔細を、信長に語ってきかせた。  四  上泉信綱は、いささかもおのが身を繋縛される憂いのない身であった。  郷国上州の太胡《おおご》の城には、嗣子|秀胤《ひでたね》が在り、後見人として、信綱の弟|主水《もんど》がいた。  信綱自身は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄の、怎《ど》ちらへも技を授け、武田家に逗留することがあきれば、飄然として、京の都へ出ていた。そして、室町将軍に謁して、軍監に任じ、義輝が勝利のあかつきに、都を去って、「兵法新陰流・軍法軍配天下第一」の高札を、諸国にうち納め、帰落するや、禁裏に参内して、伊勢守従四位|下《げ》武蔵守に任じ、転じて、南伊勢へ下って、多芸御所北畠具教《たきごしょきたばたけとものり》をたずね、さらに、柳生谷へ入って、柳生|宗巌《むねよし》に、秘剣を授ける、といった具合に、おのが希う道、信ずる道だけを、踏んでいた。  門下随一の俊髦《しゅんぼう》疋田文五郎を、つれていることもあり、あるいは神後伊豆を加え、さらに門弟、下郎合せて数十名に行列をつくらせる場合もあり、時には、全くの孤身を旅路にはこんだ。  関東を経巡して、東海道を上り、再び、京の都をおとずれようとしたのは、永禄九年の春であった。この時は、疋田文五郎一人をともなっていた。  坂本の宿に入ると、湖面を渡って来る春風も肌にやわらかく、比叡の山容も、なつかしく、目前に在った。  旅籠の二階に憩うて、景色を愛《め》でていると、上って来た文五郎が、階下できいたらしく、 「このあたりに、足駄の化物が出没いたしますそうな」  と、告げた。  剣以外のことは、何も考えぬ、愚直なくらい謹厳な男であった。 「叡山の荒法師が、坂本の蕎麦焼酎をくらうために、足駄ばきで、山を駆け下って来て、またその夜のうちに帰る、ときいたことがある。大方それであろうか」 「ところが、荒法師でござらぬ証拠には、片方の足にだけ、高足駄をはいて居ると申します。おそらく、合戦で片脚が傷つき、短くなったものと思われます。両足の長さを揃えるために、片方にだけ足駄をはけば、化物と見られましょう。四尺あまりの異常な長剣を背負うて居り、一流の兵法者と観るや、脇を駆け抜けざまに、一太刀あびせ、風のごとく消え去る由。これまで、九人が斬られ、いずれも、即死いたしたと申して居ります。……時折、宿はずれの茶店に現れて、河漏《かわもり》を四五杯くらって行くそうでござる」  文五郎は、いかにも、これから出かけて行って、立合したそうな気色を示した。  信綱は、差料の下げ緒を編みなおし乍ら、 「お前がもし、ひどい跛《びっこ》であったならば、どのような技を工夫するかな?」  と、訊ねた。 「敵が斬り込んで参ったならば、倒れ申す」  文五郎は、即座に、こたえた。  撃ち込んで来る疾風の太刀をはずすには、一脚が短くては、前後左右の変り身が許されぬ。とすれば、これを、上下に躱《かわ》すよりほかに、すべがない。咄嗟に、地上へ倒れれば、対手の切っ尖が、わが身を斬るよりさきに、間髪の差で、対手の足を薙《な》ぐことが可能かも知れぬ。文五郎は、そう考えたのである。但し、これは、あくまで、捨て身の法である。  兵は正を以て合い、奇を以て勝つ、と孫子は曰《い》う。正奇の変化は、正法であるが、はじめから奇法をえらぶのは、身の不具をおぎなうためのものであり、これと闘う者に、臨機石火の迅業がそなわっていれば、一瞬にして、不具者は敗れ去る。 「行って参れ」  信綱は、許した。  ……文五郎は、その夜、ついに戻らなかった。夜明けに、信綱は、目ざめて、隣室に、文五郎がいるのを直感した。  起きて、襖をひらくと、文五郎は、夜具を頭からひっかぶっていた。  見れば、壁につるした小袖の袖が、左右とも、裂けて、泥にまみれている。 「文五郎、手負うたか?」  信綱は、訊ねた。 「手負いはいたさぬ」 「しかし、どうやら、引《ひけ》をとったようだな?」 「彼奴《きゃつ》——邪剣でござる!」  文五郎は、夜具をかぶったまま、こたえた。口惜しさに、全身を、瘧《おこり》のように顫わせているに相違なかった。  朝餉《あさげ》の膳に対《むか》い合った時、文五郎は、昨日の始末を、師に語った。  恥を忍ぶ苦渋の色が、その日焼けた面貌を、掩うていた。  宿はずれの|かわもり《ヽヽヽヽ》店には、二十七、八の、仇めいた女がいた。 「足駄ばきの兵法者が、この辺に居るそうなが?」  文五郎が、訊ねると、女は、俯向《うつむ》いて、 「腕を競うご存念ならば、おあきらめなされませ」  と、こたえた。  文五郎は、勝負してみなければわからぬ、と云いはった。  問答を交しているうちに、男女のことにはうとい文五郎にも、女がどうやら、足駄の人物と、ただの関係ではない、と判って来た。  どうしても会いたい、と望む文五郎に、女は、ついに、あきらめたように、 「わたくしを、手ごめになされば、必ず現れて参りましょう」  と、こたえた。  女が、淫婦であることを、看破することは、文五郎には、無理であった。  正直な無骨者は、そうしなければ、対手が出現せぬのだ、と思い込んで、 「承知した。手ごめにいたす」  と、云って、頭を下げた。  文五郎のいかにも素朴な言動が、女のみだらな欲情をそそった模様である。  女は、おもての戸を閉めると、燃えるような緋の下着いちまいになって、炉端の苧経《おだて》の上に仰臥した。  それへ、のしかかって行った文五郎は、愛撫というものを知らぬ不器用さで、忽ち、身もだえて、四肢を巻きつけて来る女の狂態に、しばしは当惑しなければならなかった。  女の嬌声は、なんのはばかりもない高さであった。それも、文五郎を、当惑させた。  しかし、文五郎も、ひとたび、濡れた女体の中へ押し入ると、鍛錬し上げた逞しい体躯が、おのずから火と燃えた。  女が、頚へ巻きつけた双手に異様な力をこめて、爪を肉へ食い込ませ、身を弓なりに反らせて、鞴《ふいご》のようにせわしく喘ぎはじめた時には、文五郎も、また、われを忘れて、一匹の獣と化していた。  文五郎は、四肢が痙攣する狂気の絶頂から、がくっと落ちると同時に、愕然となって、女から、身を退けた。  ——騙《だま》された!  そう直感した。  女は、満足した笑みを、上気した顔に刷くと、やおら、立ち上って、 「お茶を一服、召されませ」  と云って、土間へ降りた。  とたんに、 「ひーっ!」  と、驚愕の悲鳴をあげて、よろめいた。  裏口から、黒い影が、すっと、出現したのである。  手ごめにすれば、必ず現れる、と云ったのは、文五郎を誑《だま》すためであったが、思いもかけず、その予言通りになったのである。  男は、 「売女《ばいた》!」  その罵詈を、抜き討ちの一閃とともに、女にあびせた。  女は、血煙りの下に、ま二つになって、仆れた。  五 「成程——。それでは、いかに、疋田文五郎と雖も、引《ひけ》をとるであろうな」  信綱は、笑った。  淫婦に精気を吸わせた上に、姦夫になった忸怩たる精神状態に置かれては、到底剣気を冴えさせることは叶わぬ。 「では、弟子に代って、師が、化物の邪剣を検分して参ろう」  信綱は、文五郎を旅籠にのこして、出かけた。  ……信綱は、その|かわもり《ヽヽヽヽ》店で、三日待たなければならなかった。信綱は、炉端で、坐ったまま、三夜をねむった。  ふと——。  裏口の小さな物音で、目ざめた。  三昼夜を待たせた者が、ついに出現した。  信綱は、失神した町娘を肩にしている、顔のなかばを髭で掩われた男を、土間に、視た。五尺足らずの小兵《こひょう》である。蓬髪《ほうはつ》を肩に散らし、双眸に、燃えるような光を蓄え、そのまま山野に寝起きするらしい獣の革衣を着、両足のかくれる長い袴《はかま》をつけていた。  背中には、身丈と同じくらいかとおぼしい長剣を負い、袴の裾から、高足駄の歯だけ、ひとつ、のぞかせている。  上半身は、足駄をはかぬ側へ大きく傾いている。町娘を、肩にかついでいるせいばかりではないようであった。  それよりも、信綱は、その双眸の凄じい光を受けとめて、  ——野獣のまなこを、ぬすんだ、といえる。  と、胸中で呟いた。  旅籠を出る時、文五郎が、病みあがりのような顔つきで、信綱を店さきへ追って出て来て、 「まばたきをせぬ男でござる」  と、教えていたが、まさしく、それは、惑信によって作られた獰悪《どうあく》な禽獣のように、かっと瞠かれたままであった。  尤も——。  瞬目《まばたき》をせぬ修業も、兵法を学ぶ者にとっては、忘れてはならぬことである。達人ともなれば、対手がひとまばたきする間に、三尺の距離を、白刃を走らせる。  信綱は、蛇の目を想った。蛇は、はじめから、目蓋を持たぬ。したがって、まばたきをせぬ。それが、蛇を、さらに不気味な存在にしているのだ。  ——この者は、天性よほどの執念が強い、と思われる。  信綱は、そう観た。髭の下には、若々しい顔があることも、信綱には、判った。  ——まだ、二十歳であろうか。 「お主!」  若者は、町娘を、襤褸《ぼろ》のように土間へ抛《ほう》りすてると、 「そこいらの兵法者とは、どこかちがうな!」  すでに、剣気を、総身に滲み出させ乍ら、そう云った。 「それが、わかるか」  信綱は、微笑した。 「わかるぞ! おれの五感が、啾啾《しゅうしゅう》と哭《な》きはじめたわ! 何者だ!」 「上泉伊勢守信綱とおぼえておくがよい」 「なにっ!」  若者の炬眼《きょがん》は、さらにひとまわり大きくなったかとみえた。 「上泉伊勢守とは、お主か!」 「その方は——?」 「おれか。おれは、熊野の誓紙によって生れた熊野灘の海賊の子だ。権現仕えの神鴉《みからす》どもが育ててくれた、丸目蔵人だ!」  熊野権現の眷属に、「鴉」と称ばれる忍者衆がいることは、信綱も、きいていた。 「その方は、幻妖の術を学んで、それを剣の道に携《ひっさ》げ入ったのか?」  信綱は、訊ねた。 「いいや! おれは、神鴉どもに忍法の修業を強いられたが、十五歳で、これをすてた。おれには、忍者の六無の行動など、性に合わぬ。おれは、一剣に拠って、生きる!」 「剣は、邪法をきらうぞ。その方の剣は、邪法であろう」 「何を以て、邪法と断ずるのだ?」 「その方は、不具ではあるまい。両足健全にも拘らず、何故に、一足に高足駄をはいて居る?」  看破されて、丸目蔵人は、太い眉を、びくっと、ひきつらせた。 「おれが、忍法をすてた時のことだ。神鴉めの一人が、おれを、討とうとした」  その時、蔵人は、太地《たいじ》の湊の色里都々辺で、青楼の釜風呂につかっていた。当時のならわしとして、高足駄をはいて入っていた。  そこを、突如、襲撃された。  入浴中でも、刀は、常に、手をのばせば把れるところに置いてある。  蔵人は、「鴉」の投じて来た三本の手裏剣を躱《かわ》すと、釜から躍り出て、逆に裏の空地へ、追った。  敵は、二本の小刀を頭上に組むや、むささびのように宙を飛んで、致命の一撃を加えようとして来た。  忍法をすてた蔵人は、敢えて、それに対するのに、剣のさばきしか使わなかった。  ただ、高足駄の片方だけぬぎ、右足は、濡れた革鼻緒が食い込んで、ぬぐことができず、ひどい跛《びっこ》状態になっていた。  跳びちがい、跳びちがいするたびに、身の平衡は崩れて、醜《ひど》く傾斜した。  敵は、蔵人に足駄をぬぐいとまを与えずに、襲いつづけた。けだし、敵は、あらかじめ、その足駄の鼻緒が、湯で縮むようにしておいたものであろう。  死にもの狂いの闘いであった。  蔵人は、総身に、無数の浅傷《あさで》を負った。  どう闘ったか、殆ど記憶にはない。ただ、醜く崩れて、傾斜するおのが身すれすれに、敵の二本の小刀が、紙一重で、走りつづけたのを、おぼえている。  ついに——、  蔵人は、片耳を殺がれる刹那に、一颯《いっさつ》、すりあげた電光の迅業で、敵の頤から額まで、逆《さか》斬りに両断したのであった。  そのあと、蔵人は、全身から、血噴かせつつ、長いあいだ、茫然と、虚脱のていで、その場に立ちつくしていた。  六  人間は、顔も性格も同じものを持たぬが如く、その五体にも、それぞれ長所と短所をそなえて居り、同じ流派の門に学んでも、得意とし、苦手とするところが、ちがって来る。  右足からぬげなかった高足駄が、蔵人の五体を甚しく歪めたことは、これは、極度の短所をつくった、といえる。しかし、その最もひどい短所を、逆に、鮮やかな長所にすりかえるところに、剣の極意の絶妙さがある。  爾来、丸目蔵人が、両脚健全にも拘らず、右足にのみ高足駄をはいているのは、その故であった。  正常のからだを、すすんでわざと不具の状態に置いていることを、昂然とうそぶく蔵人を、冷やかに正視した信綱は、 「その方の我執の強さも、そこらあたりが、限度であろうか」  と、云った。 「ほざくな、伊勢守! 天下第一|面《づら》を、この蔵人の足駄で、ふみにじってくれるぞ! 立合えっ!」  蔵人は、ぱっと、おもてへとび出した。  信綱が出た時、蔵人はすでに、抜刀して、上半身を左へ大きく傾け乍ら、右肩を引き、刀身を、右半身に添わせて、まっすぐに下げていた。  柄の握りかたも異常であった。右手は尋常に握っていたが、左手は逆握りであった。  四尺近い長剣は、切っ尖を、ほとんど、地面にふれさせていた。  左手の逆握りは、斜横《ななめよこ》に刎ねあげるためのものであり、右手の尋常の握りかたは、応変の受太刀のためのものであった。  信綱は、その異様な構えを眺めつつ、しずかに、愛刀を鞘走らせると、青眼にとった。  間合はすでに、その瞬間に、定まっていた。 「行くぞっ!」  蔵人は、地上を高足駄で、高く鳴らしておいて、右下から左上へ、斜めに、きえーっと、一条の白い閃光を走らせた。  同時に——。  信綱は、すべるように後退しつつ、蔵人の左手へ廻り込んでいた。  これは、蔵人にとって、意外の出様であった。  蔵人は、おのが必殺の初太刀を躱した信綱が、当然、おのれの右手へ廻り込むものと、予測していた。そして、延びきったこちらの小手を斬って来るのが、常法というものではないか。  信綱は、それをしなかった。 「……」 「……」  無言の対峙を、数妙置いて、蔵人は、再び、 「ええいっ!」  と、同じ斬り込みを、放った。  信綱は、蔵人の左手へ、さっと廻り込んだ。  同じ攻撃と後退が、三度びくりかえされた。  蔵人は、かっと、信綱を睨みつけて、 「遁げるばかりが、天下第一か!」  と、あびせた。  その瞬間を待っていたごとく、信綱が、すっと、半歩迫った。  四度び——蔵人の長剣が右下から、斜めに、刃風《はかぜ》を発した。  とみえた時には、その長剣は、蔵人の双手からはなれて、空中へはじけ飛んでいた。  蔵人は、その長剣の行手へむかって、悲鳴を追わせつつ、棒倒しに、うしろへ倒れた。  血汐は散らなかった。  ただ、袴の前が、すこし截《き》られていたばかりである。  蔵人は悶絶した。  股間の一物が、両断されていたのである。  男子の資格を喪失した丸目蔵人に、上泉伊勢守が、与えたのは、正しい剣の業ではなく、六尺ゆたかの巨女佐和であった。  蔵人は、佐和と睦み合い、その胸の豊満な隆起からこんこんとあふれる乳をからだに塗りつづけ、その谷間の窖《あなぐら》から泄《も》れる陰液を嚥むうちに、濃毛が抜け落ち、若い女にもまさるつややかな肌になり、美しく優しい姿容と化したのである。  由比正雪  一  府中(静岡)は、その市中へ、北から長くのびて来た賤機《しずはた》山の裾をくいこませている。  南端に、浅間《せんげん》神社が、いわゆる浅間造りの社殿を、緑濃い森の中に、ひっそりとたたずませている。  富士浅間の新宮である。延喜《えんぎ》中に、勧請《かんじょう》し、本社二所は北に在って、卯《う》に向い、摂社は南に在って、巳《み》に向っている。  恰度、その中間の裏手に、一宇の草庵が建てられていた。  疫神を追い込み、とじこめるために建てられた、という。そのゆえに、呪詛《のろい》を企てる者が、夜半に詣でて、この草庵の戸口へ、殃《わざわい》を送る一念をこめて、五寸釘を打ちつけた。  この草庵に、眉目《みめ》麗しい少女が、ともなわれて来て、住みつくようになったのは、三年前からであった。世話をしているのは、惣社《そうじゃ》の禰宜《ねぎ》であった。  少女が住みついても、なお、戸口に五寸釘を打つ呪詛《じゅそ》人は、あとを断たなかった。  少女は、夜半しばしば、釘を打ち込む音で、目覚めなければならなかった。  附人《つきびと》もなく、ただ一人で起伏《おきふ》しし乍ら、この妖しい深夜の振舞いに能く堪えたのは、よほど気丈夫であったことである。  慶長八年十月はじめ——。  黄昏の淡陽《あわび》の中を、影のように、一人の人物が、宮ケ崎の町並を抜けて、浅間神社の鳥居をくぐった。  総髪、無腰、喪服に似た鈍色《にびいろ》の道服をまとっていた。  皮膚が漆を塗ったように黒く光り、鼻梁が異様に高く、極端な反歯《そっぱ》であった。右肩が下がり、袖が秋風にひるがえっていた。肩のつけ根から、腕が殺ぎ落されていたのである。  道服の男は、草庵の戸口に立ち、幾本か打ち込まれた五寸釘を、無表情で、眺めた。  戸を開くと、すぐには、入らず、腰に携げた革袋を把って、足もとに、銀色に光る粉を撒いた。そして、それに、火を投じて、白煙をたち昇らせた。白煙は、芳香を屋内へ送り込んだ。  当然のこと乍ら、道服の男は、それを、隻手《せきしゅ》で巧みに為した。  不断陀羅尼《ふだんだらに》を口のうちで誦《じゅ》したのち、入って、板敷きに正座すると、奥の座敷にいる少女へ、 「お父上様の三回忌の回向、昨日、墓前にて、滞りなく相勤めて参りました」  と、告げた。 「ご苦労でありました」  少女は、礼をのべて、点前の座に就いた。  男が、一服喫しおわるのを待ってから、少女は、 「父上の遺言を、承ります」  と、云った。  少女は、石田治部少輔三成《いしだじぶしょうゆうみつなり》の女《むすめ》であった。名は木美《もくみ》、母は島左近の妹であった。  慶長五年九月、父三成が、関ケ原に敗れて、伊吹山中において捕えられた時、木美は、大阪城に在った。十三歳であった。  三成の本拠佐和山城が、小早川秀秋の率いる一万五千の軍勢の猛攻をあびて、潰《つい》えた夜、木美は、何者とも判らぬ男によって、大阪城からつれ出され、この賤機《しずはた》山麓の浅間神社へともなわれたのであった。  覆面をぬいで、黒光りする異相をあらわした男は、 「それがしは、治部少輔様|直《じき》使いの忍びにて、鴉と申しまする」  と、名のった。  三成が、秀れた二人の忍者を使っていることは、敵である徳川方にまでつたわっていた。  一人は、「影」と称ばれ、一人は、「鴉」と称ばれていた。 「影」の方は、佐和山城に在り、落城の日、三成が最も寵愛していた十歳になる妾腹の子秀也を抱いて、夜陰に乗じて、城外へ遁れ去った。やがて、「影」は、仲間の諜報をあつめて、三成が、伊吹山中——伊香郡古橋村法華寺三殊院裏の岩窟にかくれていることをつきとめて、秀也を、そこへともなった。  三成は、その時、近臣を一人のこらず諭して、立去らせ、ただ一人、そこにいたが、泄(下痢症)を患って、変貌し果てていた。  秀也は、父と判り乍らも、あまりに凄愴な形相に、怯えて、泣き出してしまった。  三成は、そのさまを眺めて、 「育てるにおよばず」  冷然と宣告して、自ら脇差を抜いて、わが子の胸を刺した。 「影」は、その後、家康直属の伊賀党によって捕えられたが、三条河原で断首される寸前を、魔神の迅業で、遁れ去り、その後、行方知れずになった。  二 「鴉」の方は、三成から、関ケ原出陣の際、 「わしが、もし敗れた時は、木美は大阪城からつれ出して、育ててくれい」  と、命じられていたのである。 「鴉」は、その命令に従って、木美を、この草庵に、かくした。ここの禰宜は、実は、熊野|神鴉《みからす》党の一人であった。 「鴉」は、禰宜に木美を預けるや、直ちにひきかえして、主人をさがしもとめたが、すでに三成は、捕えられた後であった。  三成は、捕えられて、大津の家康の本陣へ送られ、本陣門外の地べたへ、ひき据えられ、一夜をすごした。  これは、下人の囚徒扱いであった。 「鴉」は、「影」とともに、この惨めな主人を、救う手だてを思案した。  思案が成って、稀代の忍者二人は、三成の前に寄ったが、光成は、首を横に振った。 「わしの任務は、了《おわ》った。生き恥は、さらしとうない」  三成は、関ケ原の決戦によって、家康と覇を争うには、あまりにもおのれの勢威が足らぬことを骨身にしみて、思い知らされたのである。いま遁れたところで、再起ののぞみは全くないとさとっていた。  主人の意志をひるがえさせることは叶わぬと判るや、「影」は、篝火《かがりび》が燃え、警衛の士が二十余名も見張っている中で、三成に、狩衣《かりぎぬ》をまとわせ、畳の上に坐らせた。 「鴉」の方は、大阪城から、つれ出した木美を、どのように育てるべきか、指示を乞うた。  その遺書を持って、再び、浅間神社へひきかえして来た「鴉」は、しかし、 「お父上様のご遺言は、三年忌の回向を了えた時、伝えるように、との仰せでありました」  とのみ、告げたのである。  その遺言を、木美が、きくべき日が、ようやく、おとずれたのである。  木美は、端座して、すずやかな眼眸《まなざし》を、「鴉」に当てて、待っている。 「鴉」は、なぜか、しばらく、口を緘んで、視線を、炉の中へ落していた。  やがて、「鴉」は、ほそぼそとした口調で、 「破瓜《はか》、ということを、ご存じでござろうか?」  と、問うた。 「知りませぬ」 「女子十六歳のことを申す。すなわち、貴女《あなた》様のことを指して居ります」 「……」 「古来より、破瓜いたせば、その妙齢をのがさず、破身するのを、女子のさだめとして居ります」 「破身とは?」  木美は、訊ねた。 「破身とは、すなわち、処女から非処女に移る刹那を、意味つかまつる。俗に、梳槞《そろう》というのが、これでござる。女子の童貞を証する処女膜が、有から無になる時、そのからだは、まことの女に相成り申す」  むかし魏鵬《ぎほう》という名族の一青年が、許婚の賈雲華《かうんか》という良家の娘と、めでたく、新婚の一夜を契ることになった。  魏鵬は、あらかじめ、|鮫※[#糸へん+肖]《さめぎぬ》という綾の手巾を、一詩に添えて、雲華に贈っておいた。 [#ここから2字下げ] 鮫※[#糸へん+肖]|元《も》と自ら竜宮に出づ。長《ひと》えに佳人玉手の中に在り。留めて洞房花燭の夜を待ち。海棠《かいどう》枝上新紅を拭わん。 [#ここで字下げ終わり]  竜宮から鮫人がもたらしたうす絹を贈っておいて、新婚の夜、処女膜が破れる際に、したたる海棠色の血汐を拭って、その処女を証して欲しい、という意味である。  木美は、「鴉」の遠まわしな説明をきかされたが、納得しかねて、 「どのようにいたせば、破身となるのであろう?」 「それは……」  流石に、「鴉」は、具体的に教えかねて、口ごもった。 「かまわぬ。教えてほしい。はずかしゅう思いませぬ」  木美は、促した。 「鴉」は、やむなく、くわしく、説ききかせはじめた。  木美は、頬に羞恥の色をのぼせたが、それに堪えて、まばたきもせずに、一切をききとった。 「それで、父上は、わたくしに、何人に、破身されるように、仰せられたのであろう?」 「申すもはばかる儀乍ら、ご遺言なれば、申上げまする」 「鴉」は、目蓋を閉じて、三成が云いのこした言葉を、一語もまちがえずに伝えるべく、ほんのしばし、沈黙を置いた。 「お父上様は、次のように、貴女様に、ご遺言なされたのでござる。  木美は、眉目《みめ》美しゅう生れては居るが、それをもって、女の幸せをつかむことは許されまい。理由は、ふたつ。この治部少輔の女《むすめ》であることがひとつ、いまひとつは女子には惜しいたけだけしい気象を備えて居ること。為に、おのが身を贄《にえ》として、天下を聳動《しょうどう》させる稀代の勇者を生み、育ててみせい」 「……」  木美は、眉宇もうごかさずに、きいた。 「鴉」は、双眼をひらいて、木美の美しい貌を視た。 「されば、姫様が破瓜《はか》のおん身をお与えあそばす男子は、誰人がよろしゅうございましょうか、とうかがいましたところ、お父上様は、そちにまかせる、とのお言葉でございました」 「其許《そこもと》は、もう選んであるのですね?」 「それがし、思慮いたしましたすえ、わが属する熊野神鴉党に、七人の若者が居りまする。孰れも、四歳より、忍びの修業にはげみ、生きのこり、鍛えあげた心身を具備つかまつります。その一人を、お選び下されば、と存じます」 「わたくしに、異存はありませぬ」 「忝《かたじけな》く存じまする」 「鴉」は、平伏した。  三  三日後の夜——戌刻《いぬのこく》(午後八時)に、草庵の中に、七人の若い忍者が、竝坐《へいざ》した。  七つの貌《かお》は、皮膚の黒さと鼻梁の高さと、やや口が反り出ている共通した特徴のゆえでもあったが、左右入れかわっても気がつかぬほど、骨格に個性が乏しかった。 「鴉」は、木美がどの一人を選ぶか、黙然として待っていた。  ややあってから、木美は、鴉に、 「どの者を選んでよいか、さだめかねまする」  と、云った。 「では、籤を引かせることにしては、いかがでありましょう?」 「いえ——」  木美は、かぶりを振った。 「お父上は、わたくしに、女の幸せは許されまい、と申されました由。女の幸せとは、よき良人を持つことでありましょう。わたくしは、妻となることを禁じられた身なれば、一人の男子に操を捧げる必要をみとめませぬ。……これら七人の者に、わたくしを与えたく存じます」 「姫様!」 「鴉」は、愕然として、木美を凝視した。  木美は、十六歳の少女にあるまじき冷たい表情を示していた。 「わたくしが欲しいのは、強く逞しい男の嬰児《やや》であります。今宵、この七人の者と契るならば、それは叶えられると思います」  寒く冴えた満月が、海のような空に浮いていた。七人の若者は、草庵の前の白砂上に、整然と正座して、その時を待っていた。すでに、籤によって、その順番は定められていた。  深更の静寂の中に、鈴の音が、微かにひびいた。第一番に当った者が、六人の仲間に、 「おさきに——」  と、ことわって、立った。  六人は、身じろぎもせずに、草案に入って行く者を、見送った。  座敷の中央に、緋毛氈《ひもうせん》が敷きのべられ、木美は、その上に仰臥し、花山吹の袿《うちぎ》を掛けていた。木美の長い黒髪が、緋毛氈の上に、蛇のように、うねっていた。香炉からたちのぼる青い香煙が、崩れては散り、散ってはまたひとすじの柱に立ちかえっている。  若い忍者は、一礼すると、すばやく、装束を脱ぎすてて、赤銅で鋳られたような逞しい裸躯を、燭火に照し出した。 「御免——」  袿《うちぎ》がめくられた。  一糸まとわぬ女体が、あらわれた。  女体というには、あまりに嫩《やわらか》な清痩が、いたいたしくさえある。肩も胸も腹も、そして四肢も、蕣花《むくげ》がひらいたばかりの清楚な美しさはあっても、男に固唾をのませ、動悸うたせる豊艶な魅力には、まだ乏しかった。  清らかな繊細な軽身は、赤銅で鋳られたような逞しい躯幹を乗せたならば、たちまち砕けはててしまいそうであった。  そのために、若い忍者は、逡巡した。  木美は、薄目をひらいた。 「夜の明けぬうちに……」  呟くように、云った。 「御免——」  若い忍者は、脆い白磁の塑像を抱くように、そっと、双手をのばした。  繊細な楚腰は、若い忍者の下で、溶けてしまいそうであった。  だが——。  逞しい四肢が蠢くに従って、破瓜の白く潤った柔らかな繊手と細脚は、これを容れるために、ゆっくりと大胆に動いた。  その双腕が左右へいっぱいにさしのばされ、その下肢もまた、いっぱいに拡げて、双の蹠《かかと》で、男の膝を押す露《あらわ》な姿態になった瞬間、木美の口から、疼痛に堪えようとする微かな呻き声が、洩らされた。  勤め了えた若い忍者は、すばやく、木美の上へ袿《うちぎ》を掛けておいて、装束をつけ、スルスルと退って行った。  裏口から出るように「鴉」から命じられていた若い忍者は、一歩出た刹那、横あいから、くり出された忍び槍で、脾腹《ひばら》をしたたかに刺しつらぬかれた。 「不覚者!」  突き手は、ひくく鋭く、一喝した。  まさしく、不覚であった。  平常の状態であれば、苦もなく躱《かわ》し得た一撃であった。二十歳の青年にとって、破瓜の嫩《わか》い女体を抱いたことは、不覚をとるだけの強烈な刺戟であった。 「不覚者!」と叱咤《しった》されて、若い忍者は、苦痛に堪えつつ、手槍を、脾腹から抜きとって、その衂《ちぬら》れた穂先を、われとわが胸に、ぐさと突き立てた。  四 「鴉」は、次つぎに出て来る若い忍者たちを、容赦なく忍び槍の贄にした。  六人の屍体を、物蔭へ横たえさせた「鴉」は、最後の一人を、待ちうけ乍ら、ふと、満月を仰いだ。  瞬間——。 「鴉」は、今夜をもって、おのれの生涯で為すべきことが、一切|畢《おわ》るのを感じた。  絵巻物をめくるように、五十年の日々が、脳裡を掠めてゆく——。  人生五十年、化転《けてん》の内をくらべれば、まさしく、夢幻の如くであった。  常に、死地をえらんで、身を運び、顧《かえりみ》てよくぞ生きのびたと戦慄する無数の経験を積み、その功は何ものこってはいないのが、忍者の宿運であった。 「鴉」が二十歳にして、やとわれたのは、織田信長であった。信長が、総数四万を率いて西上する今川義元を、桶狭間に奇襲すべく、清洲城を飛び出した時、主従わずか六騎であったが、「鴉」は、その一人に加わっていた。  信長は、途中、熱田神宮に詣でて、手書の願文《がんもん》を捧げたが、その時、朝靄の中から、一羽の白鳩が舞い出て、願文を読み上げる信長の肩にとまった。「鴉」が、信長にもことわらずに為した仕業であった。その一羽の白鳩の出現が、いかに、粛然と居竝ぶ三百余騎の士気をふるいたてたことであったか。  美濃を討った信長は、前方を瞻《み》、後方を顧る危機のただ中に在って、「鴉」を、四方へ趨《はし》らせた。「鴉」は、信長の信頼に応えて、敵国の内情を的確にさぐって来た。  信長の最大の強敵は、武田信玄であった。  信長は、「鴉」のもたらす情報によって、抗すべからざることを知って、信玄の次男勝頼に、養女を嫁がしめ、月毎に、多大の音物《いんもつ》を贈った。  永禄十一年晩秋、信長が、京都に入った時に、「鴉」は、些細なことから、信長の不興を蒙《こうむ》って、その許を離れ、孤鴉となっていた。  元亀三年暮、信玄が、三方原《みかたがはら》に、徳川家康を敗走せしめた時、「鴉」は、勝頼の旗の下で、雑兵《ぞうひょう》に交っていた。  徳川勢は、この日の総敗軍で、本多|忠真《ただざね》、鳥居忠広、成瀬正義、松平|康純《やすずみ》、米津政信ら、名だたる勇士三百余人が討死したが、そのうち、「鴉」の忍び槍に仆れた者は、二十余騎であった。 「鴉」は、しかし、戦国悪人帳の筆頭に記される信玄の許からは、早々に去って、それからは、ただ一仕事のみの渡り忍者として、諸国を転々とした。 「鴉」が、その孤鴉たることをすてて、石田三成に随身したのは、天正十一年春、豊臣秀吉が柴田勝家と雌雄を決すべく、兵を近江に進めた時であった。  三成が、鴉に命じた任務は、北ノ庄に忍び入って、勝家の首級を奪ることであった。 「鴉」は、この任務を見事に遂行した。三成は、この功によって、やがて、中村一氏、大谷吉継、福島正則らとともに、諸大夫の一人にえらばれ、従五位下|治部少輔《じぶしょうゆう》に任じられた。次いで、事務処理に当る機関として五奉行の設置に当り、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家らとともに、選任されたのであった。  もとより、「鴉」は、なんらむくいられるところはなかった。「鴉」にとって、三成が出世することが、悦びであった。三成は、「影」「鴉」の二人の忍者を、両親よりも信頼し、二人は、これに応えたのである。  戦国武将の運命ぐらい、さだめがたいものはない。昨日の覇者は、今日は亡く、今日の覇者は、明日は滅びている。まさしく、槿花《きんか》一日の栄であった。 「鴉」は、信長が果て、武田家が潰《つい》え、豊臣の天下が去るのを、見とどけた。  そして、いま、おのれ自身の生涯も、尽きるのを、直感したのである。  裏口から、最後の一人が、すっと、姿を現した。 「鴉」は、胸中に、  ——南無!  と念じて、忍び槍を、びゅっ、とくり出した。  穂先はあやまたず脾腹を刺したが、手ごたえが薄かった。 「不覚!」 「鴉」は、ひくく口走った。これは、対手にあびせたのではなく、おのれ自身をあざけったのである。  ゆくりなくも、満月を仰いで、忍者にあるまじき人間的な感慨に、心裡をしめらせた「鴉」は、その一撃に、技がにぶったのである。若い忍者は、咄嗟に、左手抜きの一閃で、忍び槍の柄を両断して、二間を奔っていた。  そして、脾腹から穂先を抜きとりざま、「鴉」へ、投げ返した。  そして——。  両者は、そのまま、影と化したごとく、対峙して動かなかった。  満月が、雲に、かくれようとした。 「鴉」は、ゆっくりと、腰の剣を抜いた。  瞬間、対手の手から、法輪をかたどった十字手裏剣が、放たれた。  その一本が、「鴉」の左腕上膊を搏った。 「鴉」は、矢のごとく、奔って、地面をこするように、すりあげの弧線を描いて、斬りあびせた。  若い忍者は、それにあおられたように、五体を宙のものに、黒松の高枝へとびついていた。  その時、霧のようなものが、「鴉」の顔へかかった。若い忍者の脾腹から、散った血汐であった。 「父者——」  高枝上から、若い忍者は、地上の「鴉」を、そう呼んだ。 「む——」 「さきの六人は、ことごとく討ち果たされたか?」 「果した」 「それがしに対して、なぜ、手もとが狂われたか? よもや、遁さんとする親の慈悲ではござるまい」 「……」 「五代を継いだ神鴉の頭領として、仕損じは許されぬところ——」 「……」 「慈悲は無用でありましたぞ!」 「黙れ! 慈悲ではない。そちを仆すことが、わしの最後の任務となる感慨が、業をにぶらせたに過ぎぬ」 「笑止!」  闇を縫って、忍び針が、無数に「鴉」めがけて、降って来た。  手負い乍らも、漲った若さは、聊かも屈してはいない。 「鴉」は、ふっと、後悔した。  手負わせるのではなかった。自分が討たれてやるのであった。 「鴉」は、ふたたび、血汐の霧が、顔にかかるのを感じた。  小鴉は、隣の松へ跳び移ったのである。 「鴉」は、その速形が、さらに、草庵の屋根に跳ぶのを視て、木美の危険を予感した。 「鴉」は、裏口へ奔って、 「姫様! 油断めさるな! 太刀をお把りなされい!」  と、叫んだ。  隻腕《せきわん》の、その上膊を傷ついた「鴉」は、もはや、尋常の闘いは叶わなかった。ただ、子鴉自身も、かなりの血汐を流して、体力を消耗しているのであれば、容易に、襲って来ないであろうと考えられる。  こちらに、聊かの利があるとすれば、子鴉がまだ、父の隻腕を役立たなくしたことに気がついていないことであろう。 「鴉」は、屋根に蹲った黒影が、容易に動かぬのを見てとってから、草庵の中に入った。  木美は、なおそのままの仰臥体になっていた。ただ、小太刀を、袿《うちぎ》の上に置いて、いつでも抜き放つことができるように、握っていた。「鴉」は、土間に近い板敷きに坐り、柱に凭りかかった。左腕を搏った手裏剣には、毒が塗ってある。その毒が、徐々に、五体にしみ渡っていた。  おのれがねむるのが早いか、屋根の子鴉が昏絶するのが早いか——それは、「鴉」自身にも、測りがたかった。  毒に堪えるだけの鍛えかたをしてあったし、すばやく手当をすればたすかることであったが、「鴉」は、なぜか、それをせずに、黙然として坐りつづけた。  四肢が、けだるくなって来た。  もはや、立つことも、おぼつかぬ。  視界が、ゆれはじめた。脳裏の芯が砕けるように疼き出した。 「鴉」は、じっと、堪えた。  と——。  裏口に、影が動いた。 「……ならぬ!」 「鴉」は云った。しかし、その声は、口のうちで、消えたようであった。  若い忍者は、しずかに、一歩、ふみ込んで来た。 「鴉」は、かっと睨みつけた。  若い忍者の眼眸は、父の頭上をこえて、宙に放たれていた。  さらに、一歩、進もうとして、かんまんに、上半身を前へ傾けた。 「鴉」は、わが子が土間に棒のごとく仆れるのを見とどけて、目蓋を閉じた。  ——畢《おわ》った。  五  元和《げんな》元年五月七日、大阪城は炎上し、豊臣氏はここに全く亡びた。  いつの世でも、そうであろうが、城が陥落するにあたっては、この世の生地獄が、現出する。  天下第一の巨城が滅びたのである。それにともなって、虐殺、掠奪の醜態は、いたるところにくりひろげられた。 「敗走者及び追撃の武器の音、戦勝者の無礼なる叫び、婦女子の高い悲鳴叫喚、小児の絶望の涕泣、街上に血の河の流れるさま、火に焼かれ、鉄炮に傷つけられた者の発する呻き声、広場や街路を、敵と火焔から遁れようと、狂人のように奔りまわる光景は、ただに、戦敗者のみならず、戦勝者にても、一片人情を存するものにとっては、おそるべき観ものであった」  これは、耶蘇《やそ》会の宣教師バードレの報告である。  大阪城には、金と美女がある。  これが、攻めよせた数十万の将兵の身心を躍らせていた。  細川忠興の兵と、藤堂高虎の兵が、城内に隠匿された財宝を奪いあって、殆ど小戦争を惹起したという。  もとより——。  家康が、秀吉の蓄えた厖大な金額を、各藩の将兵に奪るにまかせる筈がなかった。  家康が、大阪城を陥落させたのは、秀頼を自刃せしめることよりも、秀吉遺産を掌中にせんとするのが、目的であったに相違ない。  将軍秀忠は、諸大名に暇を呉れたのち、家康よりひと足さきに、伏見を発して、江戸へ還って行った。  家康が、京都を発したのは、秀忠が江戸城に帰着した頃であった。その間に、家康は、一度、大阪城へおもむいている。焼けた大阪城には、本多佐渡守がいた。  佐渡守は、本丸、二の丸、三の丸、それぞれ十七箇処に設けられた秘密の地下蔵より、秀吉遺産を運び出し、荷駄三百頭の背に積んで、家康を待っていたのである。  十七箇処の地下蔵は、淀君、秀頼、大野治長のほかには、生存者のうち、片桐|且元《かつもと》だけが、その場所をそらんじていた。  佐渡守は、片桐且元に、それを絵図面に描かせたのである。  且元は、豊臣氏が滅亡してわずか二十日後——五月二十七日に、年六十三で歿している。本多佐渡守が、毒殺したのである。  八月四日——。  家康は、太閤遺金を積んだ荷駄三百頭を、伊賀衆甲賀衆二千騎に守護させて、京都を発して、駿府に向った。 「おん、あぼきゃあ、べいろしゃなあ、まかもだら、まにはんのま、じんばら、はら、ばりたや、うん……」  ぶつぶつと、光明真言《こうみょうしんごん》を唱え乍ら、一人の猟師が、宇都山《うつのやま》の蔦の細道を、辿って来た。  岡部宿より十石坂を歴《へ》て、湯谷《ゆや》口より登りになる宇都山には、東海道のほかに、古の細道が通じている。これを、蔦の細道という。嶮路で、左右は萩、荻、篠竹が人の身丈ほどに生い茂って、鎌で払わねば、通れないくらいである。  勿論、旅人がえらぶ道ではない。  この宇津谷嶺は、上り下りわずか十六町であるが、むかしから、ものさびしい密林中の山道なので、草賊が潜伏して、しばしば、旅人を襲う。  海道筋でさえそうであるから、まして、蔦の細道の方など、猟師の影が落ちるのさえ、まれである。  めずらしく、初老の猟師が、鉄砲をかついで、光明真言にすがり乍ら、辿って来たのは、狩猟のためではなかった。  矼《とびこえ》の橋をひとつ渡って、薄《すすき》と茅《ちがや》のむこうに、熊野権現の祠《ほこら》を見出すと、 「あれじゃな」  と、合点して、腰の鎌を把って薙ぎ狩りつつ、近づいて行った。  祠の前に出た猟師は、小首をかしげて、 「こんなところに、和子一人住むとは、まことじゃろうか?」  と、呟いた。  大声をあげて、呼ぶと、木霊の消えぬうちに、左手の密林が鳴った。  蔦かつらをつかんで、むささびのように、宙を翔けて来た小さな影が、ひらりと、祠の屋根に立った。 「お——、やはり、ござったか」  猟師は、ようやく十歳に達したばかりとみえる少年を、仰いだ。  鹿皮でつくった袖なし羽織をまとい、|たっつけ《ヽヽヽヽ》をはいた少年は、色黒く、鮮やかな造りの眉目をそなえて、眸子《ひとみ》から異常に強い光を放っていた。 「富士太郎様、権助でございます。と申しても、お判りではございますまい。貴方様が、賤機山のふもとの流之井《ながれのい》の小屋で、お生れになった時、お世話申上げた下僕めでございます」 「何用だ!」 「昨夜、お母《かか》様の木美様に、阿部市《あべのいち》のお屋敷に呼ばれましてな、このお手紙を、貴方様にとどけよ、と命ぜられました」 「そこへ、置け」  少年は、命じた。  猟師が、御手洗《みたらい》ぎわの休み石へ、封書を置いて、遠ざかるのを待って、少年は、土廂《どびさし》から、ヒラと躍って、かるがると地上に降り立った。  石田三成の女《むすめ》と熊野神鴉党の若い忍者七人とのあいだに生れたこの少年は、二年前から、一人で、この山中に籠って、祠の内では書物をひもとき、出でては、けもの対手に武技にはげんでいた。孤独のさびしさに顫えたことは、一度もない。月に一度、母木美が、おとずれて、糧食と衣服を置いて行き、わが子に、どれだけの文武の進歩があったか、見とどけて行く。  富士太郎は、封書を把って、披《ひら》いた。  読んでゆくうちに、顔色が変り、きびしくひきしまった。  遺書であった。  富士太郎は、天を仰ぎ、太陽の位置によって、時刻を看た。 「もう、すぐだ!」  富士太郎は、小鹿のように奔り出した。  たちまち、古松六七株に、猫の臥した形《なり》の巨巌のある地点を掠め過ぎて、頂嶺に達し、ひと際高い松をスルスルと、登って、小手をかざして、西方を望み見た。  山郭は依々として、鳥もけものも午睡のうちにあるように、幽寂である。  富士太郎は、トンと飛び降りると、東へむかって、疾駆して行った。  坂路はいよいよ嶮《けわ》しくなり、しかも真砂地で、尋常の足では踏み止め難かったが、富士太郎は、雪の斜面を滑走するような迅さで、下って行った。  渓川に出て、矼《とびこえ》の橋を渡れば、路はようやくあざやかになる。富士太郎は、本海道を眼下にする地点で、ぴたりと足を停めた。  十《とお》団子を売る茶店が、崖に凭れかかるようにして、屋根をのぞかせている。前が土橋である。蔦の細道は、ここでおわって、本海道に合するのである。  富士太郎は、斜面に突出した岩の上に、ちょこんと蹲ると、動かなくなった。  およそ半刻が過ぎた頃、長蛇の行列が、宇津山を越えて来た。  駿府へ帰る家康の行列であった。  将士兵卒いずれも、具足を解いて、平常の姿になり、槍鉄砲などもわずかの数に減じて、しずしずと進んで来た。ただ、荷駄が蜿蜒とつらなっているのと、左右に徒士《かち》目付、小人目付の装《なり》の供揃いの夥《おびただ》しいのが、目立っていた。  尤も、荷駄をはさんで、前後の隊伍は、十人一火、五十人一隊の編成を守って居り、これは、いざとなれば、たちまち一番備え、二番備えと、幾つかの陣備えになって、先陣後陣が一斉に動いて、自由に変化することができる行列ではあった。  老いたる天下の覇者は、ちょうど中央のあたりで、四方輿に乗って、秋の山景色を、眺めやっていた。  少年富士太郎は、岩から滑り降りて、小松の股のあわいから、双眸を光らせ乍ら、坂を降りて来る行列を固唾をのんで見下していた。  先払いの徒士《かち》が、十団子の茶店の前を過ぎ、馬や台笠や、槍のさきが、見えかくれしつつ、通って行った。やがて、家康を乗せた輿が、茶店の屋根のむこうにかくれた。  その時であった。  茶店の屋根を、裏手から、黒い影が、けもののように、するすると登った。 「母者《ははじゃ》!」  富士太郎は、思わず、小さく、叫んだ。  黒い影は、屋根の頂きに、すっくと立つや、四方にひびきわたる冴えた声音で、 「徳川大御所殿に、物申す!」  と、呼ばわった。  家康はじめ、行列一同が、一斉に、ふり仰ぐや、黒い影は、そのまとっていた黒衣を、ぱっと、払いすてた。  一糸まとわぬ白い豊満な裸身が、澄んだ秋陽の中に、美しく、浮き出た。 「われこそは、石田治部少輔三成が女《むすめ》木美に候! 亡父が無念を、はらさんがため、ここに、待ち受け候。大御所殿、おん生命《いのち》を申し受けますぞ!」  叫びあげた裸身は、右手に短剣をかざし、黒髪をひるがえして、宙を躍りざまに、輿めがけて、跳んだ。  その白い鳥にも似た速影にむかって、先陣後陣から、幾本かの手裏剣が、すばやく飛んだ。裸身は、それらをことごとく、吸い込ませつつ、輿に躍り込んだ。  のけぞる老覇者の前に、ぴたっと突っ立った裸身が、その白い柔肌の、肩から胸から、腹から太腿から、みるみる鮮血を噴かせる光景は、けんらんともいうべき鮮烈な美しさであった。  すでに意識を喪った血まみれの裸身は、家康めがけて、短剣をさしのべ、一瞬、そのまま塑像と化すかとみえたが、どうっと傾き、地上へ落下して行った。  ——母者っ!  岩蔭で、松の幹にしがみつき乍ら、富士太郎は、声なく、絶叫していた。  ——母者! おん身のご最期を、見とどけましたぞ!  どっと、泪が、双眸から噴いた。  幹からずるずるとすべって、岩肌に、ひたとすがりつくと、富士太郎は、必死に、嗚咽をかみころした。  どれだけの時刻が、移ったろう。  少年は、ようやく立ち上った。  行列は、すでに、遠方へ去っていた。  富士太郎は、宙へむかって、声を限りに、 「母者っ!」  と、叫んだ。  木霊が、かえって来た。 「母者っ!」  もう一度、絶叫してから、富士太郎は、海道上へ、駆け降りた。  母のなきがらは、家康の下知によって、行列とともに、運び去られていた。  富士太郎は、大地をしっかとふみしめて、歩き出した。  三百の荷駄に積まれた太閤遺金を奪って、徳川家を顛覆せしめよ、と記された遺言状を懐中にし、十歳の異端児は、なんのおそるるところもなく、行列を追って行った。  由比正雪の面魂《つらだましい》は、すでに、その幼い貌にみなぎっていたのである。  幡随院長兵衛《ばんずいいんちょうべえ》  一  おれは、天下の男|伊達《だて》幡随院長兵衛だ。おれの名をきけば、泣く子も、だまる。おれの名を、掌《てのひら》に書いて、ぺろりとなめれば、痛み腹もケロリと癒る。いやさ、それぐらいの男伊達が、日本広しと雖も、未だ曾て、現れたためしはあるまい、ということさ。  強気を挫《くじ》き、弱きを扶《たす》ける任侠一代——この幡随院が、黒木綿に陰の三つ引の大紋を染めた長羽織をひるがえし、裾を高く腰に巻きつけ、無反《むぞり》の長刀、中刃は関の孫六がきたえた逸品を腰にぶち込んで、往来にのし出せば、世間の妨げ庶衆に迷惑をかける奴らは、知ると知らぬの区別なく、散り散りに逃げ去り居る。  左様さ、おれの膂力《りょりょく》は、三十人力。いつぞや、闇から五人の浪人どもが、声もかけずに、斬りつけて来居ったが、ござんなれと、一人を蹴倒し、そやつの両脚をひっ掴んで、案山子《かかし》のように、ぶんまわしてくれた。あとの四人は、宙を唸って旋回する仲間の白刃に、首やら腕やら、刎《は》ねとばされて、あの世へ鞍がえし居った。  なに——? おれの生れ素姓をききたいか。きかせてやろう。  実は、おれも、十三の年までは、おのれが、何人《なんぴと》の倅《せがれ》か、知らなんだ。  おれは物心ついた時、熊野灘の波浪が打ち寄せる太地《たいじ》の湊の首比達館《しゅびたつやかた》で、育って居った。首比達というのは、二百年のむかし、天竺からやって来た船造師で、日本一の水軍をつくりあげた偉物《えらぶつ》だったそうな。  首比達館は、いうなれば、太地の湊のお城というわけよ。そのお城に住むおれが、ただの素姓でないことは、ことわるまでもなかろう。  おれが手のつけられぬ腕白小僧になったのは、お城の若様を、はれものにさわるようにして、おそるおそる育ててくれたからであろうて。  十三になった正月のことだ。  おれが、もう武者修業に出てもおそくはあるまい、と今日にもとび出しかねまじい様子を見せると、おれを乳のみ児の時から育てた婆さんが、血相かえて、那智の滝の近くにある神鴉《みからす》屋敷へ、走って行き居った。神鴉屋敷には、それまでに二度ばかり、婆さんにつれて行かれていた。  なんとも陰気な屋敷で、広いことも広いが、べらぼうに長い暗い廊下に立つと、寒気《さむけ》立って、足がすくんでしまい、流石の腕白小僧も、しゅんとなったおぼえがある。おれは、つれて行かれた二度とも、会ったのは、白髪白髯の爺さんだけで、ほかに一人も出会《でくわ》さなかった。  そのだだ広い暗い屋敷には、爺さんだけしか住んでいないように思われて、おれは、もう首に縄をつけられても、行くのはごめんだと思っていた。  神鴉党が、何をするのか、おれは、知らなかった。ききもせず、きかされもしなかた。ただ、その爺さんが、どうやら、おれの後見人らしいことだけは、漠然とさとっていたものだ。  やがて、婆さんの急報で、館に入って来た爺さんは、 「和子に、きかせることがござる」  と、大層あらたまった口調で、云うではないか。  奥座敷に、上段の門が設けられていて、平常は、入ることも禁じられていたが、婆さんは、何を思ったか、その上座へ、おれを据え居った。  おれが、戸惑うて居ると、爺さんは、はるか下座に両手をつかえ、 「和子に、いまこそ、おん素姓をお教えつかまつる」  と、云った。おれの小さな五体にも、何やらピーンとひびくものがあった。  おのずからなる威厳をつくろう性根こそ、やはり素姓はあらそわれぬ、というやつだ。 「和子! 和子は、いまより十三年前——元和元年五月七日、大阪城にお生れあそばされたのでござる。和子が、おそれ多くも、豊臣秀頼公の忘れ形見でござること、神明に誓って相違ござらぬ。……徳川大御所総指揮による日本全土の大軍に、ひしひしと包囲された大阪城の第三矢倉の糒蔵《ほしいぐら》の一間で、呱呱の声をあげられたのでござる。まさしく、和子は、家が滅ぶ時にお生れあそばした因果のお子でござった。油尽きて燈火滅するのは、自然の理なれども、豊臣家が二代をもって消える無念に堪えられず、太閤殿下には、三代の灯を継ぐべき生命を、その滅亡寸前に、この世に送り出されたのでござろうか。母君のお唐の方は、和子をお生みあそばされると、力尽きて、あえなくなられたのでござる。その時、お唐の方に、お附き申していたのが、この爺の娘和佐でござった。幼い頃より、忍び術百八法を学んだ和佐は、生れたばかりの和子をお守りする役に、ふさわしい女でござった。  和佐は、その朝——なだれ入って来た東軍によって処々に火が放たれるのをみて、和子をかき抱いて、天守閣へかけのぼり、秀頼公に、お目通りすると、和子をおのが手ひとつでお救い申上げる旨を、言上つかまつった。その時、秀頼公には、さびしく笑われて、予が子として育てるには及ばず、庶民の中に入れて、くれぐれも、廃家を興す野望など起させるな、と仰せられたげにござる」  おれは、爺さんの言葉を、固唾をのんで、きいた。  ——おれは、豊臣秀頼が一子、豊太閤秀吉の孫であった!  おのれに呟いてみて、にわかに、からだ中の血が、わくわくとたぎり立ったものだ。  そうではないか。  天下広しと雖も、太閤の血を享け継いだのは、このおれただ一人だ。これが、血をさわがせずに居られるか。  和佐は、秀頼公が、蘆田曲輪《あしだくるわ》の第三矢倉内で自害あそばされるのを見とどけたのち、おれを、濡れむしろでくるんで背負い、猛火の中を脱出したが、おれを守るのと、敵の目を掠めることに、心を配ったあまり、おのが身が、生命にかかわる火傷《やけど》を負うのにかまっていられなかったのだ。  和佐は、おれを背負うて、気力だけでおのが身を太地の湊へはこんで来るや、バッタリ仆れた、というわい。おれは、母と附人と二人の女性《にょしょう》の犠牲によって、生命をひろった因果の子よ。  爺さんは、諫言《かんげん》し居った。 「されば——おん父君のご遺言により、和子は、庶民の一人として、この首比達館で、平和におくらしなさる、常軌をはずされてはなりますまい」  おれは、その場では、殊勝げに、合点してみせた。しかし、二日後には、もう館から姿をくらまして居ったのだ。  二  おれが、江戸へあらわれたのは、十五歳の春だ。  太地の湊を出奔してからの二年間を、何をしていたか、ときくのか。知れたことよ、兵法修業だ。いや、かくさぬぞ。食わんがためには、野盗辻斬りもやってくれたわ。もとより、亡父の遺言があるからには、町人百姓には目もくれなんだ。  腕におぼえのありそうな武家衆をねらって、生命知らずの突撃をしてくれた。  宇津谷峠で、若党に槍をかつがせた髯武者の前へとび出した時などは、おのが無謀さに、あとでぞっとなったことさ。  髯武者め、小わっぱなどをあしらっているひまはない、とせせら笑って、行き過ぎようとし居ったわ。  おれは、いきなり、二間を跳んで、若党がかついだ大身《おおみ》の槍をひったくり、髯武者の身丈の高さの断崖ぶちへ、立った。 「おのれ!」  烈火の憤怒にかられた髯武者が、抜刀して、 「降りて来い!」  と、呶号するのへ、にやっとしたおれは、 「それ、返してくれるぞ」  と、槍を投げつけてくれた。  髯武者は、それを躱《かわ》すのに、体勢が崩れた。その隙を何条もって、のがすべきや、おれは、宙を翔けざま、抜きつけの一閃で、その首を薙ぎ刎ねてやった。  腰を抜かした若党をしり目にかけて、髯武者の懐中をさぐると、あったわ、片手で持ちきれぬほどズシリと重い金包み。  あわれや、戦場往来の髯武者も、金の重さで、身の自由がきかず、わずか十五の小わっぱに、首を刎ねられ居ったのだ。  小判にすれば五百両はあろう砂金包みを、ひっかついで、おれは、悠々と江戸をめざしたものよ。  おれは、豊臣秀頼の忘れ形見だ。徳川家をはじめ、その譜代、旗本は申すに及ばず、大阪城を攻めた大名という大名は、悉く、おれの敵とみなしてよいのだ。だから、どこの大名の家来だろうと、あたるをさいわい、斬り仆してくれるのに、なんの容赦もなかったことだ。  江戸へ出て来た時、おれの肚《はら》のうちは、デンと坐って居った。  大名武士は、一人のこらず、おれの敵だった。だから、おれは、町人の味方になってやる。おれの理窟は、簡単明白だ。  おれは、江戸へ出て来る前は、京の都にいた。都大路をのし歩いていたのは、公卿でもなければ、武士でもなかった。荊《いばら》組、皮袴《かわばかま》組という、生れ乍らの牢人が、身装《みなり》をかえた町奴の群だった。  ——よし! おれも、江戸へ出たら、町奴の組をつくってくれるぞ。  おれの肚は、その時、きまったのだ。  おれにとって、江戸は、もって来いの町だった。  戦国は、もう遠いものになって居った。爺さんどもが、自慢げに、合戦譚をやればやるほど、倅や孫の耳には、小蒼蝿《こうるさ》い、退屈千万なものになっていたし、腰の太刀は装飾品に過ぎなくなり、弓は袋に、槍は鴨居に投げかけられ、滅多に手入れもされなくなったご時世と来ている。  合戦があってこそのさむらいだ。泰平を謳歌する世の中になれば、武士は、腰の太刀を鞘払う機会を失うて、黙り込むものになり居った。おまけに、武家諸法度というやつが、昼も夜も、がんじがらめに身をしばりつけて居る。  だからといって、生命をすてることを惜しむご辞世というわけじゃない。将軍家が亡くなると、大名どもが追腹して殉じたり、愚図愚図していて、殉死がおくれた奴は、世間から、さんざそしられるあんばいであった。新刀を手に入れると、闇夜に、辻斬りをやってのけて、利鈍を試して、百人斬り、千人斬りなどと、自慢している旗本も一人や二人ではなかったのだ。  旗本といえば、爺さんや親爺の殺伐の血を継いで、合戦のない浮世に退屈したやからが、六法《ろっぽう》組とか白柄《しらつか》組とか、徒党を組んで、往来をのし歩いて居った。その他に、吉弥組、鉄砲組、鶺鴒《せきれい》組、笊籠《ざるかご》組など、かぞえれば十数組もの旗本奴が、喧嘩をその日の仕事にして、いたるところで、喚きたてて居ったものだ。  このありさまが、おれを、  ——よおし、やるぞ!  と、武者顫いさせたものよ。  三  おれの名が、一時に、江戸市中にひろまったのは、浅草幡随院の門前の騒動だ。  天子様のおん弟君の守澄《もりずみ》法親王様が、上野輪王寺の門跡として下向《げこう》されることになった。その宿が、幡随院と定められた。  ところが、幡随院の門前にならぶ茶屋は、旗本奴どもの巣窟になって居る。  旗本奴どもを、ここから追いはらっておかねば、当日、どんな無礼を働くか知れない心配がある。しかし、どうやって、追いはらうかだ。  おれは、この機会のがすべからず、とその二日間、浅草非人|小屋頭《こやがしら》車善七をたずね、事情をのべて、百人の非人を借りうけ、こいつらに、頭をまるめさせ、法衣をつけさせて、一策をさずけた。  下向前日の黄昏時のことだ。  おれは、この俄《にわか》坊主たちを、門前茶屋の前に並ばせて、一斉に、 「怨敵《おんてき》退散、六根清浄《ろっこんしょうじょう》!」  と、喚きたてさせた。  茶屋にとぐろをまいていた旗本奴どもは、 「くそ坊主、消えうせろ!」  と、呶号したが、なんの、こっちは、慍《おこ》らせるのが目的だから、さらに一層声をはりあげてくれた。旗本奴どもは、はたして、脅《おど》しの白刃を抜きつれて、のし出て来た。  その瞬間、おれの下知もろとも、百人の俄坊主は、法衣の蔭にかくし持っていた忍び玉を、彼奴らめがけて、投げつけたものよ。  云い忘れていたが、おれが、太地の港の首比達館を出奔する際、懐中に、神鴉党忍法秘巻をひそめていた、と思ってもらおう。  これが、おれの生涯にとって、どれだけ役立ったか、はかり知れぬ。  忍び玉には、火を発するもの、水を噴くもの、煙を放つもの、およそ十一種類がある。  俄坊主百人が抛《ほう》りつけた忍び玉には、火や水や煙の代りに、猛臭が仕込んであったのだ。いうなれば、その一個が、千人が一時に放屁したにひとしい臭気を爆発させたことだ。  こいつを、まともに面ていへ、たたきつけられては、たまったものではなかろう。  ワッとかギャッとか、なんとも悲惨な呻きをほとばしらせて、のたうちまわる光景は、猿楽芝居の面白さなどとは比べもならなんだわい。  こっちは、鼻孔をしっかり、綿詰めにしているのだ。 「怨敵退散、六根清浄!」  と、高らかにとなえ乍ら、引きあげて行く鮮やかな振舞いが、江戸中の評判にならぬわけがなかろう。  おかげで、爾今は、幡随院長兵衛と呼ばれるように相成ったわ。  次いで、おれの名が、いやが上にも高くなったのは、芝神明の祭礼場で、やってのけた麻幹《おがら》試合だ。  熊本浪人有馬藤左衛門が、一心夢想流の大看板を立てて、他流との賭試合を興行し、旗本奴どもを、次つぎと撃ち負かしている、ときいて、おれのおもむくところとなった。  おれは、まだ十九歳、苦味走った男ぶりは、豊臣家の血を承け継いだもの、すでに身丈は六尺、それを飾るいでたちに、悉皆《しっかい》工夫が凝らしてあった。  公儀の触れで、町人は、黒の紋付を禁じられていたので、長羽織には、昇り満月ほどの大きさの三つ引の紋を染め出し、裾高く捲《めく》りあげた下には、燃えるような緋縮緬の下着を浮きたて、関の孫六を閂《かんぬき》に差し込んで、一歩毎に、下着がはねて、膝頭までむき出すのは、裾に鉛を仕込んだ工夫よ。  髪は大|額《びたい》に武を衒《てら》い、横毛をたてて、これを半|ごう《ヽヽ》剃にし、髯は加藤清正の大髯をならって、松脂に蝋を混えたやつを、髯さきにつけて、空ざまにひねりあげた趣向さ。  乾分《こぶん》も、呼ばずとも、集って来たわな。唐犬《とうけん》権兵衛、放駒《はなれごま》四郎兵衛、薩摩源三郎、冥途《めいど》小八など、戦国の頃なら、一城をも手掴むほどの器量者ぞろいだ。  尤も、その日、おれが、連れたのは、色子あがりの振袖若衆一人だけだった。  有馬藤左衛門の見世物は、ものものしく、竹矢来を組んで、空地をひろく取り、立てた大看板は、一丈余もあったろうか。  試合を挑む者は、まず、定めの金子を投げて、ならべてある小太刀を把ることになるのだが、おれは、まず、ゆっくりと、入口の大看板に歩み寄った。  気合も発せず、抜く手もみせず、おれが、長羽織をひるがえして、そこを抜けて、竹矢来の中へふみ入ったとたんに、大看板が、ま二つに割れて、地ひびきたてた、と思うがいい。  有馬藤左衛門は、六尺三寸の雲を衝く巨漢で、婦女子幼児が正視できる面構えではなかった。  おれを、ハッタと睨みつけ、 「一心夢想流の看板を両断いたしたのは、生きて還らぬ存念であろうな、町奴!」 「大江戸のどまん中で、十両試合は傷を負わせず、五両試合は、薄傷《うすで》にとどめ、一両試合では生命の保障をせず、などと高札を立てた増上慢の鼻を、うちひしぐのが、町奴のつとめ。覚悟してもらいやしょう」  大見得をきってみせたのも、千人の群集にかこまれた見世物ならば、効果も大きいというものだったろうではないか。  おれが、ならべられた木太刀をえらばず、振袖若衆に携えさせた得物を把ってみせた時、群集は、どっとばかりにはやしたてたわい。  おれが、握ったのは、幼児を打っても泣きそうもない麻幹《おがら》だったのだ。 「おのれ、それで、それがしと勝負するのか!」  有馬藤左衛門のこめかみに、青筋が走ったのは、当然だろう。  おれは、平然として、歩み寄るや、麻幹を構えて、 「いざ!」  と、あびせてやった。  藤左衛門は、赤樫の木太刀を掴むや、大上段にとって、ずかずかと迫って来居った。  間合をとって、汐合のきわまるのを待つ、などという時間が、置かれるべくもなかった。  青二才の脳天を砕くに、なんの造作があろうか、といかにも、威圧の気勢を示した藤左衛門は、実は、おれの居合の迅業を封じるには、間合をとることがかえって不利とさとっていたからに相違ない。 「やああっ!」  天地をふるわせる大喝もろとも、大上段の木太刀が、おれの脳天に降って来た。  刹那——間髪の迅さで、おれは、滑走して、藤左衛門の咽喉仏《のどぼとけ》を、麻幹で突いていた。  習練によっては、観世小縒《かんぜこより》で、まなこを突き刺すことも、可能なのだ。  麻幹のひと突きで、咽喉を破ることなど、なんのふしぎもない。  藤左衛門が、のけぞり、凄じい地ひびきたてるや、群衆は、われを忘れて、どよめいた。そのどよめきをきき乍ら、おれは、  ——これで、江戸はわがものだ!  と、にんまりしたことを忘れはせぬ。  四  おれは、二十一歳にして、乾分《こぶん》三百人を擁したものだ。  町奴の仕事といえば、大名屋敷へ中間《ちゅうげん》人足を周旋することだが、おれは、御用達《ごようたし》などにはならなかった。おれは、町人の味方だ。  京の都とちがって、江戸は、これから、なんでもかでも、新しく造るのだ。まず第一が、寺院堂塔伽藍だ。これを、次から次に造るのだから、請負がたは、目のまわる忙しさだ。猫の手でも借りたい人手不足だ。そこに目をつけて、おれは、江戸中の請負人足を、一手におさえてやったものよ。  おれの声がかからなけりゃ、神社仏閣の屋根はあがらねえ、という次第に相成ったから、こたえられねえ話よ。  三百人の乾分が、それぞれ十人、二十人、多いのは五十人もの手下をかかえることになったのだから、公儀はじめ大名衆が、おれの機嫌をそこねたら、なんの工事もはかどらなくなる、というしまつだ。  公儀、大名衆に、むこうから頭を下げさせてこそ、豊臣秀頼の忘れ形見としての面目も立つというものよ。御用達になって、ぺこぺこするなんざ、真平ごめんを蒙らせてもらうのだ。  こうして、男伊達幡随院長兵衛の名は、うなぎのぼりに、のぼりつめたわな。なにしろ、遊里、芝居小屋、岡場所などの糞虫は、片っぱしから踏みつぶし、旗本奴には、真っ向からたてついて、強きを挫いて弱きを扶ける任侠を題目にして、往来を練り歩いたおれだ。どんな喧嘩でも、幡随院の名さえ出しゃ、鶴唳《かくれい》の一声というやつで、ピタリと止まるあんばいだ。  なに、おれの乾分に、乱暴者がいなかったわけじゃねえ。酒ぐせのわるい野郎もいたし、娘を手ごめにする奴もいたが、こやつらの腕をぶった斬って、詫びに行かせるおれの掟の厳しさが、かえって大江戸の衆望を一身に集めることになった、と思ってもらおう。  任客とはこういうものだ、とおれがつくってみせてやったのだ。  おれは、乾分たちに、弱い町人たちをちょっとでもいためつけたら、生命《いのち》はないものと覚悟しろ、そのかわり、対手が武家なら、どんな乱暴を働いても、あとのしりぬぐいは引受けてやる、と云っておいたのだ。  浅草組と称《とな》えるおれの一党が、やがて、真正面から、ぶつかったのは、旗本三千石水野十郎左衛門を頭領とする白柄《しらつか》組だ。  白柄組には、加賀爪甲斐守(一万石)、阪部三十郎(五千石)も荷担して居ったし、金時金左衛門ら、四天王の剛の者が揃って居った。  この白柄組と真正面からぶっつかるのは、おれののぞむところだった。旗本奴の組は多かったが、水野十郎左衛門は、抜群の豪傑と名高かったし、世人の目を見はらせる奇矯きわまるその振舞いが、おれには、気に入っていた。  一月の間、昼を睡って、夜を起き通すとか、一党が集ると、夏は、戸障子をしめたきり、屏風をたてまわし、大火鉢をかこんで、小袖三四枚重ねた上にさらに掻巻《かいまき》をまきつけて、熱い饂飩《うどん》をむさぼり食うとか、冬には、その反対に、庭に水を打たせ、戸障子を開け放って、帷子《かたびら》一枚をくつろげて、扇をつかい、冷水を飲んで冷素麺《ひやぞうめん》に舌つづみをうつとか。また、その料理の献立には、土竜《もぐら》の汁、蟇《がま》の鱠《なます》、蛇や鼠の蒲焼、蚯蚓《みみず》の塩辛、百足虫《むかで》の吸物など。酒は、いずれも斗酒なお辞せず、泥酔すれば、処かまわず路傍にころがって、星にさらされ乍らねむる。  さらには、新仏《にいぼとけ》の墓をあばいて、その屍体を一夜抱いて、度胸だめしをするとか。寺院の五重塔から、綱一本にすがって、すべり降りるとか。厳冬に隅田川の上に、筏を組み、素っ裸になって、竝び寝るとか。あるいはまた、万石以下の士は、騎馬や駕籠の登城を禁じられるや、かれらが親方と仰ぐ大久保彦左衛門を、行水盥に乗せて登城させてみたり、やること為すこと、世人の意表を衝くおもしろさは、おれにも、大いに気に入っていたのだ。  水野十郎左衛門の白柄組とおれの浅草組が、いずれは、血煙りあげて大喧嘩をするであろう、とは江戸の口さがないおしゃべり雀のしきりに噂するところだった。  おれが、十郎左衛門とはじめて、顔を合せたのは、吉原の廓に於てであった。  十郎左衛門が遊んでいる揚屋《あげや》井筒屋に、偶然、おれがあがったところが、十郎左衛門から招きがあった。  おれは、即座に応じた。  廓の中で、白柄組の頭領と、堂々とやりあえば、忽ち江戸中へ噂をひろめることになるのだ。  おれが、座敷に入ってみると、大夫も幇間も新造も禿《かむろ》もいなかった。そのかわり、多数の色若衆が、あでやかな衣裳をまとって、女子よりもなまめかしい風情で、旗本奴どもに、酌をして居った。  その中で、秀色とみえた一人の若衆めが、まず、うやうやしく盃を、十郎左衛門に捧げておいて、次に、おれに酌をしたが、その態度のそっけなさは、あきらかに、おれをむかっ腹立てさせるものだった。  おれは、さがろうとする若衆の手くびを、むんずと掴んだ。 「おい色子! 何事も、第一番を外れたことのないこの幡随院が、客であるにも拘らず、さし置かれて、招じたあるじの水野十郎左衛門様の方へ、酌《つ》がせたのは、どういうわけだ? てめえ一存で、水野の旦那の顔色をうかがって、媚《こび》を売りゃがったのなら、てめえこそは、襟もとへくっついた尾籠《びろう》な虱《しらみ》ということになるぜ」  せせら嗤《わら》い乍ら、罵倒してくれると、一座は、にわかに、水を打ったように、しーんとなり居った。  ここで、十郎左衛門が、がなり立てれば、場所柄をわきまえぬ無粋者ということになるのだ。  流石は、十郎左衛門だった。  呵々《かか》と大笑するや、 「この水野ほどの乱暴者の前を憚らず、色子を叱咤するとは、やはり、江戸町奴の随一を誇る浅草組の首魁たるに愧じぬ侠客だ。おもしろい。わしから、盃をくれてつかわす」  と、云い居った。 「有難う存じます」  おれが、両手をつかえて待っていると、何事ぞ、十郎左衛門め、その若衆に、袴をぬがせ、裳裾をはねあげさせて、四ン匍いを命じたではないか。 「よいか、色子、盃を落すな」  十郎左衛門は、朱の大盃を、むき出された若衆の丸く白い臀部の上へのせると、 「さ、江戸一番の男伊達のところへ、遣《つか》いじゃ。ゆっくりと、這うて参れ」  と、命じ居ったわ。  若衆め、得たりとばかり、薄ら笑い乍ら、そろそろと、匍匐して来るや、 「浅草組の親分様、どうぞ、召上られませ」  と臀部を、ぬっと、おれの鼻さきへ、突き出し居った。  ここで、憤然と座を蹴れば、こんどは、おれの方が、無粋とあざけられる。  おれは、わるびれず、うやうやしく盃を両手に把って、ひと息に、のみ干した。  それから、 「されば、返盃をさせて頂きやしょうかい」  と、別の色子に、なみなみと注がせておいて、おれは、大胡坐をかき、グイと犢鼻褌《ふんどし》をひっぱずして、股間の一物を露わにするや、ひとしごきで、みごとに怒張させたものよ。  その頂きへ、ピタリと盃をのせるや、 「水野の殿様へ——へい、ご返盃!」  と、叫んでくれた。  これには、十郎左衛門も血相を変え居った。 「長兵衛! 素町人の分際で、旗本|布衣《ほい》のわれらに対して、返盃とは無礼であろう!」  いまにも、抜き討ちかねまじい気勢を張り居った。  おれは、にやりとして、 「これは、異なことをうけたまわります。ここは、大名衆も、おもてを包んで、遊冶郎《ゆうやろう》と化す傾城《けいせい》町にございます。ひとたび、ここへ足をふみ入れれば、大名も旗本も百姓町人も、分けへだてなく、ただの遊客。昨夜、旗本衆の伽をした女郎は、今日は、町人と枕をならべて寝てなんのふしぎもありはせぬ。座敷構えも、大名の間《ま》、町人の間と、別にしてはありますまい。されば、座興に趣向をこらすのに、なにも、身分の分けへだてをしてみたところで、はじまりますまい。頂いた盃をお返しするのは、客の作法と申すもの。これを拒絶なさる方が、無粋かと存じまする」  とうとうと述べたててくれた。  十郎左衛門も、そう云われれば、受けぬわけにはいかなかった。 「よし、受けてくれる。寄越せ」 「忝う存じます」  おれは、その場を動かず、からだも、動かさなかった。  ただ、ひと息、「うお!」と気合を発した。  盃は、生きもののように、宙を飛んで、十郎左衛門の右手に落ちたわ。  一物が物をとばす秘術も、神鴉党忍法が、教えてくれたところだ。  一同が、あっけにとられて、声もない隙に、おれは、さっと身づくろいをして、 「御免!」  と、座敷を立去っていたものだった。  五  さて、そのあとの白柄組との正面衝突は、そうよな、思い出すぜ、舞台もおあつらえ向きの木挽町《こびきちょう》の芝居小屋だったわい。  旗本奴大久保彦六の行状をそっくり芝居にした「市野谷関路風呂」という二番狂言が、大当りをとっていたっけな。  旗本奴のことを芝居にしているのだから、白柄組はじめ、旗本奴組が、総見しない筈はねえ。  派手にくり込んで来たのは、やはり水野十郎左衛門だった。桟敷七間に、水野が定紋の沢潟《おもだか》を白く染めぬいた緋縮緬の幕を張ったごうぎさだ。  十郎左衛門は、金襴できりかえした紙衣《かみこ》の上に、縞天鵞絨《しまびろうど》の袖なし羽織をまとい、花かいらぎの太刀を佩び、金の角鍔《かくつば》をキラキラさせているいでたちよ。その左右には、いずれも金紙平元結《きんしひらもとゆい》で髪をむすんだ振袖若衆が、ずらりと居竝び、もちろん、同伴の旗本奴どもも、各自伊達装束をこらしていたわさ。  ちょうど、狂言が、見物衆に固唾をのませる場面に来ていた時だ。一人の見物人が、半畳売にたのんで、すし詰めの土間へ、のし込んで来た。  江戸の芝居小屋に入った者でなくては、知るめえが、地べたに半畳の筵を敷いて、座料とするのだ。半畳売は、芝居者根性で、気が荒っぽく、すぐ見物人と喧嘩をしたものだ。  恰度あいにく、半畳売から、むりやりに、膝を押しあげられて、割り込まれようとしたのが、おれの乾分の雷十五郎という短気者だった。 「何をしやがるんでえ!」  雷十五郎が、目をひき剥いて呶鳴ると、半畳売は、にやにやして、 「ここは、芝居小屋だ。往来のように、肩肘を張ることは許されねえ。わるくのしゃ張ると、表へつき出すまでよ」 「おう、大層もなく、ほざいたな。雷の十五郎を、突き出せるものなら、出してみろ!」  十五郎は、立ち上って、半畳売の胸ぐらを掴んだ。  すると、近くの筵から、浪人ていの男が、 「町奴面が、笑止千万!」  と、喚いて、見物人の膝や肩をふみ越えて、十五郎に、突進して来た。  一瞬にして、場内は、騒然となった。  町奴が浪人者と、とっ組むや、忽ち、素首《すこうべ》を掴《つか》んでねじ伏せるさまを桟敷から眺めた十郎左衛門が、 「しずまれっ!」  一刀流鍛えの一声で、場内を制しておいて、 「ここに、天下の旗本水野十郎左衛門が、見物いたして居るのだぞ! 町奴め、ひかえろっ!」  と、叱咤したものだ。  それと同時に、傍の金時金左衛門が、桟敷から、飛び降りた。  十五郎が、ひるむところを、とりおさえて、馬乗りになった金左衛門が、 「芝居をはじめい。この下郎は、それがしが、表へつき出してくれる」  と、得意げに、うそぶいた。  その折だ。  四五間へだてた場所から、六尺の巨漢が、ぬっと、立って、見物人を押しわけて、金左衛門に近づいた、と思ってもらおう。  他の何者でもねえ、この幡随院の長兵衛が、乾分の危急を救いに、姿を現したのよ。  見物衆が、どっとはやしたてたのは、云うまでもねえ。  貫禄の相違だ。組打ついとまもくれやしねえ。おれは、赤子の手をねじるように、金左衛門めを、足下に折り敷いて、どっかとばかり、その背中に大胡坐よ。 「上は、梵天|帝釈《たいしゃく》、地は金輪奈落までご存じの幡随院の長兵衛でございまする。喧嘩の仲買いは、おのが本業——神祇《じんぎ》組でも、白柄組でも、半畳にお敷き申しやしょう」  大音上《だいおんじょう》で、呼ばわってくれた。  この時すでに、見物席には、唐犬権兵衛、放駒四郎兵衛、大仏勘三、小仏小平、三婦弥平らが、仁王立ちになって、もの凄い形相で、桟敷を睨みつけていたのさ。  見物人は、もう、どっと雪崩をうって、逃げ出そうとして、場内は、鼎《かなえ》の沸くような大騒ぎだ。  こうなってみると、流石の十郎左衛門も、もうどうにもならねえ、ただ、案山子のように立往生しているばかりだったわな。  そこまで喋って、髯むくじゃらの巨男《おおおとこ》は、両手をたかだかとさしのべて、大きく背のびした。  三宅島の南岸、波涛の打ち寄せる断崖ぶちであった。  髯男の前には、数人の流人が、熱心に、耳をかたむけていた。髯男の流人衣はま新しく、聴き手たちの流人衣は、もうボロボロであった。 「さて、おれが、いよいよ、十郎左衛門の招きに応じて、水野邸へ、乗り込むくだりだが……」  そう云いかけた時、一人の流人が、いつの間にか背後に近づいて来ていて、 「おい、お前さんが、幡随院長兵衛か」  と、声をかけた。 「そうだ」 「そいつは、おかしい」 「なにが、おかしい?」 「幡随院長兵衛は、水野十郎左衛門の屋敷で殺された筈だぜ」 「どっこい! 長兵衛は、ここに、立派に生きているぜ。おれが、水野屋敷で死んだ、と世間に思わせたのは、わけがある。まあ、きいてもらおうか。……そうだ、長いあいだ、この島にいる連中は、知るまいが、二年前に、江戸の市中が、焼野原になる大火事があったのよ。振袖火事と称ばれてな」  男は、話しはじめた。  明暦三年正月十八日、その日は、夜明けから、物凄い烈風が吹きつのっていた。  当然、江戸の人々は、火事を心配した。  はたして、大火事が起った。火元は、本郷丸山の本妙寺であった。  後日になって判ったことだが、一種の因果物語から、この火は発したのである。  本郷のさる大|店《だな》に、本郷小町と呼ばれる美しい娘がいて、降るような縁談の中から、ある若者が聟にえらばれた。  この婚礼にあたって、娘は、羽織る打掛に、特別の好みを出した。いずれの呉服屋に尋ねても、気に入る品が見当らず、そのために、婚礼の日がのばされた。  ようやく、京の古着屋で、娘の欲する打掛が発見されて、法外な値段で買い求められた。ところが、娘は不幸にして、その時、喀血して、縁談はこわれてしまった。  娘は、それなり、牀から起き上ることが叶わなかった。その葬式にあたり、婚礼の晴衣になるべきであった打掛で、棺を掩うて、菩提寺の本妙寺へ送られた。  本妙寺の住職は、欲深い坊主であったので、その打掛があまりに見事なのを眺めて、遺骸とともに土中にしてしまうのが惜しく、ひそかに剥いで、古着屋へ売ってしまった。  ところが、その後間もなく、檀家の娘が病死して、葬式が本妙寺で営まれたのが、偶然にも、棺を掩うているのは、例の打掛であった。  住職は、再び、それを盗んで、別の古着屋へ売り渡してしまった。  すると、それから、一月あまり後、ある商家の若い内儀の棺が、送られて来たが、住職は、一瞥して、戦慄した。またもやその打掛が、かけてあったのである。  住職も、ここではじめて、本郷小町の執念を思いやって、打掛を、本堂裏の空地で、回向の上、焼きすてようとした。  と——そのとたんに。  凄じい旋風が吹きつけて来て、燃える振袖は、宙高く舞い上り、本堂内へとびこみ、忽ち、堂宇を火焔に包み、それが、飛火に飛火して、江戸中を、紅蓮《ぐれん》舌の巷《ちまた》にしてしまったのである。  火は、翌日まで燃えつづけ、ついに、江戸城郭内へ及んで、天守閣、本丸、二ノ丸を、ひと舐めにした。  三日二夜の火がおさまると、こんどは、はげしい吹雪が江戸を銀世界にし、避難した人々の多くを、寒さと空腹で、斃《たお》した。  火と雪で仆《たお》れた死骸は、五日間もかかって、本所の一地所へ運ばれて、埋められたが、その数は十万八千とかぞえられた。 「振袖火事——とはよう名づけたわ。したが、一枚の振袖が江戸城はじめ、市中全域を焼きはらうなど、あり得ることか。実は、仕掛があったわな。この幡随院長兵衛が、神鴉党忍法を用いて、燃える振袖を魔神のように、空を翔けさせてくれたのだ。……なぜ、江戸を焼いた、ときくのか。左様、おれは水野屋敷で殺された、とみせかけて、いったん姿をくらました。ところがどうだ。おれが亡くなると、江戸の町人どもは、てのひらをかえしたがごとく、町奴をさげすみ、毛虫のように嫌いはじめたではないか。それとみて、公儀は、町奴たちを、片はしから一網打尽に召捕って、打首、獄門に曝《さら》し居った。旗本奴も、水野十郎左衛門はじめ、一味徒党のこらず、詰腹切らされてしまった。……奥羽から、蝦夷《えぞ》に渡って、のんびりと長旅をしてもどって来たおれは、心中期するところがあったのだ。それが、振袖火事になった、という次第だ。その大悪人のおれが、ほんの些細な罪で捕えられて、こうして遠島になっているのだから、世の中は面白い仕組になっているものよ。はっはっは……」  蜀山人《しょくさんじん》  一  世は、田沼意次《たぬまおきつぐ》の時代であった。すなわち、前代未聞の賄賂公行時代であった。 「江都聞見集」に記すところによれば、 『主殿頭《とのものかみ》(意次)常に云えるは、金銀は、人々の生命にも代え難きほどの宝也。その宝を贈りても、御奉公いたし度しと願うほどの人なれば、その志、上に忠なること明かなり。志の厚薄は、音物《いんもつ》の多少に現るべし、と』  というあんばいであったから、田沼邸には、金銀珠玉はいうに及ばず、ありとあらゆる異国の珍品までが集っていた。  羽州山形の藩主坂井永朝は、 「田沼家にないのは、戦場の血のついた武具だけであろう」  と、云った、という。  オランダの商人さえも、日本では七曜の模様のついた品物が、高い価をよぶ、と知って、本国で、その模様のついた織物を織らせて、運んで来たほどであった。田沼家の家紋が七曜だったからである。  伊井直幸は、大老の職にありつくために、田沼意次に、途方もない珍品を贈った。  方九尺の石台に、山家の秋景を模して造ってあったが、その草庵は、屋上を小判で葺き、室内は窓、戸ぼそ、板壁などのたぐいを悉く金銀幣でよそおって飾り、庭の立石敷石を豆銀でつくってあった。のみならず、庭さきには、青茅《かりやす》を数株植え、その蔭に、生きている猪の子を、銀鎖でつないでいた。  京都所司代から、意次に贈られたものに、京人形一箱というのがあった。箱の中には島原の大夫の中でもひと際ずばぬけた美女が、島田髷に、緋鹿《ひが》の子《こ》の振袖をまとって入っていた。  権門主人が、それほどの賄賂《まいない》好みであれば、しぜん、その属僚、家臣も、それにならうのは、人情であった。  勘定奉行・松本伊豆守など、虎の威を借る狐であった。その屋敷には、夏は廊下の左右につらなる小部屋に、打通しに蚊帳を吊って、各部屋毎に妾を臥さしめ、夜中に、蚊帳の中に入れば、どの部屋へも、すぐに行けるように趣向をこらしていた、という。  当然、役人の間には、古参と新参の懸隔がはなはだしくなり、新任の士は、先祖伝来の家宝を売りはらっても、古参の士に、音物《いんもつ》を贈らねばならず、その多寡によって、その職が無事に務められるか否か、が決定した。  また、堂々たる大国の藩主さえも、殿中の御坊主の輩《やから》にまで贈賄しておかぬと、登城の際は、進退の妨げを与えられて、千代田城内で赤恥をかかされる危険があった。  こういう時世になれば、本気になって、弓馬剣槍の術など学ぶ者はいなくなった。武道の真髄は、どうやら、どこかへ没却してしまった。  滅茶滅茶に、三味線が流行り出していた。  直参《じきさん》・陪臣・定府《じょうふ》・国詰との別なく、さむらいたちは、三味線をひきはじめていた。旗本たちは、歌舞伎芝居に夢中になったあまり、屋敷で素人狂言を企て、女形・立役の奪いあいをやった。  近年多いものは、  つぶれ武士、乞食旗本、火事夜盗、金貸し、座頭、分散の家  近年無きものは、  御上洛、社参、猪《しし》狩りに敵討ち、金を使わずなった役人  この二首の落首が、世相を云い尽していた。  こうした世相の中から、公儀、金持ちたちをおびやかす反逆児が出現したとしても、ふしぎはない。  貧しい庶民たちが喝采する痛快な人物が、神出鬼没の活躍をはじめたのは、伊井直幸が稀代の珍宝を田沼意次に贈って、大老職に就いた頃であった。  すなわち、 「自来也」  と称する怪盗であった。  二  春もたけなわの午《ひる》さがり——。  愛宕下のにぎやかな往還の片側に、ずらりとならんだ古本の露店を、一軒一軒のぞき乍ら、ゆっくりと歩いてくる武士があった。  髷《まげ》があるかないかほどの豆本多《まめほんだ》に、眉を上下より剃り込んで三日月のように細くして、しかも、うっすらと化粧し、浅黄羽二重をぞろりと着流したいでたちは、当節の代表的な遊冶郎姿であった。歌舞伎役者|宛然《さながら》の、鼻もちならぬそれが、いかにもよく似合っている際立った美男ではあった。  直参、小普請組頭、百五十石——大田直次郎。南畝《なんぽ》と号し、別に蜀山人《しょくさんじん》、杏花園《きょうかえん》、四方赤良《よものあから》、桜山人、石楠斎《しゃくなげさい》など、やたらに号をつくり、いま、狂歌・戯文《げぶん》をもって、江戸文壇を圧している男であった。  勿論、古本屋たちとは、顔馴染である。  無駄口を交し乍ら、ひとわたり見てあるいてから、いちばん端の、駄本ばかりならべている店のわきの床几に腰を下した。その店の親爺がさがして来る駄本を、蜀山人は、気に入っていたのである。  親爺と世間話を交していると、かなり足のふらついている酔漢が、ふらりと前に立った。  一時代前の野暮な恰好をした大兵の武士であった。 「おいっ、なんだこの店は! 大学と春本をならべているとは、何事だ!」 「へえ、どちらも、本でございますのでね」 「ふざけるな! 大学は、修身治国を説いて、千年の後にいたるも廃《すた》らざる要書だ。春本は、なんだ! 婦女子にたわむれ、淫を惹起し、人道を破壊する駄書だぞ。しかるに、大学に、七十一文の値札をつけ、この春本に九十文の値札をつけるとは、なんたる不埒か!」 「そんなことを仰言いましても、てまえは、あきないをして居りますのでね、よく売れる方へ、高い値をつけるのは、人情でございましょう」 「許さん! 断乎として、許さん! 値札をとりかえろ!」  武士が、春本の値札をひきむしろうとして猿臀《えんび》をのばしたとたん、銀ぎせるがすっとのびて来て、雁首を、手の甲へつけた。 「熱っ!」  かっと目をひき剥いた武士は、蜀山人を睨みつけて、 「おのれ——癩患《かったい》眉め! 立て! 擲《なぐ》り仆してくれる!」  と、喚いた。  蜀山人は、笑い乍ら、 「お手前は、管子《かんし》のことをご存知じかな?」  と、問うた。 「なに? 莫迦にするな。管子ぐらいを知らんで、どうする、斉《せい》の桓公《かんこう》を佐《たす》けて、諸侯に覇たらしめた傑物だ。富国強兵を劃した経世家だ。その管子がどうした?」 「倉廩実《そうりんみ》ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る——管子は、そう申して居りますな。王道政治を鼓吹した孔子も、管子の頭脳には、敬服いたして居ります」 「それが、どうしたというのだ?」 「街に、廓を設け、傾城を置いたのは、管子をもって、嚆矢《こうし》といたす。すなわち、その夜合の資を徴して、もって国費に充《あ》てたのでござるな。公娼を奨励して、売笑税を取りたてた智慧は、相当なもの。これが、ちょうど、わが国の神武天皇紀元元年にあたるから、面白い」 「ふん」 「管子は、国が平和になるや、自ら、筆をとって、閨房の秘戯を記して、庶民にくばって居りますな。春本もまた、国を富ませる一手段——」 「うるさいっ!」  武士は、いきなり、抜きつけに、蜀山人へ、一閃をあびせた。  ところが——。  呻きを宙に撒いて、のけぞったのは、武士の方であった。  蜀山人の方は、依然として、床几に腰をおろしていた。ただ、その右手には、古本の塵払いのはたきが持たれていた。  路上にぶっ倒れた武士の右眼から、みるみる血汐が噴いた。  この光景を、すこし離れた点から、じっと見戍《みまも》る者があった。  南町奉行所の与力鈴木文八郎であった。蜀山人とは、狂歌づくりの仲間で、かなりふるくからの懇意であった。 「……あの迅業《はやわざ》は、ただ修業では、成らぬ」  文八郎は、呟いた。  三  鈴木文八郎が、本所南割下水の蜀山人の屋敷を訪ねたのは、それから三日ばかり置いてからであった。 「一昨夜の狂歌座には、あいにく野暮用で、出席でき申さなんだが、先生が、かずかずの秀歌をものされた由、あとで、うかがい申した。   さわらびは、握りこぶしをふりあげて、    山の横つら、春風ぞ吹く  この歌には、思わず、唸り申した。  また、   生酔いの礼者を見れば、大道を、    横筋かいに春は来にけり  これなども、好きでござる。  そのうちに、ゆっくりと、先生のお手直しを受けたいと思い乍ら、つい、野暮用にとりまぎれて、その時間がござらぬ。今日も、その野暮用で、ご相談に伺ったようなわけで……」  懇意ではあったが、鈴木文八郎がこの屋敷を訪ねて来たのは、はじめてであった。  文八郎は、家にいても薄化粧をしている蜀山人の風流面を、しかし、今日は、別の目で、観察していた。 「うかがいましょう」  蜀山人は、べつに、なんの警戒をする風もない。  浄窓にむかって据えた経几に、枡目の紙をひろげ、その上に、大小無数の銀製の象をならべて、しきりに動かしている。  警戒をするなら、この夥しい書籍を積んだ書屋に、与力などを通しはすまい。  ——おれの想像がはずれているのかな?  文八郎は、思い乍ら、 「実は、ほかのことではござらぬ。昨今、市中をさわがせている自来也の件でござる」  と、きり出した。 「自来也」と称する怪盗が、江戸の街衢《ちまた》に出没しはじめたのは、半年ばかり前からであった。  庶民たちは、「自来也」を、義人とこそ呼べ、誰も、盗賊あつかいをしていなかった。  庶民の味方として、文字通り溜飲の下がる、胸のすくようなやり口が、庶民たちをして、待ちのぞんでいた英雄が出現したように、喝采させたのである。  最初の出現は、去年の師走のなかば、初雪が降りつもった朝であった。  永代橋に近い佐賀町の炭問屋「大隈屋」の店さきに、山岡頭巾をかぶった立派な武士が馬を乗りつけた。一瞥《いちべつ》して、旗本でもよほどの大身《たいしん》と受けとれた。黒羽二重の紋服をつけた姿に、気品がこもっていた。若党二人をしたがえていた。 「大隈屋」は、公儀御用達で、江戸城大奥の炭を一手に納入している問屋で、そこいらの炭屋とは、比較にならぬ大店であった。将軍家が使う炭ともなれば、厳重に吟味され、「大隈屋」には、河内の横山白炭、和泉の鍛冶炭、摂津の一庫炭など、一俵が一両以上もする高価な炭がとりそろえてあった。  金持や通人たちは、客をもてなすのに、 「これは、大隈屋の榾炭《かくい》です」  と、自慢したものである。  あるじが、出迎えると、武士は鷹揚に、 「この突然の雪で、貧家の者どもは、さだめし寒さに耐えがたい思いをしているであろう。実は、それがしの始祖は、雪中の戦さに、東照権現様(家康)を背負うて、敵地を脱出した功によって、八千石の旗本におとりたてに相成って居る。されば、雪の日に、多少のほどこしをするのが、家代々のならわしになって居る。ここら一円の貧家に、炭を配ってやりたいと思う。貧家の数は多いほどよい。代金は高くともよい。只今、支払っておこう」  と、申し出た。 「ご奇特のことに存じます」  あるじは、江戸城ならびに大名旗本屋敷へ納入する分を除いて、倉に積んである炭を悉く配ることを約束した。  それは、五百軒以上の貧家を、充分にあたためることのできる量であった。  武士は、代金を即座に支払っておいて、立去った。  大隈屋では、人足を集めて、日暮れがたまでに、一俵のこらず配り了えた。せっかくの奇特のほどこしなので、一刻もはやく、貧しい人たちを悦ばせてやろうと、店中総出で働いたのである。  おかげで、その夜は、あるじをはじめ、一人のこらず、前後不覚にねむってしまった。  騒動は、翌朝起った。  あるじの居間の床の間には、壁に、秘密の金庫が填込《はめこ》まれ、掛物でかくされていた。その金庫に、武士が支払った代金が、臨時に入れてあった。  朝食後、あるじが、その金子を、倉の千両箱に移すべく、金庫の中を調べたところ、煙のように、消えうせていたのである。  その代りに、一枚の紙がのこしてあった。 『貧民へほどこしのこと、奇特に存じ候。貧民に代っておん礼申上候、自来也』  そう記されてあったのである。  成程、炭代金が奪われれば、大隈屋は、五百軒の貧家へ、炭をほどこした結果になるのであった。  被害を蒙ったのは、大隈屋だけではなかった。  江戸には、各地域に、大きな炭問屋が七軒あったが、それら七軒ともに、全く同じ手口で、してやられたのである。  それにしても、一夜のうちに、七軒の大店に忍び入って、渡しておいた代金を、掠め奪って去るという手練は、まことに水際立っていた。  小面憎いのは、自来也がおのれが渡した代金以外には、一切手をふれていなかったことである。  すなわち。  自来也は、欲深な商人たちに、ぼろ儲けの罪ほろぼしに、ほどこしをさせてみせたのであった。  突然の初雪に襲われた日に、追善供養として、貧者に、炭を配る。この名目は、乗せられない商人は、いない。代金は前払いなのである。  商人というのは、儲けた大金を、すぐに倉の奥深くにしまわないで、一夜や二夜は、おのが居間に置いているものだ、ということを、ちゃんと知っていて、仕組んだ芝居であった。その日を、目のまわる忙しさに追いたてて、疲れはてさせておいて、悠々と忍び入るという計算も巧妙であった。  いわば、大変合理的な手段であった。盗んだのではなかった。商人に、ほどこしをさせたのである。  この手口は、幾通りでも、応用がきいた。  正月某日、浅草寺に、蔵前の札差とだけ云って、名前を打明けずに、小判供養をいとなみたいという申出があった。そして、その前日になると、寺へ、多額の金子が届けられ、浅草一円の子供たちに菓子を配って欲しい、という。その菓子屋が指名されてあった。  指定された菓子屋は、「鈴木越後」であった。「鈴木越後」は、老中田沼意次の愛顧する店で、大名旗本が、小判をひそめて賄賂する菓子は、必ず「鈴木越後」のもの、ときまっていた。  そのような高直《こうじき》の品しかつくらぬ店の菓子を、貧家の子供たちに、与えるのは、まことにもったいない話であったが、指定されて、多額の金子が届けられた以上、寺側としては、「鈴木越後」に、注文しないわけにいかなかった。 「鈴木越後」では、ほどこし菓子ときいて、しぶったが、ほかならぬ浅草寺からのたのみなので、承知した。  子供たちに呉れるといっても、どうせ、親たちが一生一度口にできるかどうかわからぬ菓子なので、目の色を変えるに相違ない、とわかっていれば、品質をおとすことはできなかった。  徹夜で、多量の菓子がつくられ、翌朝、寺へはこび込まれた時には、すでに、大人つき添いの子供たちの行列は、本堂から蜿蜒と、雷門をくぐって、広小路をつききり、大川橋の袂までつづいていた。  ようやく、その行列がなくなった頃、「鈴木越後」に、一人の使いが、封書を持って来た。  披《ひら》いてみて、あるじは、仰天した。 『貧家の子らへ、おめぐみ下され、幸甚この上も御座なく候、自来也』  あるじが慌てて、居間の金箪笥《かねだんす》を調べてみると、菓子代として届けられた金子は、消えうせてしまっていた。  こうなると、強欲だとか、悪どく儲けすぎているとか、公儀の権勢に便乗しているとか、とかくの評判のある商人達は、おちおち枕を高くして寝られなくなった。  最も安心できる代金前払いの大口注文が、最も怪しい、ということになれば、商人たるもの、そのような注文のあるたびに、疑惑を抱かねばならぬ。  世はあげて賄賂公行時代であるから、途方もない金高の注文が来る。  それをいちいち、たしかかどうか調べるのは、まことに厄介だし、対手が武家では、調べるてだてがむつかしいし、うっかり調べたことが判明すれば、出入さし止めをくらうおそれがあった。  自来也が、いかにも、公儀要職にある人物を装って、出現するのだから、しまつがわるいのであった。  公儀要職にある人物に対して、聊かでも、疑惑を抱く態度をみせれば、忽ち、どんな咎めを受けるか、知れなかった。  庶民たちからは、 「てめえンところで、そう欲張りやがると、自来也様が、おいであそばすことになるぜ」  と、脅されることになった。  事実、庶民の恨みを買った商人たちは、つぎつぎと巧妙な手口で、大きな被害を蒙ったのである。  こうなると、苦境に追い込まれたのは、町奉行所であった。大商人たちの歎願で、評定所から、一日も早く、自来也を捕縛するよう厳命を下されたものの、いかに躍起になっても、この捕りものに対して、庶民が全くそっぽを向いてしまっていては、聞き込みのすべがなかった。  鈴木文八郎は、南町奉行から、自来也捕縛の責任を負わされている与力二十五騎の支配役であった。  四 「自来也と申す曲者、いかなる素姓の者か、どこらあたりにひそむか——全くもって、見当もつかないのでござる。面目次第もないこと乍ら、われわれの職務怠慢と申すよりは、自来也の神出鬼没ぶりに、軍配を挙げるべきであろうか、と存じます。……ついては、先生に、自来也捕縛に、何か手段はないか、おうかがいしたいのでござる」  そう願って、文八郎は、じっと蜀山人を見戍った。  蜀山人は、大小無数の銀象の群を、枡目の盤上に、うごかしつづけ乍ら、 「お手前は、自来也捕縛の智慧を、ほかに、どなたかに、借りられたか?」  と、訊ねた。 「平賀源内先生に、うかがってはみましたが……」 「源内殿に、何かいい智慧がござったかな?」 「源内先生は、自来也をおびき寄せるには、カラクリでも作って智慧くらべをせずば叶うまい、と申されて——」  と、文八郎は、懐中から、真四角な箱をとり出して、みせた。  サイコロを大きくしたような箱で、その六面のひとつひとつに、一から六までの数字が記してあった。 「これは、唐人が持参した秘密箱だそうでござる。どうしたらあけることができるか——そこが、智慧の働かしどころの由。つまりこれと同じ大金庫を作っておいて、自来也に、ひらかせる、という趣向でござる」 「成程——」  蜀山人は、箱を受けとって、眺めやっていたが、 「これは、数字を判読すれば、さしたるむつかしいわざではないようですな。一の字は、閂のことでござろう。一の字を横に押しやれば、門になって、開くという謎でござろう。次に、二の字は、その下を指三本で押す。すなわち、示という字になる。三の字は、どうやら、この横にある小孔から水を流し込むことらしい。すなわち、三を横から川と読む。四は、そのままに、ふれぬ。すなわち、能無しで、罷《まか》りある。五は、この下に口があることを意味しているらしい。六は、二本の線が組んである。すなわち、交となる。ざっと、こういうあんばいでござろうな」 「お見事!」  文八郎は、膝を丁と打った。 「この程度の秘密金庫では、それがしでさえも、容易に謎が解け申すゆえ、もうすこし面倒なカラクリを思案して、天下の自来也と、一番勝負を挑むのも、面白いでしょうな」  そう云ってから、蜀山人は、急に、枡目の盤上にならべられた銀象群へ、目を置いた。 「ふむ!」  蜀山人の顔に、会心の微笑が泛べられた。  文八郎は、蜀山人の先程からのその遊びが、実は、意味のあるものであったことを、はじめて、さとった。  蜀山人は、象群を敵味方に分けて、諸葛孔明の八陣の闘いをさせていたのである。  ——この男は、やはり、自来也かも知れぬぞ!  文八郎は、遽《にわか》に、おそろしい緊張をおぼえた。  大田直次郎は、明和四年に、十九歳の若さで、「寝惚《ねとぼけ》先生文集」を出して、文壇の寵児になった。  すでに、狂句を生み川柳を送り出した時世であった。  この風潮が、さらに、狂歌の流行を促し、大田直次郎は、蜀山人の号をもって、諧謔の妙才を、三十一文字《みそひともじ》の間に寓して、世をあざけり、人を弄し、奇警の用語、軽妙の表現をもって、一世に秀でた。  直次郎は、幼くして、すでに、奇矯の振舞いがあった。  夜半に、寝惚《ねぼけ》る習癖も、そのひとつであった。  添い寝の乳母《めのと》が、はっと目をさますと、しばしば、直次郎の姿が消えうせていた。  どうしたことか、乳母は、その時、中風を患ったように、身動きできず、声も立てることができなかった。そして、そのまま、不安でいるうちに、ねむってしまうのが常であった。  朝、乳母が目をさましてみると、直次郎は、ちゃんと牀にもどって来て居り、枕元には、花だとか、美しい小石などが、置かれていた。  乳母が、しらべてみると、少年の足の裏は、土でよごれていた。  訊ねても、少年自身、なんの記憶ものこしてはいなかった。 「このお児には、寝惚《ねとぼけ》の癖がおありなさる」  と、乳母は、心を痛めたが、口外はしなかった。  ただでさえ、奇矯の振舞いがある上に、夢遊病の欠陥があると判れば、祖父は、容赦せず、遠く、流人島へでも送るかも知れなかった。  そうでなくてさえ、祖父は、直次郎を、きらっていたのである。慈愛の念など、一片もそそいではいなかった模様である。  というのも——。  直次郎は、父親不明の因果児であった。  大田家の一人娘が、十七歳で、みごもったが、娘自身どうして、みごもったのか、おぼえが全くなかったのである。  父母にいくら責められても、打明けることは不可能であった。  また、父母には、深窓にはぐくんだ娘が密通男《みそかお》をひき入れたなどとは、考えられなかった。そのような機会が、ただの一度もなかったことは、父母の方が、よく知っていたのである。  賊が一夜、風のごとく忍び入って来て、よく睡っている娘を犯して、消え去った、としか考えられなかった。  娘の母は心痛のあまり、病いを得て、逝き、娘もまた、男子を出産した直後、この世を去った。  祖父として、直次郎を愛することができなかったのは、無理もなかった。  直次郎を愛したのは、乳母だけであった。ずば抜けて利発な直次郎を、乳母は、わが子よりもいとおしまずにはいられなかったのである。  やがて——  乳母は、直次郎が、夜半牀を抜け、屋敷をさまよい出てどこへ行って来るか、ようやく、さとった。  直次郎は、屋敷から一里ばかりへだたった熊野神社の境内へ、行くに相違なかった。  夜明けに、持ちかえって、枕元に置いた品は、花も石も、その熊野神社にしかないものだったのである。  乳母が、直次郎の出て行く瞬間をつきとめようとして、いかに必死になって、ねむるまいとしても、とうてい睡魔に勝てないことも、それが、熊野権現のしわざとすれば、納得できた。  乳母は、直次郎を、熊野権現の御子と、かたく信じるようになった。  直次郎は、こうして、熊野忍者神鴉党の一人の落しだねであることを、誰一人からも知られることなく、江戸のまん中で育ったのである。  忍者「鴉」は、乳母を熟睡させておいて、わが子をつれ出し、神鴉忍法を、つぎつぎに仕込んだのである。少年は、それを、夢と現《うつつ》の境で、修得していったのである。  祖父は、直次郎が十五歳で元服するのを待っていたようにして、逝った。  天涯孤独となった直次郎が、自ら進んで、神鴉忍法の修業に、毎夜、はげんだのは、それから三年の間であった。  と同時に——。  直次郎の文才は、ようやく、友人間に、驚異の的になったのである。  五  大田直次郎を、ただの狂歌師蜀山人のみにとどまらせずに、怪盗「自来也」と化さしめる覚悟をさせたのは、十八歳の春の一日の出来事であった。  その日。  将軍家重の側用人《そばようにん》に取立てられた田沼意次の行列と行き会い、その甚だ不埒な仕打ちに、直次郎は、腹を据えかねたのである。  田沼意次は、すれちがった一挺の駕籠を呼び止め、難癖をつけて、乗っていたうら若い美しい女から、衣裳を剥ぎとろうとしたのである。  どこからか手裏剣が飛来して、わが生命を狙った。そなたの仕業ではないか。  そのような難癖だったようである。  後日になって考えれば、田沼意次は、当時美女さがしに熱中していたのである。おのが色情を満足させるためではなく、大奥へ納めて、将軍家の信寵《しんちょう》を得るための道具として、必要だったのである。  大奥の局《つぼね》たちは、将軍家の歓心を買うために、えりすぐった美しい娘を、おのれの部屋に置いて、お手つき≪ちゅうろう≫にする機会を、虎視眈々と窺《うかが》っていたのである。野望の大きい意次が、側用人になって、まず、その役を買って出たのは、狡智といえた。  往還上に、稀に見る美女を発見するや、忽ち、これに咎めを負わせて、城内へひき立て、否応なく、大奥へ送り込む非常手段も、側用人の任務のひとつ、と意次は、割りきっていたのである。  その言語道断の光景を目撃して、つい、神鴉の血を継いだ若者が、心身を、はばたかせてしまった。  はじめて刀を抜いた直次郎は、あっという間に、意次の従者十数人の髷を刎《は》ねとばしておいて、遁走したのであった。  しかしこの時、直参小普請組の、きわめてまっとうな若者らしい姿かたちを、見とがめられてしまったのは、甚だまずかった。  屋敷にもどると、直次郎は、一月あまり、とじこもって、一歩も外へ出なかった。  その間に、不敵な決意が、肚裡《とり》に坐った。  その決意を実行するためには、まず、おのが姿かたちから、くらしぶりまで、変える必要があった。  すなわち。  遊惰軟弱の徒輩を代表する人物になってみせることであった。  まず、あたまを豆本多に、眉を細く剃って|かったい《ヽヽヽヽ》眉にし、薄化粧をほどこし、衣服は、竜紋、羽二重、縮緬などの、ぞろりとした絹ものの派手模様に変え、どう眺めても、堺町辺の歌舞伎役者好みのいでたちになってしまった。  皮肉にも、それが直次郎の男ぶりに似合ったために、忽ち、自ら文金風と称するその姿を、模倣する歴々の若者が、続出した。  直次郎は、さらに、その文才を、正統の学問から一転させて、滑稽洒落風刺の文章と狂歌に発揮しはじめたのであった。 「寝惚先生文集」は、そうやって生れた。  もし、直次郎が、ひそかに期していた蘭学の研究に、そのまま、まっすぐに進んでいたならば、世を風靡する大学者になっていたかも知れぬ。  寝惚先生は、大口をあけて、歪んだ世相を、嘲笑することにしたのであった。  渠《かれ》の血気をはやらせた美女狩りにしても、事実は、狩られる美女の方が、それを望んでいた、というのが真相らしい、と判明してみれば、  ——よし! おれは、おれの流儀で、世間を、あっと云わせてくれる!  と、|ほぞ《ヽヽ》をかためることになったのである。  それからの直次郎は、繊弱遊惰の風潮に、ますます拍車を加える役を買って、その功を一人占めしてみせた。  やがて、蜀山人が創案になる衣服の染色、柄合を、世間は待ちかまえるまでになった。  袖口をべらぼうに広くしてみたり、単物《ひとえもの》に黒縮緬を用いたり、三寸の大紋をつけたり、腹切帯と称する緋博多の幅二寸五分のものを締めてみたり、そのむすびかたも、御殿女中の下帯《したおび》のように、さっと後方に両端を下げる結いかたを工夫して、おさらば結い、ととなえてみせたりした。  そして、そうした直次郎のいでたちが、ばかのように、忽ち、流行したのである。  ——そろそろ、おれの真価を発揮する頃だな。  直次郎が、肚裡にかためた不敵な計画を実行に移すことにしたのは、それから、五年あまりの歳月を置いている。  蜀山人の名は、天下にひろまった。  いよいよ、直次郎は、 「自来也」  になることにしたのである。  まず渠がなしたのは、巨大な絵馬をつくって、芝神明と湯島天神の祠《ほこら》にかかげることであった。  何者が奉納したとも知れぬその二つの巨大な絵馬は、忽ち、江戸中の評判になった。  絵馬は——。  大蝦蟇《おおがま》の上に、結跏趺坐して印を結んだ、百日|鬘《かつら》の巨漢図であった。 「自来也図」  と記されてあったが、自来也とは何者か、誰も知らなかった。  ただ、そのなんとも異様な魁偉の面貌と、服装を持って、大蝦蟇上に坐った像は、一瞥しただけで、人々に強烈な印象を与えて、絶対に忘れさせぬ効果があった。  蜀山人は、おのが優姿と全く対照的な人物像を、江戸中の人々の脳裡に焼きつけておいて、いよいよ、起《た》って、怪盗となったのである。  六  秋風が、大川を渡って来て、しのび入るここは、柳橋の料亭「八百善《やおぜん》」の広間であった。  広間いっぱいに、ペルシャわたりの緋の絨毯《じゅうたん》が敷きつめられた豪奢なしつらえの会席であった。  集った面々も、江戸で自他ともに許す十八|大通《だいつう》が、一人も欠けてはいない。  そして、それら二十七人の客の前には、見事な式正《しきしょう》料理の膳が並べられているのであった。  式正とは、正式・本式の意。徳川も、この時代に下っては、もはや古式に属し、将軍家でも、正月三ガ日、節分の日、十二月二十八日の歳暮にしか、この式正料理を賜ってはいなかった。  ところが、あらゆる佳肴《かこう》を摂《と》りあきた十八大通連が、 「ひとつ、寛永のむかしにかえって、三代様が上洛されて、二条城に後水尾《ごみずのお》天皇様の行幸を仰いだ際の式正を、そっくりに再現してみようではないか」  と、相談して、早速に、八百善に、命じて、この会席をみたのであった。  饗宴は、七五三膳でと、注文受けた八百善は、流石は、江戸一番を誇る料亭であった。 本 膳 カゾウ鱠《なます》(木耳《きくらげ》、栗、海月《くらげ》、貝、海老、大根、キス)     辛坪坪煎《からつぼつぼいり》     汁(雁) 二の膳 焼物(鮭)     フクラ煎《いり》     汁(鯛塩焼き) 三の膳 散盛《ちりもり》(伊勢海老、真鰹焼き)     蒲穂《かばほ》     油貝     汁(山芋、生海鼠《なまこ》、山葵《わさび》、海苔) 向 詰 小鯛 |引 而《ひきて》 鴨焼き、キスゴ、鮎鮓 吸 物 牡蠣 同   芋巻 肴   貝田楽、アミ、海茸、結び干瓢、目指 菓子  七種  まさしく、老中田沼意次でも、これほどの式正料理を竝べたことはないであろう。  いま、ようやく、菓子が出て、膳が下げられたところで、にぎやかな雑談に入ったのである。  話題は、もっぱら男女の情愛のことに集中していた。 「……万物は、ことごとく、情に生れて、情に死ぬ、と申しますが、おもしろいものですな」  一人が、隣の者に、云いかけると、 「左様さな、動物を眺めても、鴉に反哺《はんぽ》の孝あり、鳩に三枝の礼あり、犬馬はよくその主に報い、鹿猿は悲しんで断腸し、蜂は君臣の序を紊《みだ》さず、雁は朋友の列を正し、鶏は時を告げ、鵲《かささぎ》は風を知り、蟻は洪水の来るのを予知する——まことにもって、有情あり、でげすな」 「蜀山人さん、金石《きんせき》草木に有情をみた話を、うかがいましょうか」  促されたが、末座にいた蜀山人は、 「さあ、特別に、皆さんがたをよろこばせるような話は、ありませんな。虞美人草や反魂草《はんごんそう》や愁婦草《しゅうふそう》や、秋海棠《しゅうかいどう》の由来は、すでにもうご存じでござろうし——」 「いや、愁婦草、というのは、はじめてうかがうが……」 「では、すこしお話しつかまつる。……周の戦国時代に、魏の国では、常に、泰の侵略に遇って、国境の戦いは、絶え間がなかったものです。魏の男子の殆どが兵にかり出されて、辺戍《へんじゅ》に従ったが、一旦出征すると、生きて還るものはきわめて尠かった。で——、妻たちは、良人と別れ、幾年も、待てどくらせど、一片の音信もなく——憐ム可シ無定河辺ノ骨、猶是レ春閨夢裏ノ人、というべき有様でした。……空閨に長い年月を恋いこがれて、さびしく逝った婦人たちの塚の上の木は、みな、申しあわせたように、枝葉が、良人のいる方角へむかって、なびいたのです。里人は、これを想思木と呼んで、悲しんでやった由。また、塚の上にはえた草を、愁婦草と呼んだ。これも、風にさからって、良人の方へ傾いたからです」 「うかがうが、蘭は、風韻と芳香をもって、四君子の第一にされて居るが、実は、好淫の草、という説もあるそうな。蜀山人殿、そうですかな?」 「べつに蘭の香が、欲情をもよおさせるからではありますまい。蘭の手入れは、大層むずかしいので、婦人の頭髪の梳き垢をこやしにして、婦人の柔らかな手で、葉をなでると、よく発育する、といわれて居り、そこらあたりから出た俗説でありましょう」 「懐夢草《かいむそう》、というのは、どんな花かな?」  大店の隠居が、訊ねた。 「たぶん、それは、架空の花でしょうな。蒲《がま》に似て、色はくれない、昼は縮んで地中に入り、夜は伸びて葉を生ずる、と洞冥記という本に出て居りますが、実在はいたしますまい。ともあれ、その葉を摘んで、懐いて寝ると、吉凶を験《けん》す夢をみることができる、といわれて居りますな。漢の武帝が、李夫人を慕って、、反魂香を焚いているのを眺めた東方朔《とうぼうさく》が、この草を献じて、帝をして夢裡に夫人に会わせたので、懐夢草——。後人の作り話でありましょう。このことが、本邦にあやまって伝わり、王朝の頃、女たちは、恋しい男の夢をみるために、衣の袖を裏返して寝る風習がついた。  万葉集に、   わぎ妹子《もこ》に恋ひてすべなみ白妙の     袖かへししは夢に見えきや  とあり、小野小町も、   いとせめて恋しき時はむば玉の     よるの衣を返してぞ着る  と詠んで居りますが、はたして、どんな夢をみたことか……」  蜀山人の博学ぶりは、まことに、鮮かであった。  七  ひとしきり雑談の花が咲いて、やがて、なんとはない、喋り疲れの退屈な時間が来た時、それを救うように、一人の芸者が広間に入って来た。  客たちは、目がさめたように、視線を、その芸者に、集めた。  蜀山人から、   詩は詩仏《しぶつ》、書は米庵《べいあん》に狂歌おれ、     芸者小万に料理八百善  とうたわれた、その小万であった。  眉目のあでやかさは、無類のものであった。整った造作もさること乍ら、辰巳女《たつみおんな》の気っぷを、これぐらい、いきいきと、眸子《ひとみ》にも口もとにも、あらわしている女は稀であった。  すでに数十人の芸者がはべっているにも拘らず、小万一人が入って来るや、忽ち、別の光がさし込んで来たように、ぱっとあかるくなったのである。  小万は、すす……と裾を鳴らして、まっすぐに蜀山人の前に来ると、 「めっ!」  と、媚を含んで、睨み、 「あんなばかな本をお書きになって、はずかしくござんせんか!」  と、きめつけた。  蜀山人が、ついさき頃出版した好色本は、羽根がはえたような売れ行きを示していたのである。 「ははは……、どうやら、読みふけって、夜あかしをしたようだな」 「もう、あんな本をお書きになるのは、おやめなさいまし」 「どっこい、そうは参らぬ。わたしには、好色本を書く血が流れて居る」 「ほんとでござんすか?」 「うむ、わたしの始祖は、大田越中守と申して、武勇秀れていたが、同時に、大層な極道者でもあった。世が泰平になると、もっぱら、淫本を読みふけり、春情秘戯図を聚めることに専念した。春画の中で、最も古いのは、鳥羽僧正の|おそくず《ヽヽヽヽ》の絵だが、越中守は、これを手に入れるのを一生の念願としたな。一念のほどはおそるべきものだ。とうとう、これを、ある大町人の家で、見つけた。ゆずれ、ゆずらぬ、の押問答の挙句、対手は、途法もない価格を云って、越中守を引き下らせようとした。ところが、一生の念願の品を見つけた以上、越中守が、引きさがるわけがない。家宝の甲冑を、ひっかついで、やって来ると、これと交換してくれ、と申出たものだ。東照神君の馬前で、無数の武勲をたてて、さんぜんとかがやく甲冑だったので、大町人も、よろこんで、交換してくれた。  これをきかれた三代様(家光)が、越中守をからかうために、さる正月、流鏑馬《やぶさめ》の催しに、その甲冑をつけるように命ぜられた。  越中守としては、ないものを、つけるわけに参らぬ。一計を案じて、素裸に空の鎧櫃《よろいびつ》を、背負うて、上様のおん前に伺候すると、それがしは、東照神君様がご逝去あそばした際、その馬前でつけた甲冑を再び身につけず、いざ鎌倉の際は、|ふんどし《ヽヽヽヽ》ひとつになって、戦い申そうと、ひそかに誓いをたてたことにございますれば、何卒見苦しきていをお許し下さいまするように、と願った。三代様は、越中守の苦しい弁解を、微笑できかれて、お許しなされた。  さて、その空の鎧櫃だが、甲冑の代りに、擂鉢《すりばち》と擂粉木が入れてあった。  家財道具を悉く質入れして、屋敷内にのこっているものといえば、それぐらいしかなかったのだ。櫃に重みをつけるために、やむなく、擂鉢と擂粉木を抛り込んで、越中守は、登城したのであったわな。  いざ、流鏑馬の催しに加わるや、そこは、きこえた武勇の強者だ。凄じい勢いで、荒馬を乗りこなして、百二十間の馬場を疾駆しつつ、三つの板的を、ことごとく鏑矢《かぶらや》で射破ってみせた。  ところが、その疾駆があまりに凄じかったために、肩にかけた綱が切れて、鎧櫃が、ふっとんでしまった、と思うがいい」 「まあ、それで、どうなりました?」 「地べたにころがった鎧櫃は、ぱっくりと蓋をひらいてしまった。ころがり出たのは、擂鉢と擂粉木だ」 「上様は、大層なお腹立ちだったでござんしょう?」 「さに、あらず」 「え? どうして?」 「上様は、カラカラとお笑いなされた」 「なぜでござんす」 「仰せられたそうな。その方の甲冑は、春画に化けた、と噂にききおよぶ。されば、春画が擂鉢と擂粉木に化けるのは、いささかも面妖《おか》しくはないぞ、とな」  広間は、そのオチで、どっと笑いの渦がまいた。  笑いがしずまった頃を見はからって、蜀山人は、あらたまった口調で、 「さて御一同衆に、申上げたい」  と、きり出した。 「この小万なる芸者は、われわれが知る女人《にょにん》のうち、あらゆる意味で、ずば抜けた美女であることに異存はありますまい」 「それは、云われるまでもないこと」 「およそ、美人の品目をわかつに、神品、逸品、畸品、秀品、芸品、具品の七種ありますが、まず、小万は、神品と申してもよろしかろうか、と存じます」 「たしかに、その通り!」 「但し——」  蜀山人の面上には、一瞬、氷のように冷やかな色が刷かれた。 「槿花《きんか》一日のさかえ——この美しさも、いまが盛り、まさしく、爛熟も、この一両年と申せる。いやもう、当人は、凋落のひそかなきざしを、その白い肌に、人知れず、見て居るかも知れませぬて」  きわめて残酷な言葉を、微笑とともに、小万へ投げた。  小万は、これに応えてにっこりし、 「美人、ただ十年の顔色あるのみ、舜花の艶発《えんはつ》、開き易く落ち易し——でござんしょう」 「その通り。——あまりに、美しいがゆえに老醜をさらした時のいたましさは、正視に堪えぬ。……なろうことならば、そなたを、その美しさのままに、永久にとどめておきたい、と思うのは、人情というものだろう」 「あたしは、三たび若返った夏姫《かき》じゃござんせんから、二十年経ったら、鶏の皮みたいに、皺くちゃになってごらんに入れます」  小万は、わざと、ツンとしてみせた。 「こうやって、慍《おこ》ってみせても、また別の美しさで、男の目をうばうのだから、しまつにおえぬ。……御一同衆、いかがでありましょうな。小万を、この美しさのままに、永久にとどめておく、なにか絶妙のてだてはありますまいか?」  蜀山人は、一座を見わたした。  誰も、首をひねらざるを得なかった。  古来、あらゆる目的を遂げた者でも、その老いをくいとめることだけは、不可能であった。春秋時代、晋楚《しんそ》の間に、「夏姫、道を得て、鶏皮三たび少《わか》し」という諺があった。夏姫という淫婦が、若返りの道を会得して、鶏の皮のごとく年老い荒れはてた肌を、三たびまで若返らせた、という意味である。しかし、実際には、その容色が、おとろえなかったのではなく、老婆になり乍ら、三度王后になり、七度諸侯の妻になり、九度も寡婦になったので、そんな謎を生んだのである。  美しいほど、早く散るものである。それが、運命というものである。 「それがしには、この小万を、永久にこの美しさのままにとどめるてだてが、ひとつ、あります」  蜀山人は、云った。  八 「ほう!」  一同は、好奇の目を光らせて、蜀山人を見戍った。  蜀山人がひとたび云い出したら、必ず、実行してみせることを、皆は知っていた。  去年の夏のことであった。 「小万に、帯を解かしたならば、文台《ぶんだい》飾りの玉《ぎょく》の置物を呈上しよう」  と、云い出した蔵前の札差《ふださし》がいた。  小万は、まだどの男のためにも、帯を解いたことがなかったのである。  蜀山人は、その札差の宝ものが、五百両のねうちを持つときいて、 「わたしが、帯を解かしてみせよう」  と、公言した。  十八大通連は、蜀山人と雖も、よもや小万と寝る腕前は持って居るまい、と噂しあった。男ぶり、気象、そして金、と三拍子そろった十八大通の一人が、千両箱を小万の目の前に据えて、くどいて、駄目だったのである。蜀山人は、たかが狂歌師でしかなかった。美男ではあるが、遊冶郎そのもののいでたちは、小万のような侠気のある辰巳芸者の目には、虫酸《むしず》のはしる姿であった。  小万が、蜀山人になびくとは、到底考えられなかった。  ところが、それから一月も経たぬうちに、蜀山人から、十八大通連に、 「明夜、小万に帯を解かせ申すべく、当人承諾いたし候程に、何卒御光来、おん見とどけ下さる可く——」  という手紙が配られたのである。  場所は、深川のさる料亭が、指定されてあった。  人々が集《つど》うたのは、初夏のこととて、その料亭の涼み台であった。  しばらく待たせて、蜀山人が現れた。 「蜀山人さん、もう首尾をはたしたのであれば、小万ともども現れて、小万の口から、はずかしいことを告げてもらいましょうか」  気早な一人が、所望した。  蜀山人は、にこにこし乍ら、 「小万が、ただいま現れて、その証拠をお見せつかまつる」  と、こたえた。  やがて、小万が、ひときわあでやかな装いで、姿をみせ、一同に挨拶をすませると、 「では、おのぞみによりまして——」  と云って、すらりと立つや、やおら、帯へ手をかけた。  小万結びと、世に知られた無造作な結びが、するすると解かれるのを眺めて、人々は、蜀山人に見ン事してやられたと、苦笑した。  博多献上は、足もとに、流れるように落ちた。  とみた瞬間——。  小万は、くるりと身をひるがえしざまに、稲妻あられの衣裳を、ぱっと脱ぎすてた。  燃えるような緋の長襦袢すがたが、人々の目を、思わず好色に光らせた。  小万は、その長襦袢を締めたしごきをも、解いた。  するり、と長襦袢が、肩をすべり落ちた。とたんに蜀山人の手から浴衣が抛られて、投網《とあみ》のように宙にひろがった。浴衣が、ふわりと、小万のからだにかかった時、すでに、長襦袢は、足もとに、落ちていたのである。  艶冶《えんや》な趣向とは、まさにそれであった。  蜀山人は、まんまと、玉の置物をせしめたのであった。  このような曲者である蜀山人が、小万を永久にその美しさのままにとどめてみせる、と高言したのである。人々が、思わず、息をのんだのも、むりはなかった。  蜀山人は、微笑し乍ら、 「当節、カラクリ細工中の名人と申せば、誰でありましょうな?」  と、一座を見わたした。 「それは、きまって居るわさ。技正《わざしょう》が抜群ですよ」  一人が即座にこたえた。  技正こと細工師正五郎は、三年に一度ぐらい、好事家たちを、あっと云わせる細工をつくってみせるのであった。愛宕下の裏店に独身《ひとり》住いをし、一升徳利を女房にして、一年中酔い痴れているので、ひどい貧乏ぐらしであったが、気が向かなければ、どんな高位の家からの依頼でも、首を縦には振ろうとしない名人気質であった。  同じ裏店から吉原へ売られた娘が、大夫になるや、技正は、半年を費して、いっぴきの蟹を作って、贈った。  蟹は、大夫の盃を、双の爪を挙げて受けとり、ゆっくりと横匍い乍ら、客の前へ運んでみせる芸当をみせたので、たちまち、その大夫は、大変な売れかたをみせたことだった。 「技正ならば、この小万の現身《うつしみ》をそっくり写した等身大の人形をつくり、客と盃のやりとりをするカラクリも、工夫できない筈はありますまい」  蜀山人は、そう云った。 「成程——。それだ!」  蜀山人に玉の置物を奪られた大和屋という蔵前の札差が、ポンと膝を打った。 「その人形がつくられたならば、現身の方が鶏皮に老けはてても、すこしも、かまわぬわけですて。その代金、手前に引受けさせて頂きましょう」 「大和屋さん、それは、いけない。もし出来上れば、天下無比の絶品になるものを、一人勝手に、買われてはかなわぬ。この座の誰もが欲しいところ。ひとつ、籤びきで、きめようじゃありませんか」  江戸随一の廻船問屋の二代目が、云った。  ほかの者たちも、それに、賛成した。  どの者の肚裡《とり》にも、そんな珍奇の人形がつくられたならば、老中田沼意次に贈ってやろう、という考えがわいていたのである。たとえ、千両が二千両かかろうとも、田沼意次の機嫌が買えるならば、まことに安い、といえた。  十八大通|面《づら》はしていても、所詮は、金儲けに抜け目のない商人たちであった。  どんな趣向をこらしても、打算を忘れてはいなかった。  ただ、表面では、そんな打算など|おくび《ヽヽヽ》にも出さずに、蜀山人の趣向を、しきりに面白がって、ざわめいた。  大和屋だけが、籤びきを拒否して、自分に代金を出させて欲しい、と云いはるや、他の者たちは、前金の注文とは怪しい、大和屋さんこそ自来也ではなかろうか、と云い出したりした。 「いや、自来也がもし本当の義人なら、名人細工師が受けとった金など、盗むような不埒《ふらち》なまねはいたしますまい」  蜀山人が、そう云って、笑った。  大和屋は、突然、坐りなおして、 「皆さんに、申上げておきましょう。技正は、ご存じの通りの偏窟者《へんくつもの》。たとえ、千両の前金を積んでも、はたして、承知するかどうか。小万をつれて行って、頭を下げさせれば、技正も、おそらく、承知すると思うけれど、さて、いつになったら、作ってくれるやら、催促されるのさえ、いやがる男ゆえ、これは、五年さき、十年さきかもわかりませんよ。もしかすれば、千両飲みはたして、ポックリ頓死するかも知れないことですよ。手前は、それを覚悟で、前金を出そうと申しているのです」  真剣な面持で、云った。 「皆さん、大和屋殿が、これほどまでに、云うのですから、買い手にきめようではありませんか」  蜀山人は、一同を見まわして、承諾を促した。  一同も、蜀山人が承諾した以上、もう反対できなかった。 「ところで、大和屋殿——」  蜀山人は、札差に膝を向けかえた。 「趣向がもうひとつあります」 「なんでありましょうな?」 「いま、この一座に加わって居られぬ大通——すなわち、自来也に、提案したい」 「ほう——?」 「技正が、精魂傾けて、小万の現身を写した人形をつくりあげたあかつき、これをひとつ、自来也に、盗んでみる気はないか、ときいてみたい」 「なんと申される!」 「早合点して、慍《おこ》られるな。ただの泥棒が、大和屋殿の屋敷へ忍び入って、土蔵を破って、人形を盗み出すような、そんな野暮なまねは、自来也にはしてもらいたくないことです。……つまり、大和屋殿が、田沼意次様へ献上するように、自来也へ贈る——」 「冗談じゃない。手前は、たとえ義人でも、盗賊などに、なんで、大切な珍品を、贈りましょう」 「それは、勿論、お手前自身が、すすんで、自来也に贈られる道理がない。ただ、結果として、お手前が自来也に贈られたことになる。そういう盗みかたを、自来也に、してもらいたい、と思うのですが、いかがですかな?」 「それは、面白い!」  他の者たちが、声をあげた。  大和屋は、ちょっと考えていてから、 「つまり、手前は、どんな人間が、自来也の正体をかくして、巧みに化けて、巧妙な手段を弄して、買いに参っても、絶対に、売らなければよいわけですて。……その奸策に乗せられて、うっかり売ったら、人形は取られ、その夜のうちに、大金も盗まれてしまう、という憂目に遭うわけですからな」  これまでの自来也のやり口が、それだったのだ。 「いや——」  蜀山人は、再び微笑し乍ら、 「自来也ともあろう者が、こちらの提案をきいたならば、そんな使いふるした手段などは、とりますまい。必ず、皆さんを仰天させるような上々策を、長考一番やってのけてみせますな」  と、云った。  この言葉を、鋭い緊張をもって、耳にしている者がいた。  襖をへだてた次の間にひそむ南町奉行所の与力鈴木文八郎であった。  ——やっぱり、蜀山人は、自来也だったぞ!  確信を持った。  しかし、蜀山人の正体を看破した文八郎は、いま直ちに召捕る気は、毛頭起していなかった。  それよりも、蜀山人が、その人形を、どのような方法で大和屋から、奪い取るか——その興味をわかせていた。  九  技正が、蜀山人の注文を快く引受けたのは、やはり、小万の美しさに打たれたためであったろう。  次の日から、小万は、愛宕下の薄穢い裏店へ、毎日かよいはじめた。  技正が、寝食を忘れて、仕事にうち込み、ついに、半年間一日も休まなかったのは、生れてはじめてのことであったろう。  文字通り、憑かれたごとく、精魂を傾けて、技正が、その人形を八分通り仕上げかかった頃、もうひとつ、江戸の人々の話題になるものが、完成しつつあった。  淺草区内唯一の丘陵である真乳《まっち》山の麓——今戸橋の左手に、山谷《さんや》堀に臨んで、よほどの大通の別邸らしい屋敷が、つくられていたのである。  山谷堀の隅田川にそそぐところ——今戸橋のここらあたりは、土一升金一升の土地であった。江戸中の通人酔客をのせた屋形船、猪牙《ちょき》は、隅田川から、ここに漕ぎ入って来て、船宿でひと休みしてから、吉原へ通うのをならわしとしていたのである。  山谷通い、ということばさえあった。  その高価な土地を、千坪あまりも買いとって、粋をこらした普請《ふしん》をしているのであった。奈良茂《ならも》、紀文《きぶん》のむかしは知らず、いまは、宏壮な構えを誇るよりは、その数寄をこらした造りがよろこばれる。柱一本、庭石ひとつにも、いちいち、いわくがつく。  その普請ぶりは、全く金に糸目をつけぬぜいたくさであった。  奇怪であったのは、その普請主が、何者であるか、かかっている棟梁はじめ、誰人も知らぬことであった。  ただ、どこから出た噂か、よくわからぬが、老中田沼意次が、これまでもらった賄賂品を、上屋敷にも下屋敷にも収容しきれなくなり、思いきって、粋をこらした屋敷をつくりあげて、そこにならべようとしているのだ、と取沙汰され、信じられはじめていた。  田沼意次が、つくっているのであれば、名を秘しているのは、合点がゆく。 「屋敷ができあがったら、ご老中は、三百諸侯からその土地一番の美女を献じさせて、そこに住まわせ、唐の玄宗の後宮をまねるのだそうだ」 「なアに、ご老中は、もうすでに、楊貴妃はちゃんと、見つけておいでなのさ」  まことしやかに、そう語る者まで、あらわれた。  大名も旗本もそして町人も、立身出世し、富を蓄《つ》む捷径は、田沼意次の意を迎えることであった。  当然——。  諸人の目は、田沼意次の秘事に、向けられていた。  田沼意次は、きわめて最近、禁廷から、一人の女官をつれて来て、鎌倉の某尼寺に、あずけていた。それは、絶世の美女であった。意次は、関白に強《こわ》談判して、遮二無二、奪い取るようにして、京都からつれて来たのであった。これは、公然の秘密であった。  田沼の意《こころ》を獲ようとしている者で、知らぬ者はなかった。  田沼が、その美しい女官の身柄を、どこへ移すか?  それが、目下の重大関心事であった。田沼は、おそらく、新たに下屋敷を設けて、そこへ、その美女を住まわせるに相違ない、とは誰しも想像したところである。  真乳山の麓に、何者とも知れず、かたく名を秘して、粋をこらした屋敷が建築されはじめるや、これを、田沼の美女に、むすびつけて想像したのは、当然であったろう。  むすびつけない者の方が、間抜けにみえた。  その屋敷は、初夏を迎えて、完成した——。  そして、ほどなく——。  宵闇にまぎれるようにして、一挺の美しい乗物が、門内に消えた。半刻をおいて、五|棹《さお》の長持が、かつぎ込まれた。  このさまを、見とどけたのは、完成した日から、昼夜わかちなく、今戸橋をへだてた船宿の二階を借りきって、監視していた大名、旗本、大町人の家来たちであった。  ——ついに、女官が、鎌倉の尼寺から移って来たぞ!  もはや、この屋敷が、田沼意次のお忍び館であること疑いなし。  家来どもは、主家めがけて、八方へ奔り去って行った。  翌朝から——。  屋敷の門前には、音物《いんもつ》の列が、つらなった。  あっ、と云いたいほど、素早い賄賂《まいない》芸当であった。  武家も町家も、この屋敷に贈るべき珍品を、苦心して、用意し、この日を待ちうけていたのである。  すこしばかりもの珍しい品では、到底田沼意次の目にとまる筈もない。  遠くオランダ、イギリス、ポルトガル、天竺からとり寄せた品から、先祖伝来の家宝、さては一万両相当の金銀をつかった細工品まで、それはもう、夥しい数にのぼった。  蔵前の札差大和屋から、屋形船で、大箱の荷が、はこばれて来て、その屋敷へかつぎ込まれたのは、賄賂の列がようやく短くなった十日目であった。  今戸橋の橋上に立って、その大箱が、門内に入るのを見とどけたのは、与力鈴木文八郎であった。  文八郎は、その大箱の中に、技正がつくりあげた小万人形が入っていることを、知っていた。  大和屋が、小万人形を技正から受けとって、土蔵の奥にしまい込み、昼夜、五人の見張り番をつけていたことも、文八郎は、知っていた。  ——大和屋は、とうとう、ご老中に、人形を献上することに、成功したぜ。あの屋敷に入ってしまえば、いかに自来也と雖も、手も足も出るものじゃない。自来也の負けだ。……蜀山人は、いったい、どうしたというのだ? 腕を拱《こま》ねて、|よだれ《ヽヽヽ》をたらして、じっとしていただけじゃないか。  文八郎は、自分の職務柄を忘れて、ふと、口惜しささえおぼえた。  その時——。  うしろから、軽く肩をたたく者があった。  はっとなって、振りかえると、蜀山人の笑顔があった。 「お——先生!」 「与力殿は、大和屋が、技正の人形を、音物にするのを、いかにも、口惜しそうに、見送ってござったな?」 「先生!」  文八郎は、蜀山人を、睨むように瞶《みつ》めた。 「先生は、あの人形を、自来也に、盗ませようとなされたが、失敗されましたぞ!」 「お手前が、ずっと見張っていたところではな」 「あの屋敷にはこび入れられた限り、もはや門外不出、自来也と雖も、忍び入って、盗みとるのは、到底不可能でござる」 「勿論、その通りですな」  蜀山人は、けろりとして、こたえた。 「もし、自来也が忍び入ろうといたせば、それがしが、直ちに、召捕り申す!」  文八郎は、昂然と肩を張ってみせた。  蜀山人は、微笑して、 「与力殿は、自来也が、他家へ忍び入っても、自分が預けた金以外は、何も盗まぬ方針を実行していることを、ご存じではないか?」 「それは、たしかに、これまでは、そうでござったが……」 「いや、これからも、自来也は、その方針を曲げるようなことはありますまい」 「すると、自来也は、この屋敷に、忍び込んで、人形を盗みはせぬ、と云われるのですか?」 「左様——」 「では、自来也は、人形をおのがものにすることを、あきらめるのでござろうか?」 「さあ、どうであろうかな」 「先生!」  文八郎は、苛立った。 「自来也ともあろう者が、たかが人形一個を、手に入れることができぬのでござるか! なさけないではありませんか!」  それをきくや、蜀山人は、急に、表情を、ひきしめた。別の光を当てられたように、文八郎をガクリとさせるきびしい眼光であった。 「与力殿。お手前は、自来也が、今宵をもって、世間をさわがせることを止める、と約束したならば、自来也捕縛をあきらめられるか!」 「……」  文八郎は、聊《いささ》か、たじたじとなり乍ら、黙って、頷いてみせた。 「では、打明けよう。この屋敷は、老中田沼意次の建てたものではない。自来也自身が、いかにも田沼のものとみせかけて、つくってみせた屋敷でござるよ」  文八郎は、あっ、となった。  この屋敷が自来也のものとすれば、大和屋は、まさしく、人形を、贈るかたちで、自来也にまきあげられたことになる。  蜀山人が、十八大通連に云った通りの趣向が、はたされたのである。  翌朝を待って、文八郎が、屋敷内にふみ込んでみると、山と積まれている筈の夥しい献上品は、かき消すごとく、一品も残さず無くなっていた。  その時刻——。  蜀山人は、別の隠れ家で、小万人形に、酌をさせて、盃を口にはこんでいた。  ふと、微笑して、口ずさんだのは、次の狂歌であった。   カラクリの大夫を口説くわが心     玉の巵《さかずき》底なきが如し  国定忠治  一  ある日、突然、「柴錬立川文庫」の作者の家へ、不気味な男が、桜の杖をついて、訪れた。  そろそろ六十の坂を越えるか、とみえる年配の和服着流しの男は、桜の杖を、玄関からそのまま応接間へ、ついて、入って来た。  かなりの跛《びっこ》ではあったが、杖をつかなければならぬほどではなかったにも拘らず、男は、なんの断りも口にせずに、応接間に持込んだのである。  作者は、一瞥して、それが仕込杖であることを、看てとった。 「あっしは、赤城山の麓に住む、山木円五郎という者でござんす」  と名のり、かねてから先生の愛読者で、特に、「柴錬立川文庫」は、大好きだ、と云った。  作者は、山木円五郎の、双手とも、小指が無いのをみとめて、あまり有難くない愛読者だと思った。 「会ってみりゃ、先生は、やっぱり、あっしの想像通りの御仁《おひと》でござんした。剃刀のように冴えた浪人者、というところでござんすねえ」  やくざらしいお世辞を云って、男は、ヒョイと立ち上ったので、作者の方は、悸《ぎょ》っとなった。  仕込杖でも抜いて、度胸だめしでもするのではないか、と思ったのである。  山木円五郎は、ヒョコンヒョコンと上半身を傾け乍ら、窓ぎわへ行くと、首を庭へつき出して、チンと手洟《てばな》をかんでおいて、ソファへ戻って来た。 「先生は、いま、熊野の神鴉《みからす》様を書いておいでなさるが、あっしは、そのお礼に参上したのでござんすよ」 「お礼?」 「へい。実は、あっしは、国定忠治の参謀と称《い》われた日光の円蔵の子孫でござんしてね。その日光の円蔵は、実は、赤城の熊野神社の神鴉様だったのでござんす。あっしは、そのことを、ひとつ、お話申上げたくて、参上したようなわけなんで——へい」  そうきかされては、作者たる者、訪問客が不気味なやくざであっても、乗り出して、耳を傾けざるを得なかった。  日光の円蔵が、国定忠治を嗾《けしか》けて、赤城山にたてこもったのは、天保七年|申年《さるどし》のことでござんした。  その勢いの凄じさには、関八州の捕方衆も、容易に手がつけられなかったのでござんす。  水呑み百姓の小伜が、日本中に名を売る親分にのし上るには、そこはそれ、太閤秀吉に、竹中半兵衛が居り、徳川家康には、ええと——それ、なんとかいった——まあいいや、ふところ刀がいたように、忠治にも、日光の円蔵という軍師がついたからでござんした。  日光の円蔵てえのは、後に講談師がつけた名でね、本名は、晃円坊《こうえんぼう》——山伏で、赤城山の麓にある熊野神社の神鴉様だったわけで——。  晃円坊と忠治の出会いが、ちょいと面白いものでござんしてね。  国定村の水呑み百姓の次男で、どうにもこうにも手のつけられぬ悪戯《わるさ》をやらかす鼻つまみの餓鬼が、ある日、熊野神社に詣でて、うやうやしく、柏手《かしわで》をうって、願かけをやらかした、と思って頂きましょう。  忠治は、恰度十五歳になったばかりで、つまり、さむらいなら元服てえことに相成るので、てめえは、元服の代りに、願かけを思いたったのでござんした。  願かけとは、殊勝な心がけ、みてえなものだが、なアに、願かけが何も善い事とはきまってはいねえんで、国定村の悪童らしく、願うことは、きまっていまさ。  力いっぱい柏手を打って、途方もない大声はりあげて、願ったのは、 「神様よ、おれを、関東一の博奕打ちにして下され」  とのことでござんした。  尤も、上州では、なにも、博奕打ちになることが、悪いこととは、誰も思っちゃいません。次男、三男は、どうせ半|畝《せ》だってもらえやしねえ。城下で職人の弟子になるか、あるいは遠くは江戸へ出て、丁稚奉公をするか、親分衆をたよって三下になるか、どっちかでござんすからね。ちイとばかり気象が荒っぽくでき上っていりゃ、米つきバッタのようにぺこぺこ頭を下げる年季奉公なんぞ、できるわけがねえ。手っとり早いところ、三下になって、丁半に生命を賭けるのを、男らしいと、思いまさあ。  で——忠治も、その一人で、ドングリ眼《まなこ》を光らせ乍ら、そう願かけた次第でござんす。  恰度その時、拝殿の中で、晃円坊が、午後のうたた寝をしていたのでござんした。  晃円坊は、そのむかし、関東で、足利の公方《くぼう》が二派にわかれて、争っていた頃、熊野から遣わされて来た神鴉様の十八代の末裔でござんした。  赤城山の熊野神社は、関東の宰領でござんして、それァもう、大した実権を握っていたもので——。  なんでも、晃円坊は、炭のようにまっ黒な皮膚をして、口が、恰度鴉のように反歯《そっぱ》で、一目見ただけで、婦《おんな》子供は、気が遠くなりそうだった、ということで、どうも、昭和の御時世になると、その子孫のあっしが、こんなつまらねえ、平々凡々の面になるんだから、なさけねえ。  餓鬼の大声で、目をさました晃円坊は、鎌首をもちあげて、覗いてみたところ、ドングリ眼を光らせた面だましいが、なんとなく気に入ったものでござんす。  二  上州のしきたりで、願かけは、柏手を百八つ打つことになって居りましてね。  忠治が、その百八つを打ちおわった時、すかさず、拝殿の奥から、おごそかな声が、あったものでござんした。 「今夜——寺の鐘が、子刻《ねのこく》を告げた時、汝は、そこに立てい」  文字通り、打てばひびく返辞だったわけでござんすよ。  十五の悪童は、身の内が、じーんとしびれるようでござんした。  忠治は、おそるおそる、のびあがって、薄くらがりの奥を窺ってみましたが、もとより、神様に影も形もあるものじゃない。 「へいっ!」  忠治は、勢いよく、ぺこんと頭を下げて、 「屹度、めえりやす。……お願いしますでございます」  と、誓ったのでござんした。  子刻は、いまの午前零時、飲屋のカンバン時でござんす。  忠治は、その鐘をきき乍ら、雨もよいの野道を、まっしぐらにつっ奔って来たのでござんすが、物心ついた頃から、恐ろしいと思ったことのない悪童が、この夜ばかりは、道ばたの一木一草が、自分をおびやかす得体の知れぬ魔ものに感じられた、と申します。  林の中を駆け抜ける時はなおさらのことで、樹木の高いところをムササビが飛び、猿が異様な叫び声をたてて枝をゆさぶるのをきいて、忠治のきもは、塩をぶっかけられたなめくじのように縮み上っていたようでござんした。  忠治の気のせいではなく、これは神鴉様が、わざと、小手調べのような術を、悪童にかけてみたことでござんす。忠治にとっては、なんとも、おそろしい体験でござんしたな。  しかし、とうとう、忠治は、その恐怖にも破《め》げず、神社の境内へ、駆け込んだのでござんす。  そこへ、晃円坊が、悠然と、姿をあらわしたわけでござんすね。熊野神社の神鴉様は、村人たちと、会うてはならず、まして話などしてはならぬ掟がござんしてね、どうしても、会わねばならぬ時は、目だけのぞける覆面をしているのでござんす。  ただ、この夜ばかりは、晃円坊は、素面《すがお》のままで、忠治の前に現れてみせたのござんすから、忠治が、そのなんともおそろしい面相に、息をのんだのは、当然でありましたろう。  忠治は、思わず、地べたに匐いつくばって、額を土にこすりつけたと申します。  晃円坊は、浮身の術によって、阿弥陀様が坐っているあの恰好で、闇の宙に、ふんわりと浮かんでいるようにみせかけたのでござんすから、忠治ならずとも、誰だって、これを生の人間だなんて看破できるものじゃござんせんや。 「忠治、おもてを挙げい」  晃円坊は、おごそかな口調で、云いかけ、忠治が、へい、とふり仰ぐと、その膝の前へ、ポンと、賽ころを二つ投げてやったのでござんす。 「その賽《さい》を、よくあらためい」 「へ、へい」  忠治は、どこからともなく照らしかける光の中で、二つの賽ころを、丹念に、ひねくりまわしました。べつに、どうということもない、ふつうの賽ころでござんした。  晃円坊は、次に紙張りの籐の壺皿を、投げ与えて、 「振ってみるがよい」  と、命じましたね。  忠治は、云われるままに、見よう見まねの手つきで、賽ころを壺皿にほうり込んで、くるっとまわして、地べたへ伏せ、二三度、ツツ……と動かしてみせたのでござんす。 「余が、その中を、当ててみせる」  晃円坊は、申しましたね。 「まず、半だ」  忠治が、壺皿を挙げてみると、たしかに、半でござんした。  忠治が次に伏せると、すかさず、晃円坊は、 「こんどは丁だ」  と云い当ててみせましたね。  百発百中——それァもう、あざやかなものでござんしたから、忠治は、ただ舌を巻くばかり。こんな神様がついてくれりゃ、日本一の大|分限者《ぶげんしゃ》にもなれる、と有頂天になったのもむりはござんせん。  それは、神鴉様の「目くらましの術」ではなかったのでござんす。二つの賽ころは、仕掛けがしてあるイカサマだったわけなんで……。  三  話は、すこし、さかのぼりますが、この上州の生れで、日本中を流れわたって、六十年の生涯を孤独者《ひとりもの》でおわった木綿の行商人で、信助という男が、居りました。  この男が、知る人ぞ知る、実は、イカサマ賽作りの名人だったのでござんす。見かけたところは、貧相な、なんの取得もなさそうな、木綿ものをひっかついで行商しているようにみせかけているが、なに、途方もない技術をかくしている無職《ぶしょく》だったわけで……。  木綿を売ってくらしをたてているわけじゃない。金が欲しくなれば、その土地の賭場へ行って、ひと儲けすることにしていたのでござんす。というのも、イカサマ賽作りの名人でござんすから、賭場で使われているイカサマ賽は、ひと目で、看破ってしまうわけでござんす。 (申上げておきますが、博奕打ち同士の大賭場では、そんなことはありませんが、そこいらの職人や商人や百姓を集めた賭場では、必ずイカサマを使うものなんでね。旦那衆を集めた時にも、ここぞという場合は、イカサマが使われるのでござんす)  ところで、信助は、どんなところでも、決して、目立つような大儲けはしない要心深さをそなえていたのでござんす。これは、ひとつには、生れつきあまり欲のない、つまり名人気質というやつで、酒代と女郎買いの金がありさえすれば、それで、ほかになんの望みも持っちゃいなかった。そのために、一度も、渡世人から、怪しいぞ、と眼《がん》をつけられなかったのでござんした。  泊り泊りの旅籠で、コツコツとイカサマ賽を作るのが、唯ひとつの趣味でね、おもしろいことに、作りあげた賽ころは、たった一度だけ、賭場で使ってみては、荷の底にしまい込むことにして居りました。  信助が、はじめて、イカサマ賽を作ったのは、まだ二十歳の頃で、これを、晃円坊が宰領する赤城山の麓の、熊野神社に、奉納して、 「これから、てまえは、死ぬまで、つぎつぎと、工夫するつもりでございます。三年に一度、もどって参りました時には、作った賽ころを、お納めいたしますでございます」  と、誓ったのでござんす。  そして、それを、信助は、実行したわけなんで、信助が六十になって、中風で半身不随のからだを、はこんで来た時には、神社には、ちょうど十個のイカサマ賽が奉納されていたと申します。  それらの賽ころは、どんな目の利く渡世人の手に渡されても、イカサマであるとは、金輪際わからぬほど精巧をきわめていたそうで、神鴉様の晃円坊が、感服の唸りをもらしたくらいでござんした。  あっしは、想うに、晃円坊は、信助にだけは、おのが正体を見せて、唯一人の乾分《こぶん》にしたのじゃござんすまいか。  信助が全く動けなくなってからの二年間は、晃円坊が、面倒をみてやり、臨終の時にもそばに坐っていてやった模様でござんす。  この名人が奉納したイカサマ賽を使われては、どんなに甲《こうら》を経た渡世人だって、勝てる道理がござんすまい。まして、水呑み百姓の小伜に、どうして、これがイカサマと看破できましょうか。  こうして、国定村の悪童は、神通力をそなえた神鴉様の後楯によって、日本一の博奕打ちになるべく、武者|顫《ぶる》いをした次第でござんした。  四  申上げるまでもないこと乍ら、博奕打ちは、人間の屑でござんす。堅気の世界で辛抱していられない、どこか性根に片端《かたわ》なところのある野郎たちが、いちばん手っとり早い道をえらんで入って来る——いわば、片端者の溜り場でござんすから、斬るの、殺すのということは、朝飯前のことになりまさ。  しかし、お互いに、それを渡世にして生きて行く上には、どうしたって、その——それ、つまり……、へい、秩序——それでござんす、その秩序ってえやつが、なけりゃなりません。  飲む、打つ、買うと三拍子揃った野郎どもが、集ってつくりあげる秩序でござんすからね、そりゃ乱暴な掟になるのは、いたしかたありませんや。指をつめさせる、簀巻きにして河の中へぶち込む、その挙句が、竹槍をふりまわして、大利根|磧《がわら》で大立廻りということに相成ります。  ごらんの通り、あっしも、両手の小指が無くなって居ります。  考えてみりゃ、阿保らしいものでござんすねえ、やくざの世界なんてものは……。  しかし、何千万もが生れて育って来りゃ、屑ができるのは、しかたがない話で、オートメーションてえやつがつくりあげる自動車やテレビだって、調子のいいのとわるいのができるそうじゃござんせんか。まして、蚕や牛と同居しながら、藁布団の中で、抱きあってつくった餓鬼に、まともな野郎ができあがるわけがござんすまい。  屑は屑同士寄り集って、堅気の衆に迷惑かけないように、賽ころの目に、生命をかけ乍ら、生きて行く世界をつくったのも、これァ、かえって、世間にとっては好都合かも知れませんね。尤も、当世のように、仁義もくそもなくなって、堅気の衆をいたぶって、大きな面をし乍ら、高級車を乗りまわしていやがるやくざなんざ、なんとも処置なしでござんすがね。  あっしが餓鬼の頃までは、やくざの仁義は、それァ厳しいものでござんしてね。キチンと守られていたものでした。  まして、チョン髷時代は、立派な親方衆が、土地土地に、デンと腰を据えて、縄張りをつくっていたのでござんすから、渡世人は、かえって堅気の衆よりも、窮屈なその日を送っていた模様でござんすね。  映画や芝居に現れて来る小意気な、男前の旅鴉なんて、いっぴきだって、いたものじゃござんせん。あれこそまったくの絵そら事で、無職《ぶしょく》の渡り者なんて、乞食に毛のはえた程度の惨めな野郎でござんしたね。賭場ですってんてんになると、三日も水ばかり飲んで、飢えをしのぐ、といったくらしが、あたりまえのことだったのでござんす。  おっと——話が、わき道へ、それましたね。  上州は、博奕打ちの本場でござんす。したがって、仁義の最もうるさいところで、縄張りは、大名の領地と同じくらい、整然と分けられて居ったのでござんす。  ところが、この縄張りを、突如として、踏みにじる野郎たちが、出現したわけでござんす。  国定村の忠治が、類は友を呼んで集って来た悪童たちを率いて、起《た》ったので……、つまり、親分衆をたよれば、三下にしかなれない十代のチンピラが、いまで謂《い》う愚連隊を組織したわけでござんすね。  おもしろいもので、いくら人間の屑でも、これが、渡世人の世界をつくりあげて、厳格な規律を保ち、一糸みだれぬ統制をつづけているうちには、いつの間にやら、天下泰平の気分になり、あばれ牛が角を折られ、荒馬がきん玉を抜かれたあんばいになるのは、しかたのないものでござんしてね。  上州一円の親分衆も、その乾分《こぶん》たちも、やけにのんびりとかまえて居ったのでござんす。  そこを狙って、忠治愚連隊が、まるで狂犬の群のように、わき出たのでござんすから、親分衆は、あわてふためいた。  どこの身内の縄張りであろうが、おかまいなしに、賭場をひらいて、人を集める。  神社の祭礼などは、親分衆のかき入れ時なのだが、その賭場の真むかいに、賭場をひらいて、威勢のいい呼び込みまでやってのける。  博奕打ちの規律も掟も慣習も、無視するわけでござんすから、どんなことでもやってのけられる。  素人衆は、むしろ、面倒がないので、そっちの賭場の方へ集るようになった。  親分が、まだ十六七の小僧っ子でござんすからね、気が置けないし、賭場そのものが、明るいのでさあ。  親分衆は、洟《はな》ったれ小僧にしてやられては、名にかかわるとばかり、退治しようといきり立ってみても、果し状を送りつけて、場所や日時を指定したところで、まともに応じる対手《あいて》じゃない。  なにしろ、親分衆の方は、代貸はじめ主だった乾分たちは、女房子供を持っている。対手がたが、こちらと対等の一家ならば、生命を投げ出す気勢もあがるのだが、十代の悪童をむこうにまわして、竹槍や刀をふりまわしてもはじまらぬという気がするし、もし万一生命を落すようなことがあれば、こんなばかばかしい話はない、と考えるのは人情でござんしょう。  第一、対手が、狂犬にひとしい悪童どもだから、かえって、恐ろしい、といえました。  げんに、ある一家が、その賭場へなぐり込みをかけたところ、悪童どもは、蜘蛛の子を散らすように、すばやく、姿を消してしまったので、他愛もない、と笑ってひきあげたところ、その夜ふけに、忍者のように忍び入って来て、親分はじめ、主だった乾分を、めった斬りにしておいて、立去ったことでござんす。  誰も気がつかないことでしたが、悪童どもは、思うまま勝手にあばれまわっているとみえましたが、実は、一人の黒幕の指令によって、一糸みだれぬ行動をとっていたわけでござんす。つまり、晃円坊が、軍師として、その背後にかくれ、神鴉忍法を、駆使していたわけでござんす。  晃円坊としては、修得している神鴉忍法を、戦国時代さながらに、実践する絶好の機会をつかんだ、といえるのでござんすね。駒として動かすには、生命知らずの十代の荒くれ小僧たちこそ、またとない兵隊だったのでござんす。  手のつけられぬこの悪童団は、いつとなく、「からっ風野郎」のあだ名で呼ばれるようになって居りました。力だけが通用する渡世では、たとえ悪名であっても、それを売り出してしまえば、結構、大手を振って、通ることができるようになるものでござんす。  五  名も売った、金もつかんだ。となると、欲しいものは、あとひとつ——女でござんす。  忠治は、十八歳になって居りました。  まともに育ってくらしていれば、土にしがみついている地虫さながらの水呑み百姓で、庄屋の屋敷などには、まともに門から入れぬ惨めな男が、人間の屑に生れついたおかげで、ひとかどの親分衆の株でも買ったように、大きな家を構えた以上、世間があっと驚くほどの美しい女を手に入れて、北叟笑《ほくそえ》んでやろうと、大層な野心を起したのでござんすが、この企てだけは、晃円坊の智慧を借りるわけにはいかなかった。  忠治が、目をつけたのは、この地方きっての旧家である郷士・嘉門《かもん》家の一人娘でござんした。  嘉門家は、古河《こが》公方の後裔といわれて、代官でさえも、正月には、年賀の使いを出すほどのお家柄でござんした。  その一人娘でござんすから、深窓にかくれて、氏神様の祭礼と墓参りのほかは、外へ出かけるようなことはござんせん。  そこで、忠治は、お彼岸に、娘が、墓参りするところを狙って、かどわかしてくれよう、と思いたったのでござんす。  ところが、そこが、思い上ったチンピラの哀しさで、宿場の飯盛り対手に、酒をくらっているうちに、つい、その計画を、口をすべらせてしまいました。  飯盛りは、すぐに、このあたり一円を縄張りにする大松の安五郎という親分へ、通報しました。安五郎は、かねて、嘉門家へ出入りが許されているのを自慢にしている男でござんした。  大松の安五郎、というよりは、豚安という名の方が通りがいい醜男でござんした。  嘉門家の「旗本」をもって任じている豚安は、 「おのれ、忠治め。洟ったれだと思って、大目に見てやっていれば、どこまで、つけ上りゃがる。よし、ひと泡ふかせてくれる」  と、ふるい立ちました。  ふるい立ったものの、からっ風野郎どもと真正面から衝突する度胸も力も、実は、豚安には、なかった。忠治は、すでに、百数十人の乾分を擁していたからでござんす。  下は十四五から、上は二十二三まで、近郷の水呑み百姓の次男三男が、忠治のもとに集って居りました。百姓たちとしては、口べらしができるし、できそこないの伜が出て行ってくれるのは、むしろ有難いことでしたからね。  場合によっては、博奕に勝ってふところがあたたかい時には、親不孝者が、思いがけない孝行をしてくれる期待さえなくはなかったのでござんす。  豚安も、多勢の乾分をかかえていたとはいえ、渡世が長いだけに、年配の者が多く、分別くさく、口達者な連中ばかりで、小ずるく立ちまわって、へそくりを残したい、という考えは起しても、十代の愚連隊を対手に大立廻りをやらかそうという者は一人もいなかったわけで……。  で——豚安は、一計を案じました。  嘉門家の一人娘が、墓参りに行く駕籠へ、替玉を乗せることにしたのでござんすね。  替玉は、どこの娘がよかろうか、と物色していると、自分の娘のハナが、 「その役、あたしが、やるよ」  と申し出ました。  ハナは、豚安の娘にふさわしく、体重二十三貫、人三化七《にんさんばけしち》のなんとも仕様のない醜女《しこめ》でござんした。  男を手玉にとる腕力はあっても、男にくどかれたこともなくて、その時もう二十七か八かの、オールドミスってえしろものになって居りました。 「なるほど、おめえがいたっけ」  豚安は、おあつらえ向きの替玉に笑ったことでした。 「ひとつ、忠治の奴を、ひっとらえて、しょっぴいて来てくれ」 「あいよ。あたしに、まかせておきな」  ハナは、ポンと胸を叩いてみせたことでござんす。  さて——お彼岸の朝。  嘉門家の門を、一挺の駕籠が出ましたね。駕籠といっても、嘉門家の定紋を浮かせた紅《べに》網代の大層なもの。これを、三四人の下男、下女が護って、しずしずと、うららかな春の野辺を辿って行った、とお思い頂きましょう。  菩提寺は、おせん藪という、半里もつづく竹藪の脇に沿うて行くことになる。  豚安から訴えを受けていた八州廻りの代官手代が、三十人ばかりの捕方をひきつれて、藪と反対側の灌木の中に、ひそんで居りました。かどわかす場所としては、そこ以外にはありませんでしたからね。  はたして、駕籠がさしかかるや、藪の中から、十人ばかりのからっ風野郎たちが、とび出して来た。下男下女は、悲鳴をあげて、逃げ散った。からっ風野郎どもは、駕籠をさらって、藪の中へ——。 「よし、一人も、のがすな!」  八州廻りは、凛然と下知しました。  ところが——。  藪へふみ込んだ捕方は、スタコラ逃げるからっ風野郎へ、追いついたとたんに、悲鳴をあげて、地上から消えてしまった。  仕掛けがしてあったのでござんすね。  忠治が、晃円坊から習った「藪知らずの法」というやつでござんした。これァ、忍法としては、ごく初歩のやつだそうでござんすね。むかし戦国時代によく、つかわれたと、きいて居りますよ。  落葉の下に、蔓草を張っておいて、これに足をとられてつンのめった奴を、茨を底に敷いた陥穽へ、頭から逆落しにする、という方法でござんす。  三十人のうちの半数が、これをくらい、のこりの者が、助け出しているあいだに、からっ風野郎どもは、駕籠をひっかついで、行方をくらましてしまった——。  六  駕籠が、かつぎ込まれたのは、そこから二里ばかり離れた、まんじゅう山とよばれる木が一本もない小山の中腹に建っている比丘尼《びくに》寺でござんした。  六十すぎた尼様が、たった一人、本堂裏の庵に住んで居りました。  駕籠を、本堂の須弥壇《しゅみだん》前に据えて、戸をひき開けた忠治は、一瞬、唖然となったことでござんす。  天女か菩薩のように美しい娘が乗っているとばかり思い込んでいたのに、なんと、ふた目と見られないくらい醜い大女が、デンと臼のような腰を据えていたのでござんすからね。  忠治にとって、まことにうかつだったのは、豚安親分の娘が、化物のような大女であるのを、すこしも知らなかったことでござんした。 「てめえ、やい! 嘉門の屋敷の下女だな!」  忠治は、噛みつくように、喚いたことでござんす。  すると、ハナは、おほほほ……、と笑いましたな。醜女に似合わず、声はきれいだったと申します。 「下女が、このような衣裳をまとうて居るかえ。……無法者、下りゃ!」  ハナは、上《うえ》つ方《がた》の言葉を使う愉しさを、あじわい乍ら、睨みつけました。 「なにをほざきやがる。嘉門さんの娘御はよう、公方様のお姫《ひい》様よりも、別嬪だときいているぜ。てめえのような、千人鍋が化けたようなみっともねえしろものじゃねえや」  そうののしられるや、ハナは、急に、俯向いて、ハラハラと泪をこぼしてみせました。  忠治は、苛立って、 「ちょっ! メソメソしたってはじまらねえや。とっとと、消えうせてしまやがれ」  と、呶鳴りつけておいて、本堂を出て行こうとしました。  すると、ハナが、泪にぬれた顔を擡《もた》げて、 「待ちや!」  と、呼びとめました。 「なんでえ? もう、用はねえぞ」 「いいえ。きいてほしいのじゃ。……わたくしは、まぎれもなく、嘉門の家のむすめです。両親が、あまりみにくく生れたわたくしを、ふびんに思うて、屋敷の奥ふかくで、誰にも見せぬようにして育ててくれながら、世間には、わざと、たぐいまれな美しいむすめじゃと、噂を流してくれました。そなたは、その噂を信じた一人でありましょう。……そなたは、嘉門のむすめを、この目で見たという人に、会うて居りますか? 会うては居りますまい。ただ、噂だけが、ひろまっているのを、きいているだけでありましたろう。……正体は、このように、世にもみにくいすがたをして居りますのじゃぞえ」  いかにもまことしやかな告白をきいて、忠治は、「ふうん!」と鼻を鳴らしたことでござんす。  性根は、単純で人の好い忠治は、すこしばかり、この醜女に、同情をおぼえたことでござんす。また、同時に、野心も、鎌首をもちあげた。嘉門家の一人娘にまちがいなければ、これを手ごめにしておいて、 「おれを入婿にしてもらいてえ」  と、談判してやろう、という野心でござんした。  こんな人三化七を女房にするのは、ぞっとしないが、世間には、絶世の美人と信じ込ませてある。その絶世の美人のところへ、からっ風野郎が、入婿した、ときけば、腰を抜かさんばかりの驚きを、与えるだろう。その痛快さだけでも、こたえられない。それよりも何よりも、嘉門家の次の主人になれるというのは、夢のような幸運ではないか。  ——よし!  忠治は、にやっとすると、駕籠に近づいて、ハナの手くびをつかんで、 「出ろい」  と、ひっぱり出しました。  ハナは、素直に、出て来ました。  あっしは、想像するに、ハナは、はじめから、そのこんたんであったに相違ござんすまい。  二十八まで、男を知らずに、くらして来た醜女は、つまり、その立派な肉体を、夜毎、男欲しさに、もだえさせていたのでござんしょうよ。  いうなれば、男に抱かれるための、非常手段をえらんだ、という次第でさアね。  ハナは、顔の造作こそ、人三化七でござんしたが、色は抜けるほど白く、ぽってりとした餅肌で、男を狂わせるからだを持って居ったのでござんす。 「おめえ、どうせ、筋の通ったところから、婿をとることは、できやしめえ。このまま、ほっとけば、一生男を知らずに、すごすことにならあ。……おれに、抱かれな」  忠治は、もう無理矢理手ごめにする必要もないので、そう言ってやりました。  ハナは、俯向いて、こくりと頷いたそうでござんす。  狐と狸のだましあいでござんしたな。  ところで、当時は、女の操は、生命よりも大切なもの。それを、手に入れるのでござんすから、たしかに手に入れたという証拠を見とどけた証人を、つくらねば、入婿の談判ができぬ、と忠治は、考えたものでござんす。  そこで、忠治は、裏手の庵へ行き、男を知らずに生涯を、念仏三昧ですごした六十の尼さんを、本堂へひっぱって来たのでござんした。 「比丘尼様よ、すまねえが、これから、おれは、この娘と契るからよう、大きく目玉をひらいて、見とどけてくれ」  たのまれた尼さんは、仰天して、かんべんして欲しい、とあやまったが、忠治は、許すものじゃない。  しかたなく、尼さんは、おののき乍ら、その場へ坐って居った。  忠治は、ハナを仰むけに寝かせると、帯を解いて、前をはだけさせたが、その大きな白い裸を、見た瞬間、あまりの立派さに、思わず、生唾をのみ込んだそうでござんす。  そうなると、忠治は、やはり十八の小僧っ子で、夢中で、その大きな白い裸の上へ、乗るや、息せわしく、事を急いだものでござんす。  かえって、処女のハナの方が、おちつきはらって、忠治のぶざまなほどせわしない振舞いを、優しゅう包んでやるあんばいだったそうでござんす。  へ? お出かけになる時間が来た——と仰言いますんで? そうでござんすか。では、あとの話は、明日でもまたお邪魔して、おきかせいたしとう存じます。本題は、これからでござんすから、是非とも、きいて頂きとう存じます。  七  桜の仕込杖をついた山木円五郎が、「柴錬立川文庫」の作者の家へ、再び現れたのは、それから一月ばかり経ってからであった。  山木円五郎は、対坐すると、いきなり、その仕込杖を、ギラリと抜きはなってみせた。  恰度、茶菓子をはこんで来たお手伝いが、キモをつぶし、 「キャッ!」  と、叫んで、コーヒー茶碗を、床へすべり落してしまった。  山木円五郎は、にやっとして、作者へ、その白刃をさし出し、 「ごらんなすっておくんなさい、先生。……これが、国定忠治の持っていた小松五郎でござんす」  と、云った。  作者は、内心バカバカしいと思い乍ら、受けとってみた。  べつに駄刀ではなかったが、素人目にも錵《にえ》匂いに品がなく、刃紋ばかりを派手につくった二流品であった。小松五郎などという名刀が、そうやすやすと、上州のやくざの手に入るわけがない。  作者が、返そうとすると、山木円五郎は、 「ま——ひとつ、しばらく、先生のおそばへ、置いてやっておくんなさい」  と、頭を下げた。 「私は、剣豪作家と称されているが、刀など一本も持ってはいないんだ。持つ興味もないよ」 「ま、そう仰言らずに、ひとつ、是非——」 「押し売りはごめんだね」  作者が、冷やかにことわると、山木円五郎は、たちまち、ひらきなおった。 「先生! 山木円五郎は尾羽《おは》打ち枯らした博奕打ちでござんすが、いやしくも、日光の円蔵の子孫——熊野神鴉様の血を継いで居りやす。先生に、押し売りしようなんて、とんでもねえ。あっしはね、ただ、立川文庫に、神鴉様のことを書いて下さるお礼に、さし上げようというのでござんしてね、ほかに、塵っ気ほどのこんたんはありませんぜ。見そこなってもらいますめえ」  凄味をきかされては、作者も、刀をつき返すわけにいかなかった。  ところで——。  作者は、やくざという人間の屑には、全く興味がなかったので、国定忠治という博徒についても、殆ど知識を持っていなかった。  山木円五郎が訪れて、嘘かまことか、喋りたてて行ったので、念のために、国定忠治を、調べてみた。  すなわち、山木円五郎が、再び現れた時には、忠治に関する一応の知識を持っていた。  国定忠治は、文化七年、上野《こうずけ》国佐位郡国定村に生れた。当時、村の戸数百六十四戸、石高六百四十石。忠治の父与五左衛門は、勿論農夫であったが、かなりの分限者であった。その長男に生れた忠治は、生来の粗暴な性格もあり、少年の頃から、我儘一杯な行動をやって、村人の鼻つまみであった。十六七歳の頃、日光の円蔵という得体の知れない男と知りあって、いよいよ本格的に、博徒の世界にふみ込んだ模様である。  その賭博の根拠地は、国定村の隣の田部井村がえらばれた。田部井村は戸数百三十戸、石高四百七石。支配者は旗本平岩七之助。  田部井村は、機業地伊勢崎に寄っていて、桐生、大間間《おおまま》へ行く街道筋にも当っていたので、賭博地としては手頃であった。背後は赤城山であった。  大親分大前田英五郎の住む大前田は、ここよりも、奥であった。  忠治は、田部井村を根城として、数里四方の数人の親分の縄張りをあらしまわった。暴風雨のような勢いで、いずれも、十代の生命知らずを率いて、賭場荒しをやってのけたのである。  その近辺で最も大きな博徒の親分は、島村の伊三郎であった。  島村は、利根川べりで、中仙道本庄宿に近く、例幣使道の木崎宿に接している。このあたりは、蚕業の中心地で、絹市も立つ。博徒の縄張りとしては、最良であった。  忠治は、伊三郎を殺せば、上州随一の縄張りを手に入れることができる、と思い立った。  伊三郎は、無宿者であったが、それは資産隠匿のために人別帳からけずられたので、兇状持ちになったからではなかった。人も殺さず、兇状旅にも出ず、村人たちに迷惑をかけず、永い間かかって縄張りをひろげた男で、博徒仲間からは、人気があった。  忠治は、ある年の春、乾分数人をひきつれて、島村の賭場を荒した。その時は、生捕られて、簀巻きにされ、利根川へ水葬にされそうになった。  その時、日光の円蔵が、ふらりと出現して、言葉巧みに、伊三郎を説き伏せて、忠治の身柄を、もらい下げてやった、という。  忠治が、闇討ちをかけて、伊三郎を斬り殺したのは、それから三月も経っていなかった。  さて、忠治の虚名が、今日までのこっているのは、天保飢饉に、田部井村の沼を掘って、灌漑をやって、旱魃からすくったことと、全財産をなげ出して、米を買い込み、村人を救った、という美挙のためである。  真っ赤な嘘である。  田部井村では、溜池が埋まって、旱魃におそわれていたことは事実であった。忠治は、名主の宇右衛門と共謀して、溜池|浚《さら》いの資金下附を領主の旗本平岩七之助へ願い出て、その下附金の半分を着服した。次いで、溜池浚いの人足を集めて、賭場をひらき、寺銭をとって儲けたのである。  そんな忠治が、全財産をなげうって、米を買い、村人をたすけるような美挙をやる道理がない。  忠治は、ギャング的博徒以外の何者でもなかった。  八  山木円五郎は、作者に、仕込杖を押しつけておいて、先日の話のつづきをはじめた。  この前は、忠治が、豚安こと大松の安五郎の百貫デブの娘ハナを、犯して、六十の尼さんに見とどけさせるところまででござんしたね。  ハナは、まんまと、男と寝ることに成功したわけでござんす。おもしろいもので、忠治は、ハナの大きな白い裸が、すっかり気に入ったものでござんした。  ハナが豚安の娘であることが判っても、忠治が、逆上しなかったのは、そのためでござんす。ひとつには、嘉門家の入婿になる、などという大それた野望は、とうてい実現不可能なことは、忠治自身にも、わかっていたことで、それよりも、豚安の縄張りをそっくりもらった方がトクだ、と考えなおしたとしても、これはあたりまえのことなんで……。  それから、ざっと二十年——忠治は、悪事という悪事を、やってのけた。それで、捕まりもせず、殺されもしなかったのは、晃円坊という神鴉様が、軍師として、蔭にいたからでござんす。  しかし、国定忠治の名が、博奕打ち仲間だけでなく、世間一般の人々にまでひろまったのは、べつに、その悪事のせいじゃござんせんでしたね。  忠治は、晃円坊の指令によって、奥羽、北陸、信越の貧しい娘が、江戸吉原の廓へ売られて、つれて来られるのを、途中で襲い、とびきりの上玉ばかりをさらって、上州の各宿の女郎にしたことでござんす。  ですから、当時、本庄はじめ、深谷、熊谷、倉ケ野、高崎などの中仙道の各宿、それから日光詣での街道の木崎、太田、足利などには、目を見はるような別嬪の女郎が、そろっていたと申します。  その噂をきけば、江戸の大町人までが、わざわざ、やって来るのもあたりまえで、これが、忠治のカモになるというわけでござんした。  こういうあんばいに、神鴉様は、忠治をあやつって、踊らせて、ひそかに、にやにやしていたのでござんすね。  もうその頃は、晃円坊は、日光の円蔵と名のって、野覆面の長脇差いでたちになって居りました。尤も、忠治の家に住んでいたわけではなく、イザとなると、そのいでたちで出現して、忠治を扶けていた模様でござんす。  さて、ここで、神鴉様の恥を申上げなければなりません。  自分の先祖であっても、恥をかくしておくわけには参りません。  先生は、もう熊野にのこっている「神鴉伝奇」を、ぜんぶお読みでござんしょうから、ご記憶もあるかと存じます。  天保の中頃に、江戸神鴉が、熊野本山へ、注進状を送っていることを、ご存じでござんすね。 「関東宰領・赤城神鴉、狂心つかまつり候」  そう書いてあります。  江戸神鴉が、赤城神鴉を、関東宰領の地位から蹴落すための、悪意の中傷、と本山の方では解釈したそうでござんすが、狂気は、本当のことだったのでござんす。  というのも、晃円坊は大層色好みの神鴉様で、毎月きまった日に、赤城熊野神社へ、忠治から、人身御供の女が、贈られて居ったのでござんす。女というのが、素人ではなく、床技《とこわざ》のうまい女郎がえらばれていたのでござんすね。そいつが、いけなかった。どの女が持っていたか、たちのわるい瘡毒《そうどく》を、晃円坊に感染《うつ》した、と思って頂きましょう。  つまり……晃円坊は、脳梅毒にかかっちまった。  九  脳梅毒にかかった神鴉様が、途方もない妄想を描きはじめたことを、忠治は、すこしも気がつきませんでした。  晃円坊が書きのこした「赤城山中埋蔵金のこと」という書きつけが、あっしの家にのこって居ります。  あっしは、そいつを、菩提寺の和尚さんに読んでもらいましたが、「古河公方《こがくぼう》軍用金が、赤城山大沼のほとりに埋蔵されてあること疑いなく、その絵図面は、岩鼻陣屋代官屋敷に隠されてあり」という意味のことでござんした。  古河公方といえば、足利時代の人間でござんしょう。その人間の埋蔵した金の在処《ありか》が、幕府代官屋敷にのこされている、というのが、そもそも眉唾《まゆつば》でござんすがね。尤も、岩鼻陣屋の代官屋敷は、徳川以前は、豪族の館だったそうで、歴史は古いので、その豪族が古河公方に縁故がなかったとは云えますまいが、神鴉様ともあろう忍者が、代官屋敷にそんな大切な絵図面が隠されていると知っていれば、さっさと、忍び入って、奪っちまったに相違ござんすまい。神鴉様なら、それぐらいの忍びの業がそなわっていないはずはありません。  尤も、その和尚さんは、あっしに、 「円五郎さん、埋蔵金の話は、どうも、本当らしいのだよ。軍用金をかくしたのは、古河公方ではなく、徳川家康で、叛乱が起って、江戸城が陥落した際、将軍家は、赤城山へしりぞいて、たて籠る、という計画をたてていた、というむかし話を、きいたことがある。そのために、赤城山へ、軍用金を埋蔵して、万一に備えた、というのじゃな。……神鴉様は、そのことを、知って居ったのかも知れんな」  と、云ったことでござんすがね。  どっちにしても、晃円坊のあたまが、おかしくなっていたことは事実なんで、ある日、堂々と、代官屋敷へ乗り込んだそうでござんす。  その時は、覆面の長脇差いでたちではなく、熊野神社の神鴉として、そのおそろしい面相を、代官の前にさらして、対等の態度をとったといいます。  神鴉様の存在は、代官と雖も、かろんずるわけには参りません。 「当邸のどこかに、埋蔵金の絵図面が隠されて居り申すゆえ、すみやかに、おさがしあれ」  おごそかに、神託でも告げられるように、云われると、代官松田軍兵衛も、首をひねらないわけにいかねえ。  それから、数日のうちに、屋敷の襖という襖が、貼りかえられたそうでござんす。襖の下貼りの中に、絵図面があるのじゃないか、と思ったのでござんしょう。  松田軍兵衛が、強欲の代官であったことは、今日までも、つたわって居ります。はじめは、半信半疑であったが、襖を剥いでいるうちに、だんだん、真剣になって来た、というのが正直なところでござんしょう。  一方——。  忠治の方は、晃円坊から、 「赤城山中に、百万両の埋蔵金があるぞ」  と教えられて、とび上りました。  なにしろ、忠治にとっては、晃円坊は、神様そのものでござんしたからね。一にも二にもなく、 「有難てえ!」  と、おどりあがった。 「よし、いっちょう、代官屋敷へ、なぐり込みをかけてくれるか」  無謀なことを口走る忠治に、晃円坊は、 「それは、許さん!」  と、抑えましたな。 「なぜ、いけねえんで?」 「代官には、絵図面を捜させなければならぬ。お前は、乾分をつれて、赤城山へこもって、手わけをして、捜せ」 「合点、承知しやした」  と、その時は、頷いたものの、そこは、強盗根性のある忠治でござんすから、乾分三四十人を率いて、真夜中に、代官屋敷へ、押し込みました。  講談や芝居だと、代官はじめ、百姓たちを虐《いじ》めていた下役どもが、のこらず、たたっ斬られたことになって居りますが、そうは、都合よく、やっつけられるものじゃござんせん。  代官といえば、いわば上州を治める大名でござんすからね。屋敷内には、二百人や三百人の下役が居りまさアね。たかが三四十人のやくざが、なぐり込みをかけたぐらいで、あわてふためくものじゃありません。  たちまち——。  屋敷中で、斬りたてられ、悲鳴をあげて逃げまわり、長脇差をすてて土下座して生命乞いをやったり、血まみれになってころげまわったり、窮鼠猫を噛むというやつで、気ちがいみたいにあばれまわったり——凄じい光景がくりひろげられ、片っぱしから、くたばっていったことでござんす。  忠治もまた、十人ばかりの下役にとりかこまれて、まるで、蟻の群に襲われた芋虫みたいに、のたうちまわって居りました。  からだ中に、刀傷槍傷を受けて、血みどろになった忠治は、血汐が目に入ってにわか盲《めくら》になり、ただもう、きちがい同然に、刀をふりまわすばかりでござんした。  たぶん、晃円坊は、命令にそむいた忠治に腹をたてて、なぶり殺しの寸前まで、すてておいたに相違ござんせん。  突如、風のように、奔り込んで来て、忠治のからだをさらった晃円坊のすばやさは、下役たちに、人間とは思わせなかったことでござんす。  林の中へ、かついで来て、襤褸のように抛り出すと、 「莫迦《ばか》者!」  一喝くれて、瓢《ひさご》の水を、そそぎかけてやりました。  忠治は、陸《おか》へひきあげられた魚のように、口をパクパクやって、その水を飲み、ようやく、人心地をとりもどし、のろのろと起き上って、 「か、かんべんして、おくんなせえ」  と、喘ぎ乍ら、両手を地べたについて、頭を下げたことでござんした。 「莫迦者めが——お先走りし居って、なんたるざまか! 代官を襲うのには、時機があるのだ。おのれら白痴同然の脳みそで、勝手な思案をいたすな。よいか、おのれらは、木偶《でく》だ。この晃円坊に、あやつられて居る木偶だ。それを忘れるな! 爾後、わが命令に、いささかでもそむく時には、容赦をせずに、そっ首を刎ねて、糞溜へ蹴込んでくれるぞ!」  叱咤されて、忠治は、ただもう、額を土にこすりつけるばかりでござんした。  十  山木円五郎が、身振りよろしく喋りたてるのをきき乍ら、作者の方は、自分が調べた忠治実記の方を思い出していた。  忠治が、岩鼻陣屋の代官屋敷へなぐり込みをかけたというのは、どうやら、出鱈目らしい。  岩鼻には、代官所はあったが、代官というものは、平常は江戸にいて、陣屋には、定住していないものである。松田軍兵衛という代官は、関東の何処にも実在していなかった。  おそらく、忠治は、さんざ悪事を重ねた挙句、関東取締役から、逮捕廻状が出たため、赤城山中にひきこもったものに相違ない。  但し、田部井村へは、時おり降りて来て、賭場を開帳していたらしい。  その時、弟分の浅太郎の伯父に当る八寸《はす》村の勘助が、伊勢崎組合の道案内として、出役とともに、忠治逮捕に来る、という名主宇右衛門からの急報があったので、忠治は、あわてて、山中へ逃げ込んだ。  忠治は、 「浅太郎の野郎、裏切って、勘助へ内通しやがったに相違ねえ」  と、憤りたって、あとから登って来た浅太郎を、きめつけた。  浅太郎にとっては、身におぼえのないことであったが、親分の憤りをしずめるためには、やむなく、伯父勘助の首を取って来る約束をし、乾分八人をひきつれて、六里の山道をつッ走って、八寸村に至った。  勘助は、酔って、二歳になる勘太郎を抱いて睡っていた。  浅太郎は、声もかけずに、竹槍で勘助を、滅多突きに突き殺し、その首を刎ねた。  その血刀で、勘太郎の胸をも、無慙に、刺しつらぬいておいて、勘助の首をひっさげると、家をとび出した。  忠治の前に、浅太郎が、勘助の首を据えた時、日光の円蔵がふらりと現れて、冷やかに一言、 「忠治、ヤキがまわったな」  云いすてておいて、そのまま、何処かへ、姿を消した、という。  真相は、そういうところであったろう。  ふと、気がつくと、山木円五郎は、なお、熱心に喋りつづけていた。  ……かくすよりは、洩れるのが早い、というやつでござんすね。  つまり、西部劇に出て来るゴールド・ラッシュが起った、ってえわけで……。  代官松田軍兵衛も、強欲にかけては、人後に落ちる人物じゃござんせんや。幕府の方へはなんの報告もせずに、行動を起しました。古い屋敷なら、わけの判らぬ古絵図面など、いくらでも出て来るだろうし、あれか、これかと、ひねくりまわした挙句、下役、足軽のみならず、人足を集めると、赤城山へくり出した。  忠治一党も、赤城山中に小屋を建てて、頑張りはじめた。  郷士や百姓も、家業をすてて、赤城山へもぐり込んで行った。  こうなると、あっちこっちで、小ぜりあいがはじまり、時には、闇の中で殺しあいまでやらかすことになりました。  山頂の大沼の近くで、鎧が掘り出されると、騒ぎはいよいよ凄じいものになりましたな。  この騒ぎを起した張本人の晃円坊は、まさに、得意の絶頂でござんした。  埋蔵金を狙う連中は、必ず、霊験あらたかな熊野神社に詣でて、祈祷をねがって居ったのでござんす。みごとに掘りあてた場合には、神社に奉納いたします、と誓った金額を合計すれば、十万両以上になって居りましたからね。  代官としては、埋蔵金を一人占めにしたいところで、やくざや小盗人や百姓どもが、あさりまわるのは、許し難い、というわけで、とうとう、赤城登山禁止令を布告したのでござんす。  つまり、国定忠治が赤城山に籠って、捕手方を引き受け、大乱闘を展開したいきさつも、ざっとこういう次第でござんした。  神鴉様の妄想がまき起したとんだゴールド・ラッシュだったのでござんす。  十一  山木円五郎を帰したのち、「柴錬立川文庫」の作者は、紀州S市在住の井筒仙三郎氏より贈られた「神鴉伝奇」をひらいて、読みのこしの部分へ、目を通した。  はたして——。 「赤城神鴉狂乱のこと」という一項があった。  それによれば、晃円坊の、瘡毒による妄想が、途方もなく飛躍した時、熊野本山側でも、ようやく、それをさとった。  晃円坊は、一夜、夢裡に、ついに、その埋蔵金を発見したのである。  そして、この莫大な軍資金によって、徳川幕府を倒し、飢饉に喘ぎ、苛政に苦しむ天下一千万の百姓たちを救おうと、ふるい立ったのであった。  翌朝、晃円坊は、国定忠治に、一党のうちから四十六人をえらんで、代官屋敷襲撃を命じた。けだし、赤穂浪士の古知に倣ったのである。その襲撃計画は、きわめて秀れたものであったらしい。  霏々《ひひ》として寒花の舞う十二月十四日夜半、忠治とその乾分四十六人は、代官屋敷の正門をうち破って、なだれ込んだ。  前の夜襲とちがって、こんどは、晃円坊のアジによって、無智のやくざも、天下万民のためという大義名分に、武者顫いしていた。その奇襲ぶりも、晃円坊の神鴉忍法に則った見事な陣であった。  夜が明けはなたれた時、代官屋敷に斃した死骸は、七十八個。松田軍兵衛の首は、無くなっていた。  門前には、 「蓄え米、何人《なんぴと》と雖も取り出すこと勝手たるべし」  という高札が立てられていた。  飢えた百姓たちは、はじめはおそるおそる、次には狂気のごとくわれ勝ちに、七つ倉から、米俵をかつぎ出して、持ち逃げ去った。  それから三月のあいだに、晃円坊は、博徒四十七人に、上州五軒の富豪を、襲撃させて、多大の成果をおさめている。  赤城山上は、いまや、鳥なき里の蝙蝠の跳梁の観を呈していた。  酒も、米も、そして女も、くらいつくせぬほどかつぎあげられていた。  忠治はじめ、乾分たちは、それぞれ、三人も四人もの女を、かたえにはべらせて、昼夜酔い痴れた。  その夜——。  忠治は、ついに、念願をはたす時を迎えていた。  忠治の前にひき据えられていたのは、上州随一の旧家、嘉門家の一人娘|狭衣《さごろも》であった。  二十余年前、狭衣を奪わんとして、替玉の豚娘ハナをつかまされた忠治であった。  いま、ようやく、拉致することに成功したのである。  当時、十七歳であった狭衣も、すでに四十路《よそじ》をまわっていた。しかし、ただの一度も男の腕の中に抱かれて寝たことのない未通娘《むすめ》のままの肌は、なお二十代の柔らかな艶を湛えていた。  面立は、お小直衣《このおし》雛の貌《かお》にそっくりであった。 「へへ……おれァ、おめえに、二十年も恋いこがれていたんだぜ」  忠治は、舌なめずりして、狭衣の手を掴むと、ぐいと引き寄せた。  四肢をかたくして、顔をそむけると、 「……いや!」  と、小声で叫んだ。 「ふん、四十になっても、生娘にはちげえねえや。可愛らしい声を出すぜ」  忠治は、頚に廻した手で、耳朶をつまんで、ぐいと、顔を仰向けさせるや、その唇へ、口を重ね、舌で、皓歯《こうし》をねじり開けさせて、むさぼりはじめた。  と同時に、猿臀をのばして、裳裾を捲りあげた。  無数の人を殺した五指が、脛《すね》を撫で、膝を滑って、内股へもぐって来た。  狭衣は、腿と腿を、ひしと合せて、爬虫の触手のように冷たい五指を、はさみ込んだ。  忠治は、しばらく、そこに、手をはさませておいて、そのあたたかさや柔かさを、愉しんでいたが、さらに、奥をさぐろうとして、  ——はてな!  と、とまどった。  どうしたことか、押すことも、引くことも、かなわなくなったのである。まるで、膠《にかわ》付けされたあんばいであった。  思わず、顔をはなそうとすると、不意に、狭衣の舌が、忠治の舌に巻きついて来て、ぴたっと吸いついた。 「うっ!」  忠治は、狼狽して、舌を引き抜こうとした瞬間、自分の舌の方が抜きとられるような痛みをおぼえた。  ——夜叉じゃねえか!  そんな恐怖が、脳裏を掠めた。  背中へまわした腕の方へ、渾身の力をこめて、狭衣の頭髪を、ひっ掴んだ。  ようやく、狭衣は、忠治の舌を、口腔内から放した。  忠治は、あぶら汗を顔面に滲ませ乍ら、 「な、なんでえ!」  と、睨みつけた。  狭衣は、ぐったりとした風情で、目蓋を閉じた顔を仰向けている。 「ちぇっ、くそ!」  忠治は、腿と腿のあいだから、手を抜くや、奥へめがけて、突っ込んだ。  途端に、 「あっ!」  と、驚愕の叫びを発した。  そこに、女人にあるべからざる物が、あったのである。  忠治は、それを掴んだのである。  ぐにゃりとした、世にもおぞましい触覚に、反射的に手をひっ込め、 「てめぇ! 野、野郎じゃねえか!」  と、呶号して、突きとばした。  これをきいた乾分たちは、女を弄ぶ手を停めて、一斉に、親分を、視返った。 「やいっ! てめえは、どこのどいつだ? ぬかせ!」  胸ぐらとった忠治は、力まかせに、頬げたを、擲《なぐ》りつけた。  しかし、擲った方の掌が、しびれて、忠治は、顔をしかめた。 「ほほほ……」  狭衣は、はじめて、口をひらくと、美しい声をたてて、笑った。それは、まぎれもなく、女人の声であった。  狭衣は、ゆっくりと、立ち上ると、 「その方ら——下郎ども、もはや、悪業のむくいを受ける秋《とき》が参ったぞ」  と、宣告した。  江戸神鴉は、女人の貌と肌をもった忍者だったのである。  江戸神鴉の足もとで、忠治が、黒い泡を噴いて悶絶した。口吸いのあいだに、毒を嚥まされたのである。  その夜——。  赤城神鴉・晃円坊は、赤城山麓の熊野神社の拝殿で、睡っていた。  時ならぬ鋭い夜鴉の声が、晃円坊の夢を破った。  闇に、かっと双眼を瞠いた刹那、微かだが鋭い一条の赤い光芒が、その眼球に射込まれた。  狂っているとはいえ、その光芒が、本山熊野権現・十六代神鴉の如意鉾から放たれたものであることを直感したのは、流石であった。  あるいは、この稀有の忍法の習得者にして、心中ふかく怖れるものがあったとすれば、本家神鴉伝来の如意鉾であったろうか。  次の瞬間、晃円坊の五体は、羽毛の軽さで、天井へ、跳び上っていた。  程なく、熊野神社の拝殿は、濛々と白煙を吐いて、みるみるうちに、そのすがたを包んでしまった。  その白い闇の中の激闘は、音もなく演じられた。そして、修羅場は、しだいに移って、山頂の大沼のほとりに至った。  その時、すでに、晃円坊は、襲って来た十三人のうち、七人までを斃していた。十三人は、いずれも、本山から命令を受けた一騎当千の江戸鴉たちであったが、関東管領たる赤城神鴉の神技を封ずるには、なお術が及ばなかったのである。狂気は、かえって、晃円坊の神技を冴えさせたのであったろうか。  七人を斃して、山頂へ達した晃円坊は、異様な奇声を発して、水中へ、姿を消した、という。  それを追って、三人の江戸鴉が、飛び込んだが、忽ち、二人は、鎖罠にひっかかって、底に沈んだ。水練を得意とする一人は、巻き藻の術にかかって、絶息した。手足の自由を奪われ、鼻孔口腔に藻を巻きつけられ、ひるむところを、肛門を刺しつらぬかれたのである。  夜が明けはなたれるまでに、晃円坊は、さらに、三人の江戸鴉を、ほふった。  そして、生残った一人によって狂える忍者の最期が見とどけられた。 「神鴉伝奇」には、その最期を、木|ぬれ《ヽヽ》を求めるむささびの如きものでありし、と記されている。  万葉集に、 「むささびは、木ぬれ求むと、あしびきの、山のさつをに会ひにけるかも」  という一首がある。  赤城山中第一の巨樹の頂きで、晃円坊は、額のまっただ中に、如意鉾を突き立てられて、死んでいたのである。  神鴉同族間の凄愴をきわめた闘争を、世人はついに、知らぬ。  日光の円蔵を喪った国定忠治は、羽根をもがれたむく鳥であった。  嘉永三年十月、忠治は、出役に逮捕された。出役は、よだれをたらし、四肢を顫わせる忠治を、中風と看た。忠治は、江戸鴉によって嚥まされた毒によって、全身不随になっていたのである。  幕府勘定奉行池田播磨守掛りで取調べられた忠治は、同年十二月二十一日、碓氷《うすい》・大戸で、刑に処せられた。行年四十一歳。  二本の槍を突き通された時、忠治は、まるで、夜鴉のような叫びを発したそうである。  解説  柴錬、柴田錬三郎は「小説の面白さ」ということに最後までこだわり続けた作家であった。  大衆文学が営々と培ってきた伝奇ロマンの系譜を受け継いだ戦後の時代小説作家として、彼は常にこのジャンルの第一線に立ち、小説は「嘘」でもって書くのだということを主張し続けた。彼はこのことに関して、かつて次のように述べたことがある。 「小説というものは、元来、嘘を書くものである。嘘を、まことらしくみせかけているだけで、どんなに私生活に忠実そうな私小説だって、やはり嘘である」 「嘘」、つまりは自由奔放にして円転滑脱なる想像力である。柴田錬三郎にとって、「根も葉もある嘘」こそが小説であり、そこに「花も実もある絵空事の面白さ」を求める姿勢を一貫して崩すことがなかった。それ故にというべきか、彼は私小説を退け、そして、時代小説が歴史小説に傾斜していく傾向を徹底的に嫌った。私小説といえども「嘘」であり、また、歴史の約束事に制約されていては自由奔放に想像力を駆使することができないからだ。  こうした独自の小説観を持つ柴錬が生み出した主人公・眠狂四郎は、机龍之助(中里介山「大菩薩峠」)や丹下左膳(林不忘「新版大岡政談」)といった戦前のニヒル剣士の系譜を継承しつつ、戦後の状況に見合った全く新しいタイプのヒーローとなった。  それともう一つ、柴錬文学の中で見落としにできない重要な要素は、作者の死生観の表出である。  柴田錬三郎は戦時中に海上を七時間余も漂流して奇跡的に救出されたという数奇な体験をしている。昭和二十年四月、二度目の召集で陸軍の海上輸送部隊に衛生兵として配属された彼は、南方へ派遣される途中の台湾南方のバシー海峡で敵艦の魚雷攻撃を受け、輸送船が撃沈、海上を当てもなく漂流したのだった。助かる見込みは全くなかったという。僚船に救出されるまでの記憶は乏しく、「わが生涯の中の空白」と彼は称したことがある。そして、「あの空白の数時間が、私に、一種の度胸をつけたことはまちがいない」としながらも、 「べつに、バシー海峡の荒浪へとび込まなくとも、私は、週刊誌の需要に応じて、眠狂四郎をこの世に送り出したかも知れぬ。  とすれば、あの経験は、私の人生の上で、なんの意義もなかったということになる。ただの空白でしかなかったわけである」(「地べたから物申す」)  と記している。果たしてそうか。生死スレスレの七時間余にも及ぶ漂流体験は、その後の彼の死生観に強い影響を与えているとみていいだろう。  柴田錬三郎の初期作品、例えば、昭和二十六年に直木賞を受賞した「イエスの裔」や、同じ頃に発表された「デスマスク」、その後の「死者の唇」などには、彼の死に対する特有の姿勢と、そこから派生してくる虚無感が漂っていた。人間の善なる部分が虚無的な哀愁を帯びて迫ってくる。それを真正面から直視できる非情さは、彼の死に対する確固とした姿勢につながっているものだ。そして、この死に対するモチーフは、戦後時代小説のニヒルなアウトローの代表選手ともいうべき眠狂四郎の中にも、まぎれもなく受け継がれていることが分かる。  こうした死生観を基盤として、柴田錬三郎はその豊かな想像力と広大な構想力で、戦後の伝奇ロマンの世界を支え続けたのである。その彼が、奇想天外な発想と荒唐無稽なストーリー展開という面白さにあふれた「立川文庫」に挑戦した。その面白さを単になぞったものではなく、現代人のスピード感覚に合った新しいものを創造しようとしたのである。この「柴錬立川文庫」シリーズがそれだ。  九つの挿話からなる「忍者からす」は、戦国期に暗躍した熊野権現の幻の兵力、変化自在の忍びの一団という構想に基づいており、寛永御前試合を扱った「赤い影法師」の系譜に属する忍者伝奇小説である。第一話、物語の発端は元中三年(一三八六年)秋に始まり、終章の第九話は嘉永三年(一八五〇年)十二月で終わる。実に四百六十年余にわたって、時代を超え、意外な人物と交錯しながらストーリーが展開されていく。  熊野神鴉党は、日本全国に散らばる三万六千もの熊野神社の末社を諜報網として隠密の行動をとる忍者組織である。初代の「鴉」は、熊野灘に面した太地の湊で生まれた。湊が開かれて以来の太地小町ともてはやされた於兎と天竺渡来の船造師・首比達との間の異形の子であった。この不思議な男の子は、生来、色が黒く、おまけに口の上下の骨がはなはだしく突出していたために、本名では呼ばれず、もっぱらあだ名の「鴉」で噂された。「鴉」は十一歳の時から、稀代の忍者としての修業に専念する。この初代「鴉」の秘密は、日本の忍びのそれではなく、天竺婆羅門の幻術あるいは妖術の流れをくむものであったとみえ、変化自在の神通力の持ち主として人々の信仰を集め、熊野一円に強力な忍びの集団をつくりあげていった。  これが第一話「忍者からす」で語られる初代「鴉」の誕生の因縁と熊野神鴉党の由来である。異邦の男と倭人の美女、この組み合わせは眠狂四郎の出生の秘密を思わせて興味深いものがある。初代「鴉」が組織した熊野神鴉党は戦国期に暗躍し、その後も歴史の裏側に潜む陰の存在として江戸時代に至るまで連綿と続き、第二話「一休禅師」以下、山中鹿之介、塚原卜伝、丸目蔵人、由比正雪、幡随院長兵衛、蜀山人(大田南畝)、国定忠治と、さまざまな人物とかかわっていく趣向になっている。一休禅師は初代「鴉」の孫、由比正雪は石田三成の娘が熊野神鴉党の若者と契って生まれた子、幡随院長兵衛は豊臣秀頼の遺子で女鴉に育てられたなどなど、柴田錬三郎の「嘘」のつきよう=空想力のたくましさは、まさに天馬空を駆ける魅力がある。  大衆文学が本来的に持っている面白さのエネルギーは、このように空想の翼を、時には荒唐無稽なまでに広げるところにあるといえよう。その空想の翼に乗って、豊饒なロマンの世界に遊ぶ愉しさが、伝奇ロマンにはある。日本の近代文学が落ちこぼしていったこうしたロマンを丹念に拾い上げることで、大衆文学は自らの存在意義を確立してきたのだ。  歴史文学志向が強くなって、荒唐無稽の面白さが低く見られがちな現在こそ、柴田錬三郎が主張してやまなかった「花も実もある絵空事の面白さ」にあふれた小説がもとめられているのではないだろうか。(清原康正) ◆忍者からす◆ 柴錬立川文庫 柴田錬三郎著 二〇〇六年一月二十五日